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2018年7月10日火曜日

読書ひとりごと


読書好きです。

漫画も含め、いろいろな本を好きです。

哲学系、スピリチュアル系もさることながら、一貫して好きなのは小説かも。

たぶん一番好きです。

これら文学と実用書の違いは、私にとっては、言葉の持つ音楽性を扱えているるかどうか、ということですね。「音楽」というのは「雰囲気モノ」という意味ではなく、なんと云えばよいものか。

言わずもがな、言葉の第一の使命は「意味」を伝えることですから、多くの本は著者の伝えたい何らかのメッセージを、読者に伝えることを目的として存在します。

そんな本の中にも稀に、言葉の音楽をBGMに備えている作品もあります。

が私が「文学」をどのようなものと認識しているかというと、「意味」以外のところにある、息遣い?気?プラーナ?音楽に近いところ、そのアートだと思われます。

私の読書歴は、子供の頃に両親が買ってくれた「世界文学全集」から始まりましたが、社宅の上階に住んでいたシモムラさん家のお母さんが貸してくれた、アーサー・ランサム全集が私と本の絆を密にしました。

小学生でお金持ってなかったから古本屋に通ってた。

アーサー・ランサムの本はイギリスの児童文学。


中学に入って最初の国語の授業で、先生が、「文学が伝えたいのは真実なんだ」と言っていたのも、私と読書の絆の大きな鍵かも。

黒い髪の毛がみっしりと濃い先生でした。

額面通り、意味通りの、その言葉たちの向こうに広がる広漠たる真実を伝えるのが、文学のみならず、すべてのアートの目指すところなんだろうな、と思いました。

その先生が青少年に絶対に読んで欲しいと言っていたのは「赤毛のアンのシリーズ」でしたね。

その先生と、シモムラさんの影響で当時は西洋文学を読んでいたわけです。もちろん翻訳版です。思春期になると、性分とフランス文学が妙にマッチしてきたのが笑える。

その後、短大で近代文学を専攻するんですけど、このブログで度々登場する「地獄に落ちろ!」の伊藤先生はじめ、文学界の大御所的なユニークな先生たちに出会います。その殆どがかなりのご老人でしたが。

詩人の伊藤先生がゼミの時間に言ったんですよ。

「すべての芸術は音楽に憧れる」って。

この言葉に、いま尚、しみじみしますね。



赤毛のアン推しの先生の言葉とも、繋がってる気がする。

文学は、言葉が生まれつき持っている「意味」という拘束具から、完全には自由になれない。

だけど、それでも意味の向こうに旋律があるんですよ。

私が日本の作家一辺倒になったのは、短大時代の影響もあるけど、言葉の音楽を聞き取れるほど英語を知っていないからだと思うし。結局、ものすごく日本人なんですよ。

もちろん意味やメッセージの内容も決して、どうでも良いって訳でもない・・・ていうか、重要。

その上で言葉の連なりに音楽を奏でさせることが出来る作家さんが好きです。
腕も必要だろうし、生まれ持ったセンスも然り。

といっても文壇を追いかけて新作を毎回購入できる訳でもなく、最近はブックオフの108円コーナー専門なので、常に数年遅れなんだけどね。

面白いですよ。音楽として聴くと。
高校生の時に授業で退屈した近代文学にしても。

芥川龍之介の、シンプルで均整のとれた冴え冴えとした音楽。

夏目漱石の、フックのある訛りのある音楽。

太宰治の、自分語り風な独特なリズムの音楽。


ファンといえば、一番はもう不動の遠藤周作ですけど、
現代では最近、女性作家が、琴線に触れますね。

私の若かりし頃に、軽めの小説を書いていた作家さんたちも、なんだかメラメラしていて凄い。女というのは、なんだか凄い。ずっと変化し続ける生き物なのかも知れません。秘めたる力の重量を感じます。

この十年くらいずっと好きなのは、桐野夏生ですね。


基本宿無しなので、ここ数年、古本屋のない地域に居ることが続きました。

古本屋で小銭握りしめて、書棚を端からジーッと眺めていく、夏の夕暮れ。

首の後ろに滲む汗と、なんでもない一日の終わり。

ささやかで、ささやかだから、鈍くとも輝く大切な時間。

心から懐かしいです。




最後になりましたが、西日本の豪雨の被災地の皆様へ、心からお見舞い申し上げます。
一日も早く、平穏な日々が戻りますように。











2017年2月5日日曜日

新年あけまして読書録

みなさま、あけましておめでとうございます。

だいぶ遅ればせですね。

もうこれからは、こうしましょう。

新日明けましておめでとうございます。
昨日中は大変お世話になりました。
本日もなにとぞよろしくお願いします。

Happy New Day!

いぇーい!


毎度、なかなか自分の為に使える時間がなくて、更新がのろくてすみません。

みなさま、ご存知のとおり、余裕がない。
ゆっくりインターネットを楽しむ時間と体力の余裕がない。

なんだけど、やっぱりたまに文章を書きたいのよ。
書きたいし、読みたいんです。


数年前にkindleを買って以来、インドに本を持ってこなくなった。
私としてはかなり寂しいことだけど、荷物の軽減化のため背に腹はかえられない。


それが、先日、文庫本を二冊いただきまして、そのうちの一冊が、村上春樹の一番新しい長編の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」だったんですね。


旅先で、人々の手から手に渡る本が好き。




私は、他人の書いた書評をチェックするのも好きなので、まずアマゾンのレビューをチェックしたら、いまひとつ評判が悪い。とはいえ、単に書評を読むのが好きなだけで、それでどうこうってこともないので、早速本編を読んでみました。


結論。面白かった。


前にも書いたかも知れないけれど、私は昔、村上春樹が好きじゃなかったんですよ。

20歳くらいの時に「ノルウェイの森」読んで、今風にいうと「キモッ!’」って思った。
主人公もキモけりゃ、書いてる人もキモッ!って思ってた。

苦悩に酔いしれる美学「ウザッ!」って。

青臭くて、青臭くて、本当に嫌だった。

つまり、どういうことかというと、当時の自分自身が苦悩に酔いしれる青臭いキモ野郎だった・・・ということなんだけどね(笑)。そのころの私は、極めて「私小説的」な感覚で世界を生きており、作家もみんな私と同じ感覚で生きているであることを疑わなかった。

思春期。

しかし、ここ十年位で村上作品の印象がガラッと変わりました。なにがきっかけか忘れたけれど、小説に加えて随筆とかルポタージュ、レコード評とかを読んでいるうちに、「あれ、この人、キモくないじゃん・・」と。むしろ大変好きになってしまった。

単に自分自身が大人になったせいだけでもない気がする。

小説なんか、エンターテイメントとしても非常によく出来ていて面白いし、文学としても優れているのではないでしょうか。文筆家が、文章を操る芸術家だとしたら、村上春樹はちゃんとそれだなあ、という感想です。文章が意味と響きの両面において美しい。


いつのまにか、例の村上イズムというか、なんかキザみたいな、あの感じが、作品を重ねるごとに文章と馴染んで、服と着ている人が、間違いなくシックリきてるみたいな感じになっている。

加えて、作品の端々に垣間見ることが出来る・・・村上春樹の悟っている世界観、哲学みたいなもの、がフワッと感じられるのが、好きなんですよ。これを小説のメインテーマとしてグイグイ押し出せば、啓蒙書か、例の青臭い私小説みたいになって、鼻につくところなんだけど、地下水脈が時々地上に出てくるみたいなチラリズムが良い。


例えば、「色彩をもたない・・・」から引用してみると

「それがどんなものだか、口で説明するのは不可能だ。自分で実際に経験してみるしかない。ただひとつ俺に言えるのは、一旦そういう真実の情景を目にすると、これまで自分が生きてきた世界がおそろしく平べったく見えてしまうということだ。その情景には論理も非論理もない。善も悪もない。すべてがひとつに融合している。そして君自身もその融合の一部になる。君は肉体という枠を離れ、いわば形而上的な存在になる。君は直観になる。それは素晴らしい感覚であると同時に、ある意味絶望的な感覚でもある。自分のこれまでの人生がいかに薄っぺらで深みを欠いたものだったか、ほとんど最後の最後になって君は悟るわけだからな。どうしてこんな人生にそもそも我慢できたのだろうと思い、慄然とする。」


とかね。ヴェーダーンタに近いなあと思う。
「小説におけるヴェーダーンタ発掘」、趣味ですねえ。


ヴェーダーンタを表現する文章として手を入れさせてもらうとしたら、情景という言葉はいただけないかな。それから、感覚という言葉も使いたくない。生徒諸君、それが何故かお分かりかな?わかったらメッセージで送って!

それと、絶望的な感覚とか慄然とする云々ってのもどうかなあ。こうなるとジャガット目線でしょう。真実を知った人は両者を混同しない。生徒諸君、ジャガットってなんでしたっけ?調べて下さい。


逆に、ジャガット目線のリアリティーとして好きだったのは、


それはいわば、散り散りになった三人の人間をひとつに結びつける血脈だった。儚いほど細い血脈だが、そこにはまだ生きた赤い血が流れている。音楽の力がそれを可能にしているのだ。


の「音楽の力がそれを可能にしているのだ」のところとかね。美しいですね。


音楽には確かにありますね。ケミストリーの源となるパワーが。


それから、個人的に主人公に共感した部分は、例えばこんな文章とか。


「多崎つくるには向かうべき場所はない。それは彼の人生にとってのひとつのテーゼのようなものだった。彼には行くべき場所もないし、変えるべき場所でもない。かつてそんなものがあったことはないし、今だってない。彼にとっての唯一の場所は、「今いる場所」だ。

東京は彼にとってたまたま与えられた場所だった。

彼がいわば自らの人生からの亡命者としてそこに生きてきた。そして東京という大都市は、そのように匿名的に生きたいと望む人々にとって理想的な場所だった。」


私が毎度、東京に帰ってしまうのは、この人生がそれを許すかどうかは別として、匿名的に生きたいと望んでしまう、(多分、それは生まれついての)趣向のせいなのだと思います。


良い小説は多面的に楽しい。乾いた情緒にお水をもらえる。みちさん、素敵な一冊をありがとうございました。本に骨があるならば、その骨の髄まで楽しませていただきました。

この本がまた誰かの手に渡って、どこかのだれかの脳内ケミストリーが起こるかと思うとわくわくします。


本もまた旅をするのです。



2016年6月15日水曜日

雨の日のシータマ書店 ヴェーダーンタ篇




梅雨ですね。
うーん、けっこう嫌いじゃない、かもしれない。

中学校一年生のときの国語の先生が言っていた。
文学とは真実を伝えるものであると。
フィクションだけど真実を伝える。

ファクトではなくて、フィクションだからこそ、真実にフォーカスすることができる のかもしれない。もちろん読み手がそこにフォーカスしてくれるかどうかは別問題ではあるのだけれど。作者が投げてくる真実を拾うと感動する。


それでは勉強会のみなさま。いつも私がクドクドお話していることを、文筆家の美しい文章で見てみましょう。


ヴェーダーンタのテキストでは、真実を明確にするために、真実でないもの、世界とは何かが細かく解かれていますよね。世界とは何かということが。それからもちろん私とは、真実とは何かということ。

そういったことが、美しい文章で表されているから、小説好き。



たとえば、よしもとばななの「スウィートヒアアフター」。
 
 そうだ、交換してるんだ、お互いに。

 私はこの世界にこんなに影響を与えている。そのことを知らなかった。世界は私が輝くと輝きをきっちり同じ分量で返してくれる。ときにはすばやく、ときにはゆっくりと、波みたいに、こだまみたいに。

 こんなちっぽけな私がどういう気持ちでいるか、そんなことが世界を確かに動かすことなのだ。
 目に見えない世界で確かにそれは起こっていることで、見る目を変えればいつでもその影響を見ることができるのだと、私ははっきり知って戻ってきた。


主人公が、真実でないもの(世界つまり客体)を語ってるんだけど、実に美しくジャガット(世界)と、その法則性であるカルマというものを含めて捉えてますね。


それを客体化できているということは、裏を返すと、語り手は、真実(私つまり主体)をある程度つかんでいるということです。九死に一生を得、ニッテャーニッテャヴァストゥヴィヴェーカした人のお話でした。

「私」の本質は死なないことを知る人は、恐れを超えます。

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お次。

田口ランディの「キュア」。これはガンを得て、多くのことに気付いていく人の話。


人間てなんだろう。いろんな微生物やウィルスと共生している。一つの生命じゃない、無数の生命の共生体だ。自我だけが、勝手に自分を一人だと思っている。バカだな自我って。愚かだ。

そうなんです。バカなんです自我。だってそもそも自我も客体だから。ものです。追ってクラスで詳しくお話しましょう。

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以下、二つの生命の対話。


じゃあ、なぜ人間は意識をもったんだろう?人間だけが・・・

理由はない。それも因果による必然。意識もまた反応の一部だわ。



「意識」って言葉は守備範囲が広いので、区別するために、「認識」とか「思考」に置き換えてください。「認識」や「思考」は「私」の本質ではなく、反応であり、ジャガットの一側面です。

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どうしたらこの意識から抜け出せる?

思い出して、海で生きていたころのことを。魚だったとき、あなたは水を意識できたかしら。水のなかで生きている魚が水について認識できるかしら。魚が溺れることがあるかしら。


もがかないことよ。もがくと溺れる。あなたはもともと泳げる魚なの。

だからそのままでいいのよ・・・・。


私の本質をあらわす美しい比喩だよね。

ここでも、各箇所で別のことを意味する「意識」という言葉が複数でてきますので、冒頭の「この意識」を自我や思考を私と勘違いする「誤った自己認識」に置き換えます。もがくことは混乱した知性ですよね。

ヨーガは、自己についての正しい知識がやどる綺麗な体と心と知性をつくる道のことです。もともとの私を思い出すために。


あなたはもともと泳げる魚なの。
だからそのままでいいのよ。

これがヴェータンタの答え。

詳しくはまたクラスで!

追伸:妙なところばかり勝手に切りとって紹介しましたけど、小説として普通に面白い本です。読んでみて。


2016年5月12日木曜日

シータランのムリ考

なんじゃ、こりゃっ!


という本を、ルームメイトが図書館から借りてきました。

タカミーがスパイスを効かせているではないか!

ということで早速読ませていただきましたよ。

ボクらの時代というテレビ番組で行った三人の対談を書き起こしたもの。


では、みうらじゅんとリリー・フランキーが「高見沢さんも一緒に出家しましょうよ!」と熱心に誘ってるあたりから抜粋ね。


みうら 高見沢さんはミュージシャンですけど、ミュージシャンだとしても、住職のほうが上ですよね、肩書きとしては。

リリー ザ・住職、ジ・アルフィー。


高見沢 おおおお!


みうら その上につくことができるのは、"変態" だけですから。


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リリー お寺をつくって仏像つくって、そしてなんかこう、金はないんだけどこう、寺も仏像もいいものつくりたいとか・・・・・・どんどん金ぴかにしていって、見栄をはっていきながら美意識をたかめていくっていう、そういう文化っていうんですかね。なんかロックスター的。


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リリー いま、スローライフ的な「もうムリとかやめようよ」みたいなのあるじゃないですか。俺、「ムリくらいしようよ」と思うんですよ。無理くらいしないと人は死んじゃう。


高見沢 そうだよね、少しね。


リリー ムリして髪巻いたりとか、寺建てたりとか。


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みうら もう時代とか関係なくなってるから、高見沢さん。もうそろそろしたらやっぱり重要文化財くらいにはなられたほうが、いいんじゃないですか。


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リリー (※とある地方のとんでもない祭りの話題で)でも、そういう祭りも終わらないですからね。変態ほど息が長いんですよね。


高見沢 息が長い・・・・・・そうか。じゃあ俺も変態なんだ。そうか、なんか今日やっとわかった。


リリー キングオブ変態じゃないですか。



どうですか!
素晴らしくないですか!
とんだ酔狂とマッタリ感。

大学生くらいのころ、だれかの家に集まってウダウダとしていた頃の、あの会話、あの感じ。私に関していえば、35歳くらいまでは、これが日常でしたからね。懐かしい。とんと忙しい人生になったものだ。


それはさておき「無理くらいしないと」の一声で脳裏に蘇るのは、この冬のインドの日々です。機会があったらまた書きますが

「えええ!昨年よりも年寄りなのに、もっとキツいじゃーんっ!」

という過酷な状況だったのですよ。しかし我がブログでもお馴染みヒロミダスと、モヒニと三人で5ヶ月間なんとか乗り切った。

どうやって乗り切ったのかといったら、このロングヘアー三紳士のような会話で、一日一日を乗り切っていたような気がする。友達とは、言葉以上に大事なものだと思います。


ふつうは「こんなムリしたら死んじゃう!」が正論なんだろうけど、本当に死んでも困るので、無駄部とか、寝ない部とか、変態部とか、いろいろ部活をつくりまして、部活と思って無理を貫き、生き延びました。

変態とは最上格であると、ロングヘアーな生き方の人たちも仰っている。やはり我々は間違っていなかったね。


・・・・そんなインドの三人の戯言は置いといて、


リリーさんたちは、なんかすごく素敵なこと言ってるんですよ。


「ムリくらいしないと死んじゃうから」って「なにいってんの?やっぱスローライフでしょ!」て思ったでしょうけれど、ここでいってるムリってのは、別の言葉に置き換えてみるならば、「情熱」みたいなことですよ。

スローだろうがファストだろうが、そんなのはどうでもよくて

「そのために無理すらしたい何かを、あなたは持っていますか?」

てことだと思う。


「◯◯のためならば、ちょっとぐらいの無理は出来る、無理したい。」


そんな情熱がなかったら、生きながら死んでいるようなものなのかも知れない。


・・・とすると、タカミーのサバのように光った衣装も、巻き髪も、40年越えと息の長いのアルフィーもすべて、「底知れぬパッション、愛のカタチ」なんでしょう。


本文では、タカミーはスパイスではなく、コクとまろやかさを効かせていましたね。オーヴァー50の「ロングヘアーな人々」が読むと癒される本。

ちなみにアンダー50の「ロングヘアーだった人々」は大槻ケンヂの「リンダリンダラバーソウル」を読むとホロっと来ます。ちなみに解説はみうらじゅんでしたよ。

またね!


























2014年7月19日土曜日

シータマ的成功哲学


なんでもないような日々だけど、毎日まいにち、生きていると、そこに静かに、ドラマがある。日常というのは、実はものすごく濃い。


コミュニケーションの場であるインターネットが、時どき億劫になるんだけど、この初夏は特にでしたね。宣伝・告知もサボりまくり(笑)。あとは、そうですねえ、体調を崩した複数の方たちのお見舞いに、いったりしてました。


今年はあんまり忙しくしていません。だから沢山お見舞いに行けます。


人生は短くてあっという間に終わっちゃうんだから、忙しくて会いたい人に会えなかったり、行きたいところに行けなかったりするのは、いかん、と思うんです。

私の暮らしは毎年「いかん」のです。日々に流されて。だから今年は少しだけ改善してみようと思ってます。


すっごく昔にみた「フライドグリーントマト」という映画でおばあちゃんが言う台詞。

You reminded me about what the most important thing in life is friends.


結局人生で一番必要なのは友情。


そうだね。



ところで、





話は全然、逸れるんですけど、そんなこんなな訪問先で一冊の本をもらいました。ジェームズ・アレンという1800年代の人が書いた、今でいう成功哲学の本の元祖みたいな本です。言葉少なく、シンプルな本です。

個人的には、シンプル過ぎて分かりにくい人も多いと思うので(要解説な気がするってことで)、特に推薦するという訳ではないんだけど、長く読まれ続けている本です。



「あらゆる種類の価値ある達成が、努力と思いによってもたらされる王冠です。自己コントロール、決意、けがれのない思い、気高い思い、正しい思いの援助を得て、人間は上昇します。」

なるほど。

「自己コントロールの欠如、怠け心、けがれた思い、卑しい思い、謝った思いの援助を得て、人間は降下します。」


それから?


「成功を手にできないでいる人たちは、自分の欲望をまったく犠牲にしていない人たちです。人間は、もし成功を願うならば、それ相当の自己犠牲を払わなくてはなりません。」





私が、日頃、先生をやっていて思うことは、

「あれも欲しい、これも欲しい、それも欲しい」

というカワイイ欲張りが、一つの大切なことを達成する障害となっているか、ということです。



人として生まれた全ての者が闘わなければならない、共通のものってなんだかわかります?

チッチッチッチッチッチッチ


・
・
・
・
・
・


それは「時間」ですよね。正解した?


限られている時間の中で、欲しいもの全部、やりたいこと全部、とってたら、たぶん何一つ高みに達成することはできません。多分、ネットサーフィンみたいな人生で終わっちゃう。

この本で自己犠牲っていうのは、そいうことだと思う。


他の人たちに比べると、私は極端な例で、だいぶストイックだと思います。少数派という意味において、だいぶ過激なような・・・それが自分のことをテロリストみたいだなあ、と思う所以なので、私を真似しろとは決して言えません。



ただ、コミットするってことだよね。


それは、何があなたの成功なのかを、知ること。

あと集中力。


学びは一生。


根性ある生徒さん達には、いつも本当に元気をもらいます。


来週も頑張ろうね。



Sita









2014年6月16日月曜日

本のこと

またサボり癖が出ました(笑)。

坦々とやっていかなくてはいけませんね。つくづく。


先日、たまももさんと中華街でお茶した時に「若者と日本語が通じない」という話でかるく盛り上がりました。

「村八分は通じないのよ〜、今は。」
「私は通じるよ、ってことは私はオバさんか!やぶさかでないも通じなかったよ。」

・・・などなど。


村八分・・・表立って使うのが憚られるの言葉だから消えてしまったのかもしれない・・・なとどと憶測しつつ・・・(村八分といえば山口富士夫、懐かしいっすね)・・・どうも40歳位のラインが時代的にボーダーらしい。


私は昔から本が好きで、今も好き。必ず奥付(この言葉は通じてるだろうか)まで目を通します。あとがきも好き。あるいは、出版社の社長による刊行の辞とか。


たとえば

(前略)
われわれは戦後に十五年の出版文化のありかたへの深い反省をこめて、この断絶の時代にあえて人間的な持続を求めようとする。いたずらに浮薄な商業主義のあだ花を追い求める事無く、長期にわたって良書に生命をあたえようとつとめるところにしか、今後の出版文化の繁栄はあり得ないと信じるからである。

同時にわれわれはこの総合文庫の刊行を通じて、人文・社会・自然の諸科学が、結局人間の学にほかならないことを立証しようと願っている。かつて知識とは、「汝自身を知る」ことにつきていた。現代社会の瑣末な情報の氾濫のなかから、力強い知識の源泉を掘り起こし、技術文明のただなかに、生きた人間の姿を復活させること。それこそがわれわれの希求である。

われわれは権威に盲従せず、俗流に媚びることなく渾然一体となって日本の「草の根」をかたちづくる若く新しい世代の人々に、心を込めてこの新しい綜合文庫をおくり届けたい。

(後略)

1971年7月 野間省一


これは、講談社文庫の刊行の辞。

かつて知識とは、「汝自身を知る」ことにつきていた。

ヴェーダーンタですねえ。


あと村上春樹のあとがきとか。


(前略)
しかし人は、物語なしに長く生きていくことはできない。物語というものは、あなたがあなたを取り囲み限定する論理的制度(あるいは制度的論理)を超越し、他者と共時体験をおこなうための重要な秘密の鍵であり、安全弁なのだから。

物語とはもちろん「お話」である。「お話」は論理でも倫理でも哲学でもない。それはあなたが見続ける夢である。あなたはあるいは気がついていないかもしれない。でもあなたは域をするのと同じように、間断なくその「お話」の夢を見ているのだ。その「お話」の中では、あなたは二つの顔を持った存在である。あなたは主体であり、あなたは同時に客体である。あなたは総合であり、同時にあなたは部分である。あなたは実体であり、同時にあなたは影である、あなたは物語をつくる「メーカー」であり、同時にあなたはその物語を体験する「プレーヤー」である。私たちは多かれ少なかれこうし重層的な物語性を持つ事によって、この世界で個であることの孤独を癒しているのである。

20日の頃に読んだ「ノルウェイの森」に、うへえ〜っと辟易して以来、村上春樹作品は嫌いだったんだけど、以降の作品とかあとがきを読んでると、最近すごく肩入れしたくなってきて、やっぱり素晴らしい作家ではないか、と心変わりしました(笑)。

「ノルウェイの森」の放つ、若さ故の青い苦悩感に対する近親憎悪だったのでしょう。私も青い苦悩でしたから(笑)、読んだときどうしようもなく恥ずかしい感じがした。神戸の事件の、さかきばらせいと君の犯行声明もそうでしたね。さすがに中学生とは思わなかったけど10代であることは確信しました。だって、読んでとても恥ずかしい感じがした。




あ、上記の「アンダーグラウンド」も講談社文庫だった。




さて、中学生になってすぐ、現代国語の先生が最初の授業で言っていたことを今でも覚えてる。

「文学というのはフィクションです。でもそのフィクションを通じて「真理」を顕そうとするチャレンジです。」

私はすぐに転校してしまったので、名前は覚えていないけれど、黒々とした髪の毛の量が多い先生でした。


村上といえば村上龍の「テニスボーイの憂鬱」なんかも、ちょいエロ軽薄小説にみえてすごく大事な事を語っていますね。




文学大好きです。




2013年6月11日火曜日

読書の梅雨



こんにちは。東京は雨です。いいね。恵みの雨。

駅に向かう25分の道のりの途中に、愛すべき変人の店主がやっている開いてたり開いてなかったりする古本屋があり、待ち合わせに急ぎつつも100円ワゴンの中から適当に選んで購入した本。白石一文。この作家を初めて読んだんだけど、当てずっぽうに掴み取った割に大ヒットだった。恋愛を題材にした中・長編が集められた本だが、恋愛というセットを通して、もう一つ多くにある大事なテーマを見ようとする、深い本でした。

あとがきから抜粋。

〜この五編を通して私が描きたかったのは、一言で言うならば、

 —目に見えないものの確かさ。

ということである。

〜


ちょっと禅問答風に言わせてもらうと、この世界の完全性というものは、


 —目に見えるものの不確かさの中に目に見えないものの確かさが隠され、目に見えないものの不確かさによって、目に見えるものの確かさが保証される


ことで実に巧妙精緻に成立している、と最近の私は考えている。



いやはや、最近の私も、考えている。


 つまりは、この世界は私達が想像する以上におそらく完成され尽くしているのである。

 それは科学的にというのではなく、むしろし非科学的にそうなのである。
 ちなみに、先の一節の中の「目に見える」を「科学的な」に、「目に見えない」を「非科学的な」に置き換えてもう一度読んで貰えると、私の言っていることが少し分かりやすくなるかもしれない。(また「科学」を「物質」に換えてもいい)


やってみよう。


物質的なものの中に物質的でないものの確かさが隠され、物質的でないものの不確かさによって、物質的なものの確かさが保証される

 いまも戦争やテロ、犯罪、疫病、天災などによって大勢の無辜の人々(ことに子供たち)の過酷な死や不幸が絶え間なく繰り返されるこの世界に、我々はともすれば絶望感を抱きやすい。だが、それでも尚、世界は十分に完成されているのだと私は思う。つまりは、この悲喜劇的世界の悲惨さや救いようのなさは、それ事態に何らかの重大な意味が籠められているのである。
 無理を承知で、一度みなさんもこう思ってみて欲しい。

 — こんなにひどく見える世界ではあるが、それでも、ここは完璧な世界なのだ

と。
 そして、そうやってこの世界の完全性を認めたとき、我々の思考は大きな伸長の契機を得るのだと私は考える。
 世界の完全性を所与のものとして受け入れれば、それはいわば揺るぎない大地のようなもので、私たち一人一人はただその大地に立ちつくすのみである。足元の世界の成り立ちや存在理由、その全容などに関心を持つ意味も必要もなければ、そんな能力も余裕も実のところ私たちにはない。
 私たちは、大地を踏みしめて、私たちが本当に知らねばならないたった一つの問いに向かって、限られた短い人生の中でその答えを見いだすための旅に出発しなくてはならない。
 その唯一の問いとは、
 — 一体、この私は何ものなのだろうか?

 という問いである。

〜そして、人間にのみ与えられた「私とは何者なのだろうか?」というこの難問を解くためには、私たちは目に見えるものだけを追いかけていては駄目なのである。問いの答を導きだすには、どうしても目に見えない世界に「目」を向けなければならない。それは好むと好まざるとにかかわらず、絶対に不可欠なことなのだ、と私は思う。



このあとがき、名作でした〜。

生徒さん達へ伝えたい言葉を代弁してもらった感じ。別の作品も読んでみようと思います。古本専門だけど・・・。そうなるとやっぱブックオフだな・・・。

慌ただしい気持ちの抜けない日々だったんだけど、勇気をだして読書に時を費やして良かったな。なんかちょっと落ち着いた。明日はレディースデーだから映画にいっちゃいます。何の映画か予測がつく人、いるかな〜?

ふふふ・・・




2012年8月8日水曜日

夏バテ読書録

じつは・・・ちょいと夏バテ中・・・なんだと思う。お腹こわしてます。まあそれも良かろう。暑いながらも風は涼しく、そんな時私は、この気だるい部屋という水槽の底から水の外の世界を眺めています。あるいは手当り次第に本を読みまくる・・・何冊も平行して読みながら、自分の中の世界だけを眺めてみたりしています。

ジュリア・ロバーツが主演した映画「食べて、祈って、恋をして」は、ヒロミダスと一緒にタイで観たんだけど「うーん・・・」という感じでした。同じ日に観た「ベストキッド」の方が良かったねって感じ。

しかし、この夏バテのさなかに縁あって原作本を読んでみたんだけど、本の方はだいぶ良かったのです。なかなか面白かった。「私だったら?」と自分に問いかけながら読める女子本。





統合のつかない情緒に振り回されながら、それをなんとか制して自分の生き方を見つめよう、とガッツなトライをする女の人の自叙伝ですね。本の中に、すごい執念というか、アメリカ人の素朴さとパワフルさを観ることができました。中には「へ?」というような記述もあるんだけど概ね良かった。

アンボリに居た時「この本を読んで(あるいは映画をみて)来た!」といってアシュラムを訪れる西洋人女性が幾人かいた。そういう場合ちょっと面倒くさい人である可能性が高い。本当に嫌だよ、いい加減にしてくれよ!って私は思ってた。

本を読んでみて、その理由がなんとなく分かったような気もするな。同時に、こういう迷惑っぽい人も、純粋な「自己」へ探究心の種をもっている、みんながon the wayなんだ!ということもわかった。ちょっと勉強になりました。


それにしても、主人公の「自分自身を生きたい」と願う根性?執念?はなかなかエライものがある。

とにかく、学ぶこと・・・学び続けることっていうのは、そう簡単なことじゃないんですよね、きっと。主人公が挑戦し続け得るのは、執念というより「本心」なのかな。本当に知りたい、その強い気持ち。正直。

たとえその気持ちがあっても「大人になってからの学び」は、これまで学校で受けた受け身教育とは違う。だから大変。「自分の頭を通さないとダメなんだって分かった」と月曜日のよっちゃんが言ってたけど、その通り、絶対的な能動性がまず必要。

世渡り上手な大人になると、自分相手にまで上手く世渡りしちゃって、それもよくない。周りの人や自分を誤摩化して楽な方に流れたりする。

しかし、たとえ「本気度」があったとしても、病気になったり、仕事や家族などの環境の為に「学び」を続けられなくなることもあるのが世の常なのです。だから私達はクラスの前にお祈りを唱える。どうぞ、この学びがつつがなく成就しますように、と。それからシャーンティという音を三回。三つの世界からもたらされる邪魔を退けるため。一つは「自分」から、一つは「自分以外の生き物」から、そしてもう一つは私達を取り巻く「環境」からもたらされるもの。


でもね、私は思うのですよ。たとえ様々な障害があなたの身に降り掛かっても、「本気中の本気」でなんとか持っていけるのではないか?本気の願いを神?が聞かない訳がないのではないか。本気の本気の人間を見たら、その人に手を差し伸べずには居られないんですよ、人は。この本を読んで更に確信した。必死で生きる本気の姿を観た時、人は感動するし惚れるんだって、ある結婚式で神父さんが言ってたけど、一理あると思う。

Jnana yogiは猿の子のように、何がなんでも自分から、必死にお母さんのお腹にしがみついていくんだって、そう教わった。猫のようにお母さん猫の名前を呼んでいてもダメだって。

だから気を落とさないで、その思いを燃やし続けていて下さい。上っ面ではなく、本気の本気を。きっときっといつか、あなたの学びが成就しますことを祈ってます。

ちなみに遅くなりましたが、豆の王国で話題に上った英語もうちょっと頑張りたい人の為のヨガ本はコレですよ。英語と日本語のダブルでもってね!でも言語なんてただの道具。何の心配もない。印グリッシュの私でも幸せに生きてるよ。

窓から誰かの口笛が聞こえる。「ルパン三世のテーマ」だ。
さ、そろそろ水槽から世界へ出るか。
今日も勉強会に行ってきます。




2012年7月5日木曜日

The Moneyless Man

今日は久しぶりに一日家にいたので頑張ってみましたー。ようやく英語版のウェブサイトをほぼ完成させてみました。まあ無理矢理終わらせたので、英語が間違っていることは確実なんですけどね・・・・。まあ、いいっしょ。早速ゴパールジに見せます。



また本の話ですけど、アイリッシュの若者の書いたThe Moneyless Man (邦題「ぼくはお金を使わずに生きることにした」)は面白いですよ。

持続可能な社会を目指しての実験として一年間のカネなし生活に挑む、ワイルドなくせに知的な若者マーク・ボイル。軽妙な日本語訳も最高でした。現代の「経済」と「流通」がいかに無理・無駄・ムラからなのかが、数字としてもよーくわかる。資本を売って収益というなかれってこと。資本ていうのは地球そのもののことですよ。



ほとんどの人は、生まれたときから「おまえに安心をもたらすのは(地域社会ではなく)何と言ってもお金だよ」と教えられて育つ。なるほど、すでに持っている物を守ろうとするのは人間の習い性である。そうでもしなければ、万一のときに何を頼りにしたらいいのか。ぼくがカネなし生活からまっさきに学んだ最大の教訓は、人生を信じることであった。自ら与える精神を持って日々を生きれば、必要なものは必要なときにきっと与えられる。ぼくはそう確信している。これを理性で説明しようという努力は、とっくの昔に放棄した。感性と経験から導かれた確信である。(中略)ぼくの経験では、何の見返りも期待せずに惜しみなく与えていれば、かならず人からも惜しみなく与えられる。与えては受け、受けては与える、有機的な流れだ。この魔法のダンスに、地球全体の生態系は基づいている。けれども、その流れに乗るには、ひたすら信じる必要がある。必要な物は自然が与えてくれると信じることだ。これをキリスト教徒は「自分のまいた種を刈りとる」と表現し、仏教徒は「因果応報」と呼ぶ。無神論者に言わせれば「常識」だ。


「人生を信じる」というところで完全に共感しましたね。私は何も持たないしょうもない人間ですけど、「人生を信じ」てる。それが私の全てです。


あと、夏のキャンプ生活の箇所は胸躍ったな。



冬から春にかけてはカネなしの壁を思い知らされる瞬間がどうしたってある。でも夏がやってきた今は、自分がカネなしで生きていることも忘れてしまう。ぼくはただ生きていた。


「ただ生きていた」感覚って、私にとって小学校の夏休みに駆けずり回って遊んだ時とか、インドの大自然の中をバイクで駆け巡ったときとかのことだよね〜。ああ、いいなあ。全ての瞬間をこの感覚で満たしたい。

そういう風に生きたいのです。シンプルに。

政治の腐敗、エネルギーの問題。現代の混乱は人の仮面をかぶった餓鬼のカネ・カネ・カネと踊る故でしょう?「ただ生きる」喜びに「生きる」ことを忘れた亡者たちの・・・。一読の価値ありだと思います。おすすめ。

ではまたね。