2012年6月10日日曜日

ノスタルジーとは。

今日はけっこう、どうでも良い話です。

久しぶりに・・・もう二十年ぶりくらいに村上春樹の「ノルウェイの森」を読んだから。

当時の感想は「なんじゃこりゃ、こんなキレイなもんじゃあるまい。これは単なるファンタジーだよ。変にノスタルジックで気持ち悪いし!」

みんな、あれ読んだこと、ある?

繊細な人間の生き死にの話です。

確かに、今読んでみても、あれはある種のファンタジーなんですよ。でも捉え方が変わった。つまり自分が変わった。どう変わったかって、歳をとったんです。

当時は、もっと野生だったのでしょうね。私は割と心の線の細いたちで、19、20歳の主人公達の感覚は分からないではなかった。生きることは死を含み、とても残酷で苦しいことだった。もっと原色でもっとリアルなくせに曖昧で捉えどころが無く、だから苦しかったし、それを綺麗なフィルターをかけて一つのファンタジーに仕立て上げた小説が、なんだか嘘っぽく思えたんだよね。こんなキレイゴト!・・・って読後ちょっと憤慨した。

しかし、いくら生きることが苦しい、といったところで20歳の生命力は野生ですよ。エネルギーがいっぱいあるからこそ、痛みにしても喜びにしても扱いあぐねて苦しいんです。40の今の私から見たら当時の私はやっぱりギラギラに輝いて見えると思う。仮に「ノルウェイの森」がフィルター無しの生々しい痛みを伴った小説だったとしても、読んで耐えられるパワーがあった。

でも、今になって思うのです。今のそんな正面切った痛々しいものを読んだら居たたまれなく、私にはきっと耐えられないって。やっぱり歳をとった・・・人間的になったんだと思う。ファンタジーで何がいけない。


小説の中の後半に、こういう文章があって、多分これがあの本の結論だと思います。


キズキが死んだとき、僕はその死からひとつのことを学んだ。そしてそれを諦観として身につけた。あるいは身につけたように思った。それはこういうことだった。


「死は生の対極にあるのではなく、我々の生の内に潜んでいるのだ。」


ここまではありがちな定理でしょ。でも続きがある。


たしかにそれは真実であった。我々は生きることによって同時に死を育んでいるのだ。しかしそれは我々が学ばなければならない真理の一部でしかなかった。直子の死が僕に教えたのはこういうことだった。どのような真理をもってしても愛するものを無くした哀しみを癒すことは出来ないのだ。どのような真理も、どのような誠実さも、どのような強さも、どのような優しさも、その哀しみを癒すことはできないのだ。我々はその哀しみを哀しみ抜いて、そこから何かを学びとることしか出来ないし、そしてその学びとった何かも、次にやってくる予期せぬ哀しみに対しては何の役にも立たないのだ。


二十歳の私に悟り得たのは「真理の一部」だけであったということ。相反する二つの真理は共存していて、人間とはそんな風にやりきれない存在だった。その哀れさは枯れて初めて分かるものなのかもしれない。「若さ」がたとえ刃物の上を歩くような危ういものだったとしても、やはり若さは「力」だったと思います。

最近、家族を亡くした友人がお酒を飲んでこう語っていたのがずっと胸に引っかかっている。

「確かに人間はいつかは必ず死ななきゃいけない。それは真理だけど、(愛する人を無くした人に)でもそれを言っちゃ駄目だよ。それを言っちゃ駄目なんだよ。」

私の人生は確実に折り返した。

そういえば、あの本が出版されたとき、村上春樹は30代後半の頃だったと思う。いろいろと切ない小説です。映画も見てみようかなって思ったよ。