2022年1月7日金曜日

新年のご挨拶 &言葉とか諸々の話~「伝える」ことについて①

まだ松の内、ぎりぎり滑り込みセーフ!

ということで、皆さま、新年あけましておめでとうございます。

本年もみんなで心身ともに健やかな毎日を過ごして行きましょうね!



インドに居るときは忙しくて、インドから帰国している夏の間もまた忙しくて、この10年あまり、ブログを書くのを縮小気味でした。

おいおいコロナ以降日本にいるじゃないかって?

そうなんですよ~(笑)。

日本にいても、あまり書いていないんです。

それには多少なりの理由があるんだけどね。

一言では表し難い諸々を長々と語るところから、また前向きに書き始めようかなと思ってます。


そういえば年末に「2016年のこの記事で引用されている小説のタイトルを教えて下さい」というお問合せを頂いて、なんだか嬉しかったんですよね。

自分でも書いたのを忘れているような言葉たちが、いまこの瞬間に誰かの心にあるのだと思うと、そっと背中を押された気がしました。


ということで、さっそく言い訳から入ろうではないですか(笑)。

最近書かない理由について。

日々生きながら「伝えたい」と思うことの数々を、毎週のアーサナのクラスで実際にお会いして、ZOOMの講義で顔を合わせて、存分に伝えてしまっているからなんですよね~。


2005年の年末から今の仕事に就いたときから、そのスタンスは変わっていません。

アーサナのクラスでも、ヨーガとは何なのか、体操を通して皆さんに理解して欲しいこととは何なのか、言葉にして伝えてきました。

しかし、如何せん当時はすごい数のクラスを教えていた為、希釈してしまうというのかな、自分でも伝えきってない感がありました。

なのでクラスでお話し出来なかったことを文章にして、生徒の皆さんにお伝えしていたわけです。

今や人にも会えないし、クラスの数も少なくなって、一球入魂に満足してしまうんでしょうね。


しかし時代はコロナで変わった。

私の方は満足かも知れないが、日常的に私の顔を見ている僅かな人達にだけにしか、私の言葉は届いていないわけで、これもまた不公平というか、非均衡的な気もします。

そこを踏まえて、今年はクラスでお話ししたことを、クラスでお会いできない人の為にも書き残して行くことにします。


先日、とある小学校で教えさせていただいた時

「このお話を今度は皆さんがお家の人に教えてあげて下さい。」

と言ったら、本当にお正月におばあちゃんに教えてあげた子がいました。

親御さん曰く「おばあちゃんが、あのお話をお友達にしてあげたいのだけど、分からなくなっちゃったから、このお話が読める本があれば教えて欲しい」とのこと。


しめしめ。まさに私の狙い通りだわ。

でも、こんなにハイスピードで伝染するとは期待していなかった。

これは嬉しいご報告ですよ。


私の仕事とは、この草の根運動、伝播活動な訳ですが、このお話は10年以上も前にスワミジが聞かせてくれたお話で、本も動画もない。


そんなこんなで、書き残しておくことが助けになることもあるかな?と思い至った次第です。


と言う訳で、「ブログ頑張る」を新年の抱負とさせていただきます!

本年もよろしくお願い申し上げます。



②に続く。


















2021年12月31日金曜日

Yoga ~知識と暮らしのリトリート~番外編「やんばるの森のヨーガリトリート」2022年4月1日(金)~4日(月)



こんにちは。皆様お元気ですか?

本日はタイリトリートの再開をお待ちくださっている皆さまへお知らせです。

コロナウィルスの出現以来、ホシハナヴィレッジ(利用することで孤児たちのホームであるバーンロムサイをサポートします)での恒例の合宿をお休みしています。

2021年は本来10周年の特別回のはずでした。
ホームの子供達を招待出来るように、色々なイベントを考えていたんですよね・・・。

でも、私はフェイドアウトはしない。
おろちだから。
必ずや10回目まで漕ぎつけますから待ってて。

さて、年も明けまして2022年。
今年もやはり開催は難しいのだと思っています。

しかし、国境を超えない場所で、小規模な番外編を行うことにしました。

激動の二年間を駆け抜けてきた皆さんが、無理にでも立ち止まって目を閉じる時間を作れたらいいな、と。

必要な方が、辿り着いて下さったら、嬉しいです。

通常タイでの合宿は、心身の習慣の改善を目的として10日間前後の長丁場です。
その為、長くお休みを取れる方だけにご参加いただいていましたが、番外編は短期。

タイ北部と気候が似ていて、全国各地から直行便のある沖縄本島を選びました。

こういうことでもなければ訪れる機会のないであろう森の中ですが、ここ、実は世界自然遺産なんですよ。

ちなにみ初日の4月1日は新月にあたります。
星の数を思うと今から身震い。

また、特別イベントとして、情熱大陸で紹介された森岡農園さん(やんばる野草酵素シロップのふるさと)に野草のワークショップをお願いしています。





タイリトリートにも負けないお土産企画も抜かりなく。

また、ホシハナヴィレッジの美味しい菜食メニューをみんなで再現出来たらいいなと、目論んでいます。


沖縄では旧暦の2~3月頃、梅雨入り前の新緑の時期を「うりずん」と呼ぶそうです。
島の人たちが愛する‟うりずん”のやんばるに ‟めんそーれ”!

詳細は写真の後にございますので、ご確認ください。


ロケハンに行ってきました。12月なのにこの空の青さ!


宿泊するお部屋へはせせらぎを渡って。


森の中の陽の当たるガーデン


ブランコ


南国感ありますね。亜熱帯の植生。


宿泊予定の森の中の古民家


古民家の洋室


古民家の和室


森の中のコテージは男性の方も泊まれるように貸切可能とします。


森の中のせせらぎの傍でアーサナも可能ですね。


周辺に商業施設はありません。あしからず。


でも、お籠り場所としては究極かも。


【やんばるの森のヨーガリトリート】
日程:2022年4月1~4日(三泊四日)
会場:沖縄県国頭郡東村
参加費:65000円(先着一棟コテージ2名貸切の場合は+5000円、3名以上の場合は追加料金無し)
最少催行人数:2名
最大定員:7名
お申込&お問合せ:sivanandakendram@gmail.com またはfacebook
お申込〆切:3月25日(金)※26日以降のキャンセルには宿の規定に沿って料金が発生します。

※相部屋のため、男性のご参加は、ご夫婦やグループでコテージを貸切っていただける場合に限らせていただきます。
※迷惑メールとして認識され不達となるケースが多く発生しています。3日以内に返信が届かない場合はfacebookからメッセージをお願いします。
※現地集合です。交通手段についてはお申込時にお伝えします。
※料金に含まれるもの→宿泊、一日二回の食事、アーサナ他クラス&ワークショップ。

内容:アーサナ、プラーナーヤーマ、瞑想、講義、キールタン、料理実践、その他ワークショップetc. 詳細についてはお問合せ下さい。

僕シロハラクイナに会いに来てね!







 

2021年12月12日日曜日

グループチャンティング 12月24日(金)20:30 Lalitasahasaranamastotram with Swami Nivedanananda ji



12月。

私の住む小さな街のあちらこちらが、意外にもノエル仕様に飾られています。
意外にも「電気を無駄に消費して!ケッ!」とかは思わないのです。

背景に「明るい幸せな時間を過ごしたいね☆彡」という人間のささやかな願いがあって、わざわざそこに電飾が施されるわけで、その人間の慎ましやかな願いを、小さな電球の数々の煌めきが代弁しているようで、それがキレイ。

なんかいいなあって思う。

「街を明るく飾って購買意欲を駆り立てて、バーゲン商戦を盛り上げよう!」という大義名分があるのかも知れないけど、それとて、やはり背景には、命の数だけ「幸せ」を思う慎ましい願いが存在してるんだもん。

みんなに幸せがあるといいね。もちろん私も含めて、みんな。


ということで聖夜のひととき、インドにおられるスワミジとご一緒しましょう。

今月は24日(金)クリスマスイブです。

日本時間の夜8時半。仕事をすべて片付けて、入浴も済ませて、静かな気持ちで座っていただくとよろしいと思います。場所的に声を出すのは難しい場合は、静かにスワミジのお声に耳を傾けて瞑想して下さいね。

スワミジと私

トピック: Lalitasahasranama Stotram Chanting with Swami Nivedanananda Ji
時間: 2021年12月24日(金)08:30 PM 大阪、札幌、東京
ミーティングID: 824 9321 0346
パスコード: 108108


※通信上の問題が発生した場合には、中止または延期になる場合がございますので、ご了承下さい。

※お手元に「Lalitasahasranamastotram」の本が無い方は、WEB上にPDFをダウンロードできるサイトがいくつかあります。(例:サンスクリット版英字音訳版
※入室時にパスコードの入力でミスがあると、誤ったコードをブラウザやアプリが記録してしまう場合があります。何度入力しても繋がらない場合は、アプリやブラウザを再起動して再トライすると良いと思います。
※音声の伝達速度にバラつきが生じるため、スワミジ以外のマイクはミュートして、それぞれスワミジのお声に合わせてご自宅で詠唱します。

2021年11月23日火曜日

パタンジャリスートラについての一家言


ここに古くて巨大な塔がある。シンプルで原始的な外観だが、周囲の景観や空の広がりとの奇蹟的な調和していて、なんとも言えない神々しさを醸し出している。塔は、祖父のその祖父の時代にもあったというし、そのまた祖父の時代にもあったという。災害の多いこの土地で、倒れることなく存在し続けるその塔は、いつしか、土地に住む人々の心の平安と信仰の拠りどころとなっていった。

しかし、これがいつどうやって建てられたものか、具体的なことについては誰も知らない。地質学的な調査によれば、少なくとも三千年はそこに立っているそうだ。火山が近く地震が多発するこの場所で、このような直感的なデザインの建物が無傷で存在し続けていること自体が奇蹟であり、当然、建築家や学者など専門家たちの耳目が集った。

時は21世紀。X線、超音波など様々な技術で非破壊測定したデータを、コンピューターで立体的に解析、計算できるようになった。学者達は、この「子供の作った砂の城」のような塔が、実に緻密な繊細な構造によって、環境変化に機能的に対応しつつ三千年もの間変わらずに立ち続けていることを初めて知ることとなる。

・・・というのは、私が作ったウソの話、もといフィクションです。写真の塔もまったく無関係。綺麗なお寺ですね!


今日は、一般的な内容でなくてすみません。

俗にヨーガスートラと呼ばれるパタンジャリのヨーガダルシャナについて、思うところを記録しておこうかなと思います。


ヨーガダルシャナはその名がメジャーになったことで多くの人に誤って理解されている文献で、その誤解の種類は主に二つです。

①ヨーガダルシャナに出てくるサマーディは、ヴェーダーンタダルシャナのモークシャとイコールである・・・という理解。

②ヨーガダルシャナは「人生で目指す究極のゴールはサマーディと呼ばれる心の状態である」という説を論旨とし、「私とイーシュヴァラは別のもである」と主張している・・・という理解。


番外編としてもう一つ。

③ヨーガダルシャナは「ドラッグ体験と同等のサイケデリック体験」を述べたものという誤解。


③は「光」などの言葉を一般日常的な意味に解釈することにより起こる誤った解釈で、語るに及ばないので、置いとておくとして、①はきちんと勉強していない人による解説本や、ヨーガスタジオのTTCなどでそういった先生から教わることで発生する、最も一般的な誤解です。


②は有識者によるヴェーダーンタダルシャナの視点に寄せた言語解釈による誤解。

これは読み手がヴェーダーンタの寄りの着地をしたり、ヨーガダルシャナを題材にヴェーダーンタを着地点とする講話を聴いたりした場合に生まれる矛盾が発端かと思われます。


例えば、平面について議論がいつの間にか立体にすり替わってしまうと、ロジックが成立しません。


この「寄せた解釈」による論理の破綻は(③の荒唐無稽解釈もですが)、日本で手に入る訳文の多くに見つけることが出来ます。

「寄せた解釈」は第一章の3節に種を撒かれますが、大きく道を逸れる起点は同じく16節、36節といったところでしょうか。第一章でこのスタートを切ってしまうと、その後は完全に捻じれてしまいます。


ヨーガダルシャナは、「ある種の人」が持っている「揺れない心」を、「心」の立つ次元から観察しています。

大地震にも揺るがずに聳え続けるあの塔を、X線や超音波を使って構造学的に分析したように。

パタンジャリ先生の、凡人のレベルと完全にかけ離れたX線ばり超知性による解析です。


ここに一枚の色鮮やかな写真があるとしましょう。

Aさんの見ている写真は「様々な色が張り付いている平面の世界」。

しかし写真家のBさんにとってのそれは「無限の奥行の中を立体的に走る光の3D世界」です。二人は同じ写真を見ているけれど、実は見ている次元が違う。

「そこにあるのは光じゃなくて色だよ」とAさん。

でもBさんが見ているのは、写真をいっぱいに満たしている光だけなんですよね。


そもそも色とは何か。


すべての色の源である「光」の、一部の波長の反射が「色」です。

その視点からいくと、写真家の言うことは正しい。そこには光しかない。

でも写真家は「色は存在しない」とは言わない。

色が光であることを知らない私はただ色だけを楽しんでいて、写真家は光を知っていて光である色を楽しむ。


②は、「ヨーガダルシャナは光を否定するものだ」「『そこにあるのは色であって光ではない。光と色とは別ものだ!』と主張している」という解釈のことです。

が、ヨーガダルシャナは光の否定を意図するものではなく、光という全体に対して、色という部分視点から「光の構造」を説こうとする「色彩学」のようなものと言えるのではないでしょうか。

Aさんにとっては色だけが確かな真実だから、「光」の存在を実感として知らないけれど、Bさんは画角に入るものすべてを「光」として知っている。そして「色」の存在を否定しない。「光」が一時的な色として顕現していることを知っているからです。だから、そして、その色を自在に扱う。

・・・なんか、写真家ってすごく素敵な仕事ですね。

(ちなみにパタンジャリ先生がAさん側とは到底思えません。)

この例えにおける色の視点からの分析がヨーガダルシャナです。


敢えてヴェーダーンタ用語でいうと、アンタッカラナの構造学でしょうか。アンタッカラナとは「思いめぐらし考える機能」、すなわち「思考」という働きのことです。

「思考」という機能は、「想念」という対象物を扱う道具です。掃除機がゴミを吸うように、冷蔵庫が物を冷やすように、思考はもともと二元的な働き方をします。

そこには必ず、思考(Mind)という「主体」と、想念(Thought)という「客体」の相対的な関係性があります。ヨーガダルシャナは、その二元的な働きをする「思考」機能の構造を分析するものなので、当然のことながら二元的な視点を軸に展開されます。

私がストーカーしたところによると一元論の否定を意図するスートラは、一つも見受けられません。


ヴェーダの世界観の裾野は広大ですが、その世界観はたったつの頂上を目指しています。先ほど「ある種の人」と書きましたが、それって裾野でクダを巻いている人ではなく、私たちが目指すところにある「人」のこと。

ヨーガダルシャナは「その人」の持つ「揺れない心」をアンタッカラナの視点から分析したマインドの構造を示す学問であり、同時に思考野における様々なサーダナを示唆しています。


あの塔さぁ、分析しようがしまいが倒れないで建ってるんだからいいじゃん。

揺れない心揺れなさは揺るぎないんだから、別に分析する必要ないじゃん。


・・・て思うんだけど、「揺れない本人」の為ではなく、「揺れちゃう私達」の「知りたい気持ち」に応える分析なんですよね。構造を知っている方が車を扱い易い。

激動の日常生活・・・好き嫌いや幸不幸にハンドル取られまくるワインディングロードを乗りこなして目的地を目指すための自動車教習みたいな・・・。

教習所に通わなくても自在に車を操れるセンスある人もいるけれど、殆どの人はそうはいかきません。

私も教習所でエンジンルーム見せられたけど、何もかも把握できず空飛ぶ絨毯に乗ってる感じを離れられません。結果、私の運転は人に非常に嫌がられます。


今日は小難しい話になってしまいましたが、印刷技術やインターネットが発明されたことにより沢山の人がすでに混乱していることを鑑み、敢えて忘備録的としてメモしておきました。

次は、小難しくない話でね!

またね!










2021年11月15日月曜日

お久しぶり。みんなのQとしーたのA



お久しぶりでございます。最近、大事な話はいつものクラスで面と向かってお話ししてしまうので、ブログに書くモチベーションをすっかり失っていたんですが、コロナ以来、お会いでいる人の数にも限りがあるし、やっぱりブログ、書いた方が良いかな・・・ってちょっと思い返しまして、久々に。


面白いことに、同じ時期に同じようなことが重なるってありませんか?

先月は複数の人からいただくメッセージに「バガヴァッドギーター」という言葉がやたら出てきました。なので、久しぶりに「みんなのQとシータのA」です。

多少の校正をいれながら、今回はKさんとのやりとりをご紹介しますね。ご質問の内容に伴いちょっとショッキングな単語も出てきますがご容赦下さい。赤字の部分が私です。以下長くなりますのでゆっくりどうぞ。

質問なのですが、自分でもどう伝えて良いかわからないままなので、文章がしっちゃかめっちゃかになってしまうであろうことを、先に謝っておきます。行いをした結果は神がもたらすものなので良いも悪いもないということですが、では、殺人や自死、犯罪などもそうなるのでしょうか?

→まず、言葉を整理するところから始めましょう。殺人、自殺、犯罪というのは私が選ぶ「行い」の選択肢の一つですね。

 人間には選択の自由がありますが、カルマヨーガの「行いを神への捧げものとする」という観点から言うならば、「アンタ、殺生とかそんなもん神様に捧げていいんですか?」ってことですね。愛する恋人への記念日のプレゼントに、墓掘って盗んできた来たネックレスとかあげないですよね。神への捧げものはSattvaなものであるべきです。行いを神への奉納品と考えるとき、我々人間の行動の選択に自然とガイドラインが出来ます。

 

それらも欲を持ち行動を起こした「結果として」他人や自身の命がなくなったにすぎなく、そこに善悪はないのでしょうか。

→この質問は「行いの結果の受け取りについて」と捉えていいですかね?

とすると、他人の選択した殺人という行為の犠牲になることも「結果の受け取り」ということになりますが、ここで原因と結果の関係を思い出して下さい。木製の机(結果)の材料(原因)は木ですので、「木製の机」は姿を変えた「木」にほかならず、この机は「木らしさ」に満ちていますよね。磁石がひっつくなどの鉄らしさは微塵も備えていません。原因と結果は似通った性質を持つことが分かります。これは我々の住む世界における一つの摂理です。

この因果という摂理の視点からお話しさせていただくならば、殺人の犠牲になるという事象は、似通った質の行いを原因とする果報であって、この視点の基準は原因と結果であり、そういった意味では、Kさんのおっしゃる通り善悪云々ではありません。「自分が受け取るもの(結果)は、自分のやった行い(原因)らしさに満ちる」という摂理の視点から見たら、善い結果だろうが、悪い結果だろうが、自分に還ってくるだけのことなんだから等しく受け取るしかないんですよ。でも「イーシュヴァラのプラサーダと思えば受け取れるでしょう?」っていう話です。


アルジュナが王家の人間として既に生まれてしまったというのは、本人の過去の行いの結果なので受け取るしかありません。彼の置かれた状況だと、もう戦う以外の選択肢が残されていないんですよね。(どういう状況かは後で説明しますね。)

 

但しこれは、私たち人間の短い一生のなかに限定された話ではないので、証明も出来ない代わりに否定も出来ない、人智の及ばぬ法則である点に留意して下さい。この全体の摂理をイーシュヴァラと呼びます。

 

もちろん、その先捕まって罰を受けるのも「結果」であるでしょうけど。

→一方捕まって罰を受けるのは、人間の一生という短い時間に目に見える結果ですね。沢山の個人が集まって暮らす為には、社会的なルールが必要です。ダルマという言葉は色々なレベルで様々な意味として使われますが、この社会的なルールもまたダルマと呼ばれます。命を殺めることはダルマに反します。誰も殺されたり傷つけられたりすることを望んでいないからです。Kさんのおっしゃっている善悪は、この社会的視点に立つときに出現する言葉です。良いとか悪いとか、好きとか嫌いなどの相対的な概念です。

大抵、人間の視野は狭く、自分や、自分の家族、自分の仲間、自分の住む人間界のことしか気にしていません。人間社会で鳥の丸焼きは悪と呼ばれまていせん。しかしこの地球上には人間だけではなく、他の沢山の生命が存在しています。広い視野を持つとき、動物や魚を殺すのはやはりアダルマですよね。だって魚だって鶏だって殺されたくないですもん。

とはいえ広く地球上には、肉を食べないと命を繋げない境遇にいる人間(北極圏に暮らす人とか)もいるでしょうし、人間を食べないと今日の命を繋げない状況の獣もいます。もちろんそういう境遇に置かれること自体も過去の行いの結果ですが、今日熊を殺したら、いつの日か熊みたいなものに殺される結果が実ることでしょう。トマトを食べて栄養を得る私たちも、いつか土に還ってトマトに栄養を与えます。因果とは、好き嫌いとか良い悪いとは関係ない、つまり自然のサイクルです。


ギーターの話になりますが、クリシュナがアルジュナに戦えと言ったことも、モヤモヤ納得がいかない所です。

その後クリシュナが説く、カルマヨーガやバクティなどはわかるのですが、「だから」戦いに行きなさいというのが、うーん…と感じる所です。

→ギータ―の中でアルジュナが置かれているシチュエーション。これは我々平凡な民の日常に起こる問題をはるかに超えた、究極の選択を迫られた男性の話です。誰だって人(アルジュナの場合はしかも愛着のある人達)を傷つけたりしたくないのに、戦わなくてはいけない。そんな、人間として一番苦しい状況に置かれた人がアルジュナです。


この戦争に至るまでアルジュナ王子達は、ドゥリョーダナの悪政を食い止めようとあらゆる交渉を行ってきました。しかし絵に描いたような悪代官ドゥリョーダナの暴走は止まりません。越後屋もびっくり。ダルマもへったくれもありません。(国を治める人物として有名どころでいうと)ヒットラーに勝るとも劣らぬ大暴走です。


国民を守るべき役職にアルジュナは「戦争するってことは相手を殺したり傷つけたりしなくてはならない。でも従兄のドゥリョーダナはじめ、兵隊たちもみんな知らない仲じゃないし、オレ嫌だよ。無理、無理、無理、この戦、マジでダレ得?戦うのを辞めて森に行って瞑想する人になりたい・・・」って言いだしました。


(先ほどから個人名出して恐縮だけど、分かり易いように・・・・)ヒットラーの大暴走はご存知でしょうけど、悪政をストップすべき立場の人が「ヒットラーは放置します。私はインドへ行って出家します」みたいなことを言っている。

でももし私がアルジュナの立場なら・・・暴君と化したとはいえ身内と戦うなんて嫌。

でも、懸命に生きている幾億もの尊い命の時間が、暴君によって凌辱されるのも、嫌じゃない?


「結果として」命が奪われるだけだというのが…

→果たして結果は「命が奪われるだけ」だったでしょうか?


私は、戦うことで他人の命を奪ってしまうのが怖いと言ったアルジュナの気持ちの方が良いのかなと思うのです。

善悪は、時代や国、宗教、個人でも判断が異なるものなので、あの時代クシャトリヤとして戦うことがダルマで仕事だから、怯えずその責務を果たしなさいということで、現代(?)に当てはめて考えるのはおかしいのかもですが。戦わず平和に(?)とならなかったのは何故なのか物語だし、深く考えるなって感じなのかな。

 バガヴァッドギーターは「自分で読んで勇気を貰えて、ついでに学ぶところもある歴史ドラマ」ではなく、ちゃんとした先生の解説とセットで勉強するもの (= 厳然たる教え、ヴェーダーンタの聖典)なので注意が必要です。


ギーターは「戦争をしろ」と言っているのではなくて、(だいぶ端折りますけど)「行いを通してイーシュヴァラを理解する」というサーダナについて語っているんです。「その為には好き嫌いを基準にして行いを選択しませんよ」と教えてくれています。すべてにイーシュヴァラを見るという姿勢を貫くことが、その助けになります。


「牛を殺してステーキ食べちゃう☆彡だって美味しくて好きだから☆彡」というのは、サーダカのサーダナとしてはどうでしょう?って話ですね。アルジュナが戦うべき理由は「楽しいから」ですか? 逆に戦わないべき理由は「楽しくないし好きじゃないから」でいいですか?


確かに、アルジュナの置かれているのは極限的な状況で、平凡な私たちには計り知れない。

でもアルジュナ程では無いにしろ、私たちの人生にだって時には受け入れがたい苦しい状況ってあります。

その時、私は、何を基準に次に取るべき行動を選択したらよいかって話です。好き嫌い、快不快を基準にしたらいいのでしょうか?


 先生達やクリシュナの言うことはよくわかるのですが、犯罪を正当化させる (?) 理由になり得るよなぁと思ってしまうのです。

→「よくわかっていない」んですよ。確かに、ちゃんと資質のある先生の解説とともに学ばないければ、ギータ―が犯罪を正当化する理由になってしまいます。だからこそ、きちんと学んでいただきたい。700節、長い道のりですけどね。一緒にどうですか?


人殺しや自死が「悪」というのは、今私たちにある倫理での話だし (動物には良いも悪いも無いですもんね)、神からしたら命が失われるのはどんな風に失われたとしても、ただの事象でしかないのですよね。

善悪でジャッジしようと考えるから混乱するのでしょうけど、やっぱりモヤモヤします~。

そこを超えた次元にいかなきゃなんですよね。。。

→人間が十人いたら十通りの「悪」があるんですよ。それぞれの立場の正義がある。動物にだって動物の立場ですべきことがあるし役割もある。人間のいう正義は絶対的な次元の話ではなく、相対的な次元の話ってことです。

一般的(=相対的)な視点でお話しますが、国によっても善悪は違いますよね。インドの大抵の場所で女の人がふくらはぎなんて見せていたら悪です。でもゴアでは女性がふくらはぎを露出しています。ヒンドゥー・ムスリムの非常識が、クリスチャンの常識だからです。リシケシで日本人の女性がドゥパタを着用しないでウロチョロしていますが、インドの非常識が日本では常識だからです。

ヴェーダーンタというのは、そういう相対的な次元(=それぞれの立場)の話ではなく、普遍的、絶対的な価値の話なので、それを混同をしないクリアーな知性を得るための、いろんなサーダナが細かく聖典に示されています。


普遍的な視点を持つことは、人生における良き衝撃吸収システムとなります。愛着あるものを失った時に、悲しみは悲しみとしてあるけれど、それでも寿命尽きるまで生きて自分に残された時間を、本質の追求に邁進する強さを与えてくれます。


ということで、こんな感じでよかったかな?またクラスでお会いしましょう!


長々と失礼いたしました。

お勉強したい方は先生を紹介できますので声かけてね。

写真は近所の空。


 

2021年10月10日日曜日

10月24日(日)晴れたら!久しぶりに青空ヨーガ in 青梅。

18時間くらい前、ホヤホヤの筆者近影

ネット上にあまり顔を出さないどころか、あいつは一体何処で何をやっているんだ?

と・・・ますます謎を深める写真で失礼します。日本にいます。


いや~、引き籠った。とても引き籠った。

暖かい日が続いていますね。

気持ちはまだまだ引き籠っていますが、本格的に寒くなる前に久々に行っておきたいな、

あの場所に・・・。


・・・と、思っていたらタイミング良くリクエストをいただいたので、寒くなる前に行っときましょう。

ガンガー上流気分を味わう、あのクラスです。

といっても通常クラスのオフ会的な気軽な回ですので、たまに自然に触れたい方は青梅へ。

アーサナクラスをして現地解散ですが、お弁当をお持ちの方は、外で一緒にご飯しましょう。

その後は、電車移動で多摩川沿いを散策(からの甘酒)も良し、気候条件と気分が揃ったら10kmのハイキングコース(からの甘酒)も個人的には行きたい。

まあハイキングコースは今回でなくとも年内に一度は歩きたいと思ってます。ご同行希望の方は歩ける靴でいらして下さい。

なぜ甘酒、甘酒言っているかというと、初回、アフターヨーガの散策で皆さんと飲んだ甘酒が衝撃的に美味だったため、次の開催のリクエストが速攻で入ったという・・・。

甘酒ついでにヨーガ・・・アリだわ。

「なんじゃこりゃ、うまっ!」と久々に私の目から鱗が落ちましたからね。


雨天延期になりますが、紅葉が散る前に、一回行きたい。

ということで、とりあえずの予定は10月24日です。晴れて下さい!

 

【概要】

日時:10月24日(日)9:30am JR青梅駅改札口に集合、昼前に現地解散

持ち物:ヨガマット、マットの下に敷くレジャーシート、必要に応じて防寒、虫よけ、日焼け対策

参加費:毎週のサークルクラス同様に自由料金 (・・・と言われても・・・という方は、ヨガスタジオのレッスンに行ったつもりでご自身で設定してください)

最少催行人数:3名(上限6~8名)

※ご予約が必要です→ sivanandakendram@gmail.comまでメール、またはMessengerでご連絡下さい。

 

【当日の流れ】

・集合場所から現地まで20分程度のウォーキングからヨーガ

※歩きやすい靴、アーサナの出来る服装でいらして下さい。

2021年7月12日月曜日

その窓の話。ヨーガとか瞑想とか聖典とか。

長い雨降りの合間、昨日は毎年恒例の横須賀のクラスにお呼ばれしてきました。


毎年お伺いしているにも関わらず、会場がこんなに駅近で海近であることを認識していなかったのは、なんという節穴なお目目。

港に臨むモールのフードコートがまた綺麗に作られており、

「いいんですか?素うどん一杯で、この景色?」って感じ。


昨日の座学のテーマは瞑想だったんだけど、こちら側~私の個人的To Do List~の視点からいうと

「言葉の指し示す意味と目的をハッキリさせるため の”くさび”を打つ、という草の根運動」の一歩でした。

瞑想っていう言葉がマーケットで独り歩きしている時代に、言語化して頭の中をキチンと整理する。人に対して、それから自分に対しても。

まあ相手が子供さんだったら、方法はまた違ってくるのですけどね。



最近では、友人や生徒さんのなかで道場に通う人も多く、ドラマや映画の世界でもフツーに出てくるようになった「瞑想」という言葉。日常会話の中でもチョイチョイ出てくる。

その中でモヤモヤすることも多くて、しかし、単なる世間話の中で議論する気もないので、口をつぐんでいる。これは「ヨーガ」や「聖典」などの言葉もそう。雑誌の対談とかに引っ張り出されたりすると、こちらの意図と正反対の言葉に置き換わっていたりするから、もう恐ろしいので近づきたくない。


モヤモヤの正体。


「瞑想」をする、「ヨガ」をする、「聖典」を勉強する、というように、これらの「目的語」は、ちまたでは純粋に「行いの対象」と認識されている。


・・・私はとても美しい風景を見つけた。他の人にも見せてあげたい。
その人をこっちに連れて来て、

「ねえ、見て、キレイなの! ほら、あそこ!」

と窓の方を指さすのです。


すると、その人は

「ほんとだ!素晴らしい意匠の立派な窓枠だねえ!」

・・・!

「窓の話してねーよ!向こう景色だよ!」

と心の中でズッコケ・・・

みたいな話。


野球はするし、映画は見るし、ご飯は食べるし、小説は読む。

でも瞑想をする、ヨーガをする、理論や聖典を学ぶ、というのは、そういう一般的と視点の異なる、特殊な対象物なんですよ。

それらは、それ自体を「する」とか「学ぶ」ために存在するのではない。

窓枠を見ようとしていたら、窓の向こうの景色は見えないんですよ。


「それらを通して自分を知ろう」という姿勢と目的が定まっていなければ、それらを使いこなせず無意味なものにしてしまうし、余計に人間をこじらせる。


ヨーガも聖典も瞑想も、自分自身を見るための窓。


単なる知的欲求を満たすことでも、読んだ本リストを増やすことでも、RYT200だの500だのを修得することでもない。


それは、それぞれが自分自身の人生を愛して生きることなんだよ。


私が普段、生徒の皆さんと親しくやりとりしたり、年に一度はタイで(ここ数年は高知でも)みんなと寝食を共にして、瞑想や体操や講話の合間に、一緒に笑ったり、美しい自然を体験をしたり、語り合ったりする機会を設けているのは、

「ねえ、見て!ほら、キレイだよ!」

っと言うために、心を開き合って窓辺に並んで立とうとしてるの。

「違う違う、窓枠じゃなくって、あなたのキレイは、ほら、その向こうだってば!」

ほら、見える?私の窓枠も、あなたの窓枠も、まあまあオンボロだけど、ほら、窓の向こうの太陽は、隔てなくキレイだね!私も生きているね、あなたも生きてるね!キレイだね!

・・・・と。

皆さんが学ぶのは窓枠の方じゃなくて、その向こうですよ、という話でした。


今週末の草の根運動は、たつの&京都です。地道にくさび打ってきます。
まだ空きがあるかもです。詳しくはお問合せを!