2017年2月5日日曜日

新年あけまして読書録

みなさま、あけましておめでとうございます。

だいぶ遅ればせですね。

もうこれからは、こうしましょう。

新日明けましておめでとうございます。
昨日中は大変お世話になりました。
本日もなにとぞよろしくお願いします。

Happy New Day!

いぇーい!


毎度、なかなか自分の為に使える時間がなくて、更新がのろくてすみません。

みなさま、ご存知のとおり、余裕がない。
ゆっくりインターネットを楽しむ時間と体力の余裕がない。

なんだけど、やっぱりたまに文章を書きたいのよ。
書きたいし、読みたいんです。


数年前にkindleを買って以来、インドに本を持ってこなくなった。
私としてはかなり寂しいことだけど、荷物の軽減化のため背に腹はかえられない。


それが、先日、文庫本を二冊いただきまして、そのうちの一冊が、村上春樹の一番新しい長編の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」だったんですね。


旅先で、人々の手から手に渡る本が好き。




私は、他人の書いた書評をチェックするのも好きなので、まずアマゾンのレビューをチェックしたら、いまひとつ評判が悪い。とはいえ、単に書評を読むのが好きなだけで、それでどうこうってこともないので、早速本編を読んでみました。


結論。面白かった。


前にも書いたかも知れないけれど、私は昔、村上春樹が好きじゃなかったんですよ。

20歳くらいの時に「ノルウェイの森」読んで、今風にいうと「キモッ!’」って思った。
主人公もキモけりゃ、書いてる人もキモッ!って思ってた。

苦悩に酔いしれる美学「ウザッ!」って。

青臭くて、青臭くて、本当に嫌だった。

つまり、どういうことかというと、当時の自分自身が苦悩に酔いしれる青臭いキモ野郎だった・・・ということなんだけどね(笑)。そのころの私は、極めて「私小説的」な感覚で世界を生きており、作家もみんな私と同じ感覚で生きているであることを疑わなかった。

思春期。

しかし、ここ十年位で村上作品の印象がガラッと変わりました。なにがきっかけか忘れたけれど、小説に加えて随筆とかルポタージュ、レコード評とかを読んでいるうちに、「あれ、この人、キモくないじゃん・・」と。むしろ大変好きになってしまった。

単に自分自身が大人になったせいだけでもない気がする。

小説なんか、エンターテイメントとしても非常によく出来ていて面白いし、文学としても優れているのではないでしょうか。文筆家が、文章を操る芸術家だとしたら、村上春樹はちゃんとそれだなあ、という感想です。文章が意味と響きの両面において美しい。


いつのまにか、例の村上イズムというか、なんかキザみたいな、あの感じが、作品を重ねるごとに文章と馴染んで、服と着ている人が、間違いなくシックリきてるみたいな感じになっている。

加えて、作品の端々に垣間見ることが出来る・・・村上春樹の悟っている世界観、哲学みたいなもの、がフワッと感じられるのが、好きなんですよ。これを小説のメインテーマとしてグイグイ押し出せば、啓蒙書か、例の青臭い私小説みたいになって、鼻につくところなんだけど、地下水脈が時々地上に出てくるみたいなチラリズムが良い。


例えば、「色彩をもたない・・・」から引用してみると

「それがどんなものだか、口で説明するのは不可能だ。自分で実際に経験してみるしかない。ただひとつ俺に言えるのは、一旦そういう真実の情景を目にすると、これまで自分が生きてきた世界がおそろしく平べったく見えてしまうということだ。その情景には論理も非論理もない。善も悪もない。すべてがひとつに融合している。そして君自身もその融合の一部になる。君は肉体という枠を離れ、いわば形而上的な存在になる。君は直観になる。それは素晴らしい感覚であると同時に、ある意味絶望的な感覚でもある。自分のこれまでの人生がいかに薄っぺらで深みを欠いたものだったか、ほとんど最後の最後になって君は悟るわけだからな。どうしてこんな人生にそもそも我慢できたのだろうと思い、慄然とする。」


とかね。ヴェーダーンタに近いなあと思う。
「小説におけるヴェーダーンタ発掘」、趣味ですねえ。


ヴェーダーンタを表現する文章として手を入れさせてもらうとしたら、情景という言葉はいただけないかな。それから、感覚という言葉も使いたくない。生徒諸君、それが何故かお分かりかな?わかったらメッセージで送って!

それと、絶望的な感覚とか慄然とする云々ってのもどうかなあ。こうなるとジャガット目線でしょう。真実を知った人は両者を混同しない。生徒諸君、ジャガットってなんでしたっけ?調べて下さい。


逆に、ジャガット目線のリアリティーとして好きだったのは、


それはいわば、散り散りになった三人の人間をひとつに結びつける血脈だった。儚いほど細い血脈だが、そこにはまだ生きた赤い血が流れている。音楽の力がそれを可能にしているのだ。


「音楽の力がそれを可能にしているのだ」のところとかね。美しいですね。


音楽には確かにありますね。ケミストリーの源となるパワーが。


それから、個人的に主人公に共感した部分は、例えばこんな文章とか。


「多崎つくるには向かうべき場所はない。それは彼の人生にとってのひとつのテーゼのようなものだった。彼には行くべき場所もないし、変えるべき場所でもない。かつてそんなものがあったことはないし、今だってない。彼にとっての唯一の場所は、「今いる場所」だ。

東京は彼にとってたまたま与えられた場所だった。

彼がいわば自らの人生からの亡命者としてそこに生きてきた。そして東京という大都市は、そのように匿名的に生きたいと望む人々にとって理想的な場所だった。」


私が毎度、東京に帰ってしまうのは、この人生がそれを許すかどうかは別として、匿名的に生きたいと望んでしまう、(多分、それは生まれついての)趣向のせいなのだと思います。


良い小説は多面的に楽しい。乾いた情緒にお水をもらえる。みちさん、素敵な一冊をありがとうございました。本に骨があるならば、その骨の髄まで楽しませていただきました。

この本がまた誰かの手に渡って、どこかのだれかの脳内ケミストリーが起こるかと思うとわくわくします。


本もまた旅をするのです。