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2020年12月11日金曜日

おろちの道!(後編)

続きです。

前編で、「アイデンティティーを補うために何かをするのは時間がもったいないから、好きなこと、これをやってるとホント喜びがある!ということをした方が良いよ」という話をした。

では「好き」って何だろう、て疑問が出てくるわけです。

それって人それぞれだし、同じ一人の人においても、その時々で違った「好き」があることでしょう。

なんにせよ「好き」の持ち主である本人を、調和と前向きな精神状態へと導いてくれる「好き」こそが、健全な「好き」ってことだと思います。


ちなみに前編で私は「好きなことをしたらいいよ」と言ったけど、それは「楽して生きる」とか「低コストで高い利潤を得る(せこっ!)」ことではなく、「好きなことをする為に努力が出来る」ってことです。それが「好き」かどうかを計る指針の一つだと思うよ。

ここ10年くらい「最小限の努力で、最大限の利益を得ることが人生の成功」的な風潮があるけど、それって極めて消費者的な考えに思える。地球上でで、消費舎に繋がれた消費人が増えたってことなんだろうね。「1貰って100倍返しちゃった損じゃん!損したら人生負け!」なロジック。

わかった。消費者的っていうのは、物質主義的ってことですね。

いやいや~、でも、世界はそんな目に見えて単純なものじゃないから~。

100倍返した人にしか見られない景色がある。

むしろ半沢からがスタート地点?みたいな。


先月から友永乾史先生と二人でひっそりと始めたトークライブ。その第一回目で録画を失敗するという痛恨のミスがありました。で、参加者の皆様へのお詫びと振替案のご呈示をさせていただくやり取りが発生したわけです。すると乾史先生からなんどもお気遣いメールが届くんですね。「余計な仕事を増やしてすみません」と。

それを読んだ私は「あら~優しいわ~」と思いつつ、頭のもう半分で別のことを思い出していました。

2002年から2004年のどこかの金曜日。御母堂の友永先生が、ポロリとこんなお話しをしてれました。

「先日、夜家に帰ったら、洋服が床に落ちていたので、その服を辿っていくとそこはお風呂場でした。でも電灯は付いていなくて、仄かに揺れる光はキャンドル。息子がロウソクの灯お風呂に浸かっているのです。はあ~、こんなリラックスの方法もあるのだな。素敵だな。」

そしてお話のまとめは、こうでした。

「人間、好きなものに囲まれて生きるというのは素晴らしいことですよ。」

あの日から、変態もとい不肖「おろち」の私は、今日までずーっとこのことを考え続けて生きてきた。おろちだから。


好きなものかあ。

でも世の中好きなものばかりじゃないものなあ。

それに犯罪とか好きな人はどうなんだろう・・・ていうか、犯罪好きってそれ本当の「好き」なの?それとも別のなにか?

そもそも好きと打算の違いって意外と見分けがつかないよ?

etc...

で、その時至った結論は、

自分が「本当に」好きなもの、必要としているものを見極められるようになることが大切なんだな。

それから「好き」の対象をより良いものに成熟させていくことも大事だろう。

の二点です。


あれから十余年。

それがここに来て大転回してしまった。


「乾史先生、優しいなあ~。でも、意外とこの余分なやり取りって苦痛じゃないんだよな~。損した気もしないし、貧乏くじ引いてる気にもならんし、なんなら結構満ち足りた感じすらする・・・・え?!もしかして、好きなことに囲まれて生きるって、こういうことなんじゃないか?」

嫌いなものがない。

それが好きなものに囲まれて生きる「究極のかたち」か!


ふ、深い、先生・・・・!


でも、多分、そうなんだと思う。

好きと嫌いの違いが無いってこと。


好きなものだけに囲まれて生きられたら、確かにそこは天国だろ。

これから、まだまだ嫌いなもの減らしていけるのか?

いけたらいいな。


・・・という新たな結論に至ることが出来たので、失敗しても損するってこと一つもないんだな・・・とつくづく思いましたね。


という訳で、最後はまた告知になっちゃうけど、今月も懲りずにトークショーやっちゃいます。今月の私の選曲はSong for salutationsです、しかもノリノリで。録画でもリアルタイムでもご参加お待ちしています。



12月14日(月)20時~21時 ディナーの後にあいましょう!

お申込みはコチラ


おろちは今日も粘り続ける。

ねばねばのネバーギブアップだ!

(↑半沢でお願いします。)


おろち倶楽部の構成員は現在4名。

メンバーは私おろち、パイソン、うわばみ、並びにツチノコです。

全員そういう意味では変態です。


キングコブラ会長に激励をうける ”おろち部長”と伝説のスネイクチャーマー













2018年7月10日火曜日

読書ひとりごと


読書好きです。

漫画も含め、いろいろな本を好きです。

哲学系、スピリチュアル系もさることながら、一貫して好きなのは小説かも。

たぶん一番好きです。

これら文学と実用書の違いは、私にとっては、言葉の持つ音楽性を扱えているるかどうか、ということですね。「音楽」というのは「雰囲気モノ」という意味ではなく、なんと云えばよいものか。

言わずもがな、言葉の第一の使命は「意味」を伝えることですから、多くの本は著者の伝えたい何らかのメッセージを、読者に伝えることを目的として存在します。

そんな本の中にも稀に、言葉の音楽をBGMに備えている作品もあります。

が私が「文学」をどのようなものと認識しているかというと、「意味」以外のところにある、息遣い?気?プラーナ?音楽に近いところ、そのアートだと思われます。

私の読書歴は、子供の頃に両親が買ってくれた「世界文学全集」から始まりましたが、社宅の上階に住んでいたシモムラさん家のお母さんが貸してくれた、アーサー・ランサム全集が私と本の絆を密にしました。

小学生でお金持ってなかったから古本屋に通ってた。

アーサー・ランサムの本はイギリスの児童文学。


中学に入って最初の国語の授業で、先生が、「文学が伝えたいのは真実なんだ」と言っていたのも、私と読書の絆の大きな鍵かも。

黒い髪の毛がみっしりと濃い先生でした。

額面通り、意味通りの、その言葉たちの向こうに広がる広漠たる真実を伝えるのが、文学のみならず、すべてのアートの目指すところなんだろうな、と思いました。

その先生が青少年に絶対に読んで欲しいと言っていたのは「赤毛のアンのシリーズ」でしたね。

その先生と、シモムラさんの影響で当時は西洋文学を読んでいたわけです。もちろん翻訳版です。思春期になると、性分とフランス文学が妙にマッチしてきたのが笑える。

その後、短大で近代文学を専攻するんですけど、このブログで度々登場する「地獄に落ちろ!」の伊藤先生はじめ、文学界の大御所的なユニークな先生たちに出会います。その殆どがかなりのご老人でしたが。

詩人の伊藤先生がゼミの時間に言ったんですよ。

「すべての芸術は音楽に憧れる」って。

この言葉に、いま尚、しみじみしますね。



赤毛のアン推しの先生の言葉とも、繋がってる気がする。

文学は、言葉が生まれつき持っている「意味」という拘束具から、完全には自由になれない。

だけど、それでも意味の向こうに旋律があるんですよ。

私が日本の作家一辺倒になったのは、短大時代の影響もあるけど、言葉の音楽を聞き取れるほど英語を知っていないからだと思うし。結局、ものすごく日本人なんですよ。

もちろん意味やメッセージの内容も決して、どうでも良いって訳でもない・・・ていうか、重要。

その上で言葉の連なりに音楽を奏でさせることが出来る作家さんが好きです。
腕も必要だろうし、生まれ持ったセンスも然り。

といっても文壇を追いかけて新作を毎回購入できる訳でもなく、最近はブックオフの108円コーナー専門なので、常に数年遅れなんだけどね。

面白いですよ。音楽として聴くと。
高校生の時に授業で退屈した近代文学にしても。

芥川龍之介の、シンプルで均整のとれた冴え冴えとした音楽。

夏目漱石の、フックのある訛りのある音楽。

太宰治の、自分語り風な独特なリズムの音楽。


ファンといえば、一番はもう不動の遠藤周作ですけど、
現代では最近、女性作家が、琴線に触れますね。

私の若かりし頃に、軽めの小説を書いていた作家さんたちも、なんだかメラメラしていて凄い。女というのは、なんだか凄い。ずっと変化し続ける生き物なのかも知れません。秘めたる力の重量を感じます。

この十年くらいずっと好きなのは、桐野夏生ですね。


基本宿無しなので、ここ数年、古本屋のない地域に居ることが続きました。

古本屋で小銭握りしめて、書棚を端からジーッと眺めていく、夏の夕暮れ。

首の後ろに滲む汗と、なんでもない一日の終わり。

ささやかで、ささやかだから、鈍くとも輝く大切な時間。

心から懐かしいです。




最後になりましたが、西日本の豪雨の被災地の皆様へ、心からお見舞い申し上げます。
一日も早く、平穏な日々が戻りますように。











2017年2月5日日曜日

新年あけまして読書録

みなさま、あけましておめでとうございます。

だいぶ遅ればせですね。

もうこれからは、こうしましょう。

新日明けましておめでとうございます。
昨日中は大変お世話になりました。
本日もなにとぞよろしくお願いします。

Happy New Day!

いぇーい!


毎度、なかなか自分の為に使える時間がなくて、更新がのろくてすみません。

みなさま、ご存知のとおり、余裕がない。
ゆっくりインターネットを楽しむ時間と体力の余裕がない。

なんだけど、やっぱりたまに文章を書きたいのよ。
書きたいし、読みたいんです。


数年前にkindleを買って以来、インドに本を持ってこなくなった。
私としてはかなり寂しいことだけど、荷物の軽減化のため背に腹はかえられない。


それが、先日、文庫本を二冊いただきまして、そのうちの一冊が、村上春樹の一番新しい長編の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」だったんですね。


旅先で、人々の手から手に渡る本が好き。




私は、他人の書いた書評をチェックするのも好きなので、まずアマゾンのレビューをチェックしたら、いまひとつ評判が悪い。とはいえ、単に書評を読むのが好きなだけで、それでどうこうってこともないので、早速本編を読んでみました。


結論。面白かった。


前にも書いたかも知れないけれど、私は昔、村上春樹が好きじゃなかったんですよ。

20歳くらいの時に「ノルウェイの森」読んで、今風にいうと「キモッ!’」って思った。
主人公もキモけりゃ、書いてる人もキモッ!って思ってた。

苦悩に酔いしれる美学「ウザッ!」って。

青臭くて、青臭くて、本当に嫌だった。

つまり、どういうことかというと、当時の自分自身が苦悩に酔いしれる青臭いキモ野郎だった・・・ということなんだけどね(笑)。そのころの私は、極めて「私小説的」な感覚で世界を生きており、作家もみんな私と同じ感覚で生きているであることを疑わなかった。

思春期。

しかし、ここ十年位で村上作品の印象がガラッと変わりました。なにがきっかけか忘れたけれど、小説に加えて随筆とかルポタージュ、レコード評とかを読んでいるうちに、「あれ、この人、キモくないじゃん・・」と。むしろ大変好きになってしまった。

単に自分自身が大人になったせいだけでもない気がする。

小説なんか、エンターテイメントとしても非常によく出来ていて面白いし、文学としても優れているのではないでしょうか。文筆家が、文章を操る芸術家だとしたら、村上春樹はちゃんとそれだなあ、という感想です。文章が意味と響きの両面において美しい。


いつのまにか、例の村上イズムというか、なんかキザみたいな、あの感じが、作品を重ねるごとに文章と馴染んで、服と着ている人が、間違いなくシックリきてるみたいな感じになっている。

加えて、作品の端々に垣間見ることが出来る・・・村上春樹の悟っている世界観、哲学みたいなもの、がフワッと感じられるのが、好きなんですよ。これを小説のメインテーマとしてグイグイ押し出せば、啓蒙書か、例の青臭い私小説みたいになって、鼻につくところなんだけど、地下水脈が時々地上に出てくるみたいなチラリズムが良い。


例えば、「色彩をもたない・・・」から引用してみると

「それがどんなものだか、口で説明するのは不可能だ。自分で実際に経験してみるしかない。ただひとつ俺に言えるのは、一旦そういう真実の情景を目にすると、これまで自分が生きてきた世界がおそろしく平べったく見えてしまうということだ。その情景には論理も非論理もない。善も悪もない。すべてがひとつに融合している。そして君自身もその融合の一部になる。君は肉体という枠を離れ、いわば形而上的な存在になる。君は直観になる。それは素晴らしい感覚であると同時に、ある意味絶望的な感覚でもある。自分のこれまでの人生がいかに薄っぺらで深みを欠いたものだったか、ほとんど最後の最後になって君は悟るわけだからな。どうしてこんな人生にそもそも我慢できたのだろうと思い、慄然とする。」


とかね。ヴェーダーンタに近いなあと思う。
「小説におけるヴェーダーンタ発掘」、趣味ですねえ。


ヴェーダーンタを表現する文章として手を入れさせてもらうとしたら、情景という言葉はいただけないかな。それから、感覚という言葉も使いたくない。生徒諸君、それが何故かお分かりかな?わかったらメッセージで送って!

それと、絶望的な感覚とか慄然とする云々ってのもどうかなあ。こうなるとジャガット目線でしょう。真実を知った人は両者を混同しない。生徒諸君、ジャガットってなんでしたっけ?調べて下さい。


逆に、ジャガット目線のリアリティーとして好きだったのは、


それはいわば、散り散りになった三人の人間をひとつに結びつける血脈だった。儚いほど細い血脈だが、そこにはまだ生きた赤い血が流れている。音楽の力がそれを可能にしているのだ。


の「音楽の力がそれを可能にしているのだ」のところとかね。美しいですね。


音楽には確かにありますね。ケミストリーの源となるパワーが。


それから、個人的に主人公に共感した部分は、例えばこんな文章とか。


「多崎つくるには向かうべき場所はない。それは彼の人生にとってのひとつのテーゼのようなものだった。彼には行くべき場所もないし、変えるべき場所でもない。かつてそんなものがあったことはないし、今だってない。彼にとっての唯一の場所は、「今いる場所」だ。

東京は彼にとってたまたま与えられた場所だった。

彼がいわば自らの人生からの亡命者としてそこに生きてきた。そして東京という大都市は、そのように匿名的に生きたいと望む人々にとって理想的な場所だった。」


私が毎度、東京に帰ってしまうのは、この人生がそれを許すかどうかは別として、匿名的に生きたいと望んでしまう、(多分、それは生まれついての)趣向のせいなのだと思います。


良い小説は多面的に楽しい。乾いた情緒にお水をもらえる。みちさん、素敵な一冊をありがとうございました。本に骨があるならば、その骨の髄まで楽しませていただきました。

この本がまた誰かの手に渡って、どこかのだれかの脳内ケミストリーが起こるかと思うとわくわくします。


本もまた旅をするのです。



2016年6月15日水曜日

雨の日のシータマ書店 ヴェーダーンタ篇




梅雨ですね。
うーん、けっこう嫌いじゃない、かもしれない。

中学校一年生のときの国語の先生が言っていた。
文学とは真実を伝えるものであると。
フィクションだけど真実を伝える。

ファクトではなくて、フィクションだからこそ、真実にフォーカスすることができる のかもしれない。もちろん読み手がそこにフォーカスしてくれるかどうかは別問題ではあるのだけれど。作者が投げてくる真実を拾うと感動する。


それでは勉強会のみなさま。いつも私がクドクドお話していることを、文筆家の美しい文章で見てみましょう。


ヴェーダーンタのテキストでは、真実を明確にするために、真実でないもの、世界とは何かが細かく解かれていますよね。世界とは何かということが。それからもちろん私とは、真実とは何かということ。

そういったことが、美しい文章で表されているから、小説好き。



たとえば、よしもとばななの「スウィートヒアアフター」。
 
 そうだ、交換してるんだ、お互いに。

 私はこの世界にこんなに影響を与えている。そのことを知らなかった。世界は私が輝くと輝きをきっちり同じ分量で返してくれる。ときにはすばやく、ときにはゆっくりと、波みたいに、こだまみたいに。

 こんなちっぽけな私がどういう気持ちでいるか、そんなことが世界を確かに動かすことなのだ。
 目に見えない世界で確かにそれは起こっていることで、見る目を変えればいつでもその影響を見ることができるのだと、私ははっきり知って戻ってきた。


主人公が、真実でないもの(世界つまり客体)を語ってるんだけど、実に美しくジャガット(世界)と、その法則性であるカルマというものを含めて捉えてますね。


それを客体化できているということは、裏を返すと、語り手は、真実(私つまり主体)をある程度つかんでいるということです。九死に一生を得、ニッテャーニッテャヴァストゥヴィヴェーカした人のお話でした。

「私」の本質は死なないことを知る人は、恐れを超えます。

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お次。

田口ランディの「キュア」。これはガンを得て、多くのことに気付いていく人の話。


人間てなんだろう。いろんな微生物やウィルスと共生している。一つの生命じゃない、無数の生命の共生体だ。自我だけが、勝手に自分を一人だと思っている。バカだな自我って。愚かだ。

そうなんです。バカなんです自我。だってそもそも自我も客体だから。ものです。追ってクラスで詳しくお話しましょう。

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以下、二つの生命の対話。


じゃあ、なぜ人間は意識をもったんだろう?人間だけが・・・

理由はない。それも因果による必然。意識もまた反応の一部だわ。



「意識」って言葉は守備範囲が広いので、区別するために、「認識」とか「思考」に置き換えてください。「認識」や「思考」は「私」の本質ではなく、反応であり、ジャガットの一側面です。

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どうしたらこの意識から抜け出せる?

思い出して、海で生きていたころのことを。魚だったとき、あなたは水を意識できたかしら。水のなかで生きている魚が水について認識できるかしら。魚が溺れることがあるかしら。


もがかないことよ。もがくと溺れる。あなたはもともと泳げる魚なの。

だからそのままでいいのよ・・・・。


私の本質をあらわす美しい比喩だよね。

ここでも、各箇所で別のことを意味する「意識」という言葉が複数でてきますので、冒頭の「この意識」を自我や思考を私と勘違いする「誤った自己認識」に置き換えます。もがくことは混乱した知性ですよね。

ヨーガは、自己についての正しい知識がやどる綺麗な体と心と知性をつくる道のことです。もともとの私を思い出すために。


あなたはもともと泳げる魚なの。
だからそのままでいいのよ。

これがヴェータンタの答え。

詳しくはまたクラスで!

追伸:妙なところばかり勝手に切りとって紹介しましたけど、小説として普通に面白い本です。読んでみて。


2016年5月28日土曜日

シータマ書店

チックタック、チック タック
私のなかの時間の音。

ラブダブ、ラブダブ
めぐる血液が、まるで地球創生のドラマのようだ。

ある嵐の夜、だあれも来なかった教室の、
灯りを消してマットの上で、自分の鼓動を聴いていた。
脳裏に広がるジュラ紀の風景。


ようやく少しづつ、地面にランディング出来るような気がしている、2016年。

こんな時間を過ごしていたんだよなあ。あの西荻窪のボロアパートで。

いつからこんなに、せわしなく、走って、走って、走っているんだろう。

どんどんスピードの上がるランニングマシーンの上で、猛ダッシュをしているみたい。


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いや〜、はっきり言って、昨年の私はけっこう病んでいた。

インフルエンザにはかかるし、気管支炎を起こすし、一ヶ月くらいゲッソリしてた。

そのうえメンタルもけっこう病んでいた(・・・と思う)。

プライベートで私に 会った人、気づいた人もいるんじゃないかな。
ただでさえ人に慣れるのに時間がかかる私なのに、ハートは絶賛閉店中でしたからね。


ちょっとしたセクハラとかモラハラとか、そういうことが重なって、けっこう傷ついちゃったというか、女であることが心底恨めしく、男どものゲスっぷりには正直閉口だった。

今年は本なんか、読めてる。

いい感じでリハビリ出来てるんじゃない?


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読書に嵌っているルームメイトのイチ推し本「Lean In」に、アメリカの大学教授の行った研究のエピソードが書かれている。

彼らは「破天荒な女性起業家ハイディ・ロイゼン」が、「ベンチャーキャピタリストとしてどのように成功したか」という事例を用意して、Aグループにはそのまま、Bグループには、ハイディをハワードという男性名に変えた文章にして読ませたわけです。


結果、Bグループはハワードを好ましい同僚と感じ、Aグループは同じくハイディを「一緒に働きたくない人物」とみなした。

同一人物の、同一のストーリーなのに、性別を変えるだけで、これだけの印象の差異が!


話が前後するけど、直観的な感想として、私が女じゃなかったら、多分あんな嫌な目にあわなかったのではないか、という気がしている。


「ったく、ケ ◯の穴の小さい男どもがっ!」

と目くじらを立てていた私だけど、まあそういう出来事があったおかげで、「もしかしたら私できる女だったのかな?」なんて、今じゃ思えるわけで、何の穴が小さかろうが「嫌な相手に慈悲の心を持てるようになること」が今の目標です。


この本は、FacebookのCOOのシェリル・サンドバーグのエッセイなんだけど、この人も、いやな目に遭ったんだろうねえ。なのにこの笑顔。お綺麗ですね。あとでじっくり読んでみます。



併せて、こじらせ女子のバイブル、ジェーン・スーの「貴様いつまで女子でいるつもりだ問題」。

いわゆる「おちゃらけ本」的なやつかな、と思ってたんだけど、素晴らしく中身の濃い、愛に溢れた本でびっくり。

自分の職業つながりで「今月の牡牛座を穿った目で見るならば」の章をピックアップしましょう。

私は「スピリチュアル」とか「パワーなんちゃら」とかいう言葉を言われると、そこに誤魔化しというか、それ以上に無知蒙昧というか、そういうものを感じで「なんかいやだわ〜」と思うわけです。

狙って使ってる方はマーケティングの確信犯だから、まあ良しとして、とりわけモヤモヤ感が残るのはそれ以外の場合ですね。誤魔化しの仕組みに化かされている無知蒙昧が嫌なんです。多分。

「じゃ、あんた日本語で説明してみ、あんたのいってるスピリチュアルってなに?」

と問いたくなる。

出来ないんですよ。多くの人は。化かされてるから、きつねに。




私が、ジェーン・スーが知的だ、というのは、化かされない人であるからだけではなく、蔓延る「スピリチュアル」を文章で表すことが出来るから。


言葉とは状況を分析し、考えを整理する道具であり、辻褄のあう文章は整理された考えですからね。


笑わせてくれつつも、たいへん知的な本。40代のみならず、すべての働く女性におすすめです。

では、またね!



2016年5月12日木曜日

シータランのムリ考

なんじゃ、こりゃっ!


という本を、ルームメイトが図書館から借りてきました。

タカミーがスパイスを効かせているではないか!

ということで早速読ませていただきましたよ。

ボクらの時代というテレビ番組で行った三人の対談を書き起こしたもの。


では、みうらじゅんとリリー・フランキーが「高見沢さんも一緒に出家しましょうよ!」と熱心に誘ってるあたりから抜粋ね。


みうら 高見沢さんはミュージシャンですけど、ミュージシャンだとしても、住職のほうが上ですよね、肩書きとしては。

リリー ザ・住職、ジ・アルフィー。


高見沢 おおおお!


みうら その上につくことができるのは、"変態" だけですから。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


リリー お寺をつくって仏像つくって、そしてなんかこう、金はないんだけどこう、寺も仏像もいいものつくりたいとか・・・・・・どんどん金ぴかにしていって、見栄をはっていきながら美意識をたかめていくっていう、そういう文化っていうんですかね。なんかロックスター的。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


リリー いま、スローライフ的な「もうムリとかやめようよ」みたいなのあるじゃないですか。俺、「ムリくらいしようよ」と思うんですよ。無理くらいしないと人は死んじゃう。


高見沢 そうだよね、少しね。


リリー ムリして髪巻いたりとか、寺建てたりとか。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


みうら もう時代とか関係なくなってるから、高見沢さん。もうそろそろしたらやっぱり重要文化財くらいにはなられたほうが、いいんじゃないですか。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


リリー (※とある地方のとんでもない祭りの話題で)でも、そういう祭りも終わらないですからね。変態ほど息が長いんですよね。


高見沢 息が長い・・・・・・そうか。じゃあ俺も変態なんだ。そうか、なんか今日やっとわかった。


リリー キングオブ変態じゃないですか。



どうですか!
素晴らしくないですか!
とんだ酔狂とマッタリ感。

大学生くらいのころ、だれかの家に集まってウダウダとしていた頃の、あの会話、あの感じ。私に関していえば、35歳くらいまでは、これが日常でしたからね。懐かしい。とんと忙しい人生になったものだ。


それはさておき「無理くらいしないと」の一声で脳裏に蘇るのは、この冬のインドの日々です。機会があったらまた書きますが

「えええ!昨年よりも年寄りなのに、もっとキツいじゃーんっ!」

という過酷な状況だったのですよ。しかし我がブログでもお馴染みヒロミダスと、モヒニと三人で5ヶ月間なんとか乗り切った。

どうやって乗り切ったのかといったら、このロングヘアー三紳士のような会話で、一日一日を乗り切っていたような気がする。友達とは、言葉以上に大事なものだと思います。


ふつうは「こんなムリしたら死んじゃう!」が正論なんだろうけど、本当に死んでも困るので、無駄部とか、寝ない部とか、変態部とか、いろいろ部活をつくりまして、部活と思って無理を貫き、生き延びました。

変態とは最上格であると、ロングヘアーな生き方の人たちも仰っている。やはり我々は間違っていなかったね。


・・・・そんなインドの三人の戯言は置いといて、


リリーさんたちは、なんかすごく素敵なこと言ってるんですよ。


「ムリくらいしないと死んじゃうから」って「なにいってんの?やっぱスローライフでしょ!」て思ったでしょうけれど、ここでいってるムリってのは、別の言葉に置き換えてみるならば、「情熱」みたいなことですよ。

スローだろうがファストだろうが、そんなのはどうでもよくて

「そのために無理すらしたい何かを、あなたは持っていますか?」

てことだと思う。


「◯◯のためならば、ちょっとぐらいの無理は出来る、無理したい。」


そんな情熱がなかったら、生きながら死んでいるようなものなのかも知れない。


・・・とすると、タカミーのサバのように光った衣装も、巻き髪も、40年越えと息の長いのアルフィーもすべて、「底知れぬパッション、愛のカタチ」なんでしょう。


本文では、タカミーはスパイスではなく、コクとまろやかさを効かせていましたね。オーヴァー50の「ロングヘアーな人々」が読むと癒される本。

ちなみにアンダー50の「ロングヘアーだった人々」は大槻ケンヂの「リンダリンダラバーソウル」を読むとホロっと来ます。ちなみに解説はみうらじゅんでしたよ。

またね!


























2014年11月15日土曜日

とつぜん読書録、ヴェーダーンタ編。

いつもは気にしないことなのに、複数の蚊が目の前で、いかにもうるさく飛び交うもんで、とっさの無意識に「おすだけベープクリスタル120日」を取り出して、シュシュッっとふた吹きしてしまったんだけど、トイレに行ってみたら沢山の蚊が落ちていた。蚊帳の上にも沢山落ちていた。



説明書によれば、6畳間の場合、部屋の四隅から中心に向けて、トータル4回くらいシュッとすることになっている。が、壁に向かってたったの2回のシュシュッでこんなに・・・。どんだけ猛毒なんだ。うーん、すみませんでした。


さて、私は早くも気持ち的には2014年の総括に入っていますが、インドより久々の今年の読書録。

もちろんこちらで紹介するくらいだから、ターゲットは読者のヨーギー、ヨーギニーの皆さんですね。ヴェーダーンタ、すなわち、宗教とか概念とかじゃなくて、世が変わっても場所が変わっても変わらない普遍的な真実をトピックとする学びです。 

ということで、「ヴェーダーンタで言いたいことはこれなんだよっ!」という本を集めてみました。


一冊目は「日本霊性論」 (内田樹、釈徹宗)


神戸のウパーサナサンガの帰りに、西明石の駅ビルで買いました。いつもは100%古本なんだけどね、頑張ってお仕事を全うしたので自分にお給料を出そうってことで、新品の本を。


出版されたばかりだったので、本屋がクローズアップしてたので目に付きました。

内田樹という人のことを私は良く知らないんだけど、「なんと頭の良い人なんだ!」と新幹線の中で驚愕した一冊です。ヴェーダーンタの生徒さんに読んだ欲しい本。

どっかのアシュラムで特に手ほどきを受けたって訳じゃないのに解かってる人は、解かってるもんんなんだねえ、って感じ。


だれだって、自分の内側から起こる知識を体験しているのだとは思うんだけど、その感じを、では言葉にして他人に伝えることが出来るか、っていうと、別問題になってくる。

内田樹は言葉を使うスキルがすごい。それが五感の届かない範囲のことをを文章化するということです。しかし同時に、この本は読者に、ある程度その言葉を理解するスキルを要求します。万人にとってメリットのある大事なことを語っているけれど、万人がわかる簡単な言葉ではないのが、ちょい難点かな。

とはいえ素晴らしい本でした。


                                              


じゃあ、その話の全体像というか結論をですよ、いかにものすごく簡単な言葉で伝えるかってことになってきます。これも上記の本と一緒に買いましたが、「あなたは生まれた時から完璧な存在なのです。」(鈴木秀子)

おそらく著者の鈴木秀子シスターは、ものすごーく頭の良いアカデミックな人であることでしょ。しかし、女性らしい「コミュニケーション能力の高さ」をもって、ものすごく柔らかく温かい言葉で、大いなる結論を表現している。

なるほどー、こういうやり方もあるのかあ。簡単そうに見えて、これはなかなか難しいと思います。簡単でいて精密かつ親切な文章。いつかこんな風なスキルを身につけられたらなあ・・・。

とても感心したし、感動しました。タイのリトリートのサットサンガでも引用したよ。







そして最後に紹介するのは、「手をつなげば、あたたかい。」(山本加津子)

お馴染みトゥラシマタが貸してくれました。


こちらはですねえ、一番泣いてしまった。

上記のものよりも、もっともっと簡単な言葉で、かっこちゃんの体験と、そして、かっこちゃんの気づきを通して言葉が描かれているエッセイです。


しかもかっこちゃんは天然、ナチュラルボーンです。黒柳徹子を思わせます。


この人のアンダースタンディングはすごい、知識がご本人としっかり一つになっている。いわゆる悟った人ですよ。


ここに引用したい言葉が沢山あったのだけど、出国前のバタバタの時で、メモを取るのを忘れてしまって、だから生徒の皆さんは是非、図書館で借りて、あるいは買って(アマゾンで古本可)読んでみてね。


たぶん、いつもの、ふつうの暮らしが、もっと輝くと思います。悩みで曇っていても、雲の向こうにいつだってある太陽に、いつでも気づけるようになると思います。

毎回、先生、古い!といわれるのを承知の上で言わせておくれ!

チェケラッ!






2014年7月19日土曜日

シータマ的成功哲学


なんでもないような日々だけど、毎日まいにち、生きていると、そこに静かに、ドラマがある。日常というのは、実はものすごく濃い。


コミュニケーションの場であるインターネットが、時どき億劫になるんだけど、この初夏は特にでしたね。宣伝・告知もサボりまくり(笑)。あとは、そうですねえ、体調を崩した複数の方たちのお見舞いに、いったりしてました。


今年はあんまり忙しくしていません。だから沢山お見舞いに行けます。


人生は短くてあっという間に終わっちゃうんだから、忙しくて会いたい人に会えなかったり、行きたいところに行けなかったりするのは、いかん、と思うんです。

私の暮らしは毎年「いかん」のです。日々に流されて。だから今年は少しだけ改善してみようと思ってます。


すっごく昔にみた「フライドグリーントマト」という映画でおばあちゃんが言う台詞。

You reminded me about what the most important thing in life is friends.


結局人生で一番必要なのは友情。


そうだね。



ところで、





話は全然、逸れるんですけど、そんなこんなな訪問先で一冊の本をもらいました。ジェームズ・アレンという1800年代の人が書いた、今でいう成功哲学の本の元祖みたいな本です。言葉少なく、シンプルな本です。

個人的には、シンプル過ぎて分かりにくい人も多いと思うので(要解説な気がするってことで)、特に推薦するという訳ではないんだけど、長く読まれ続けている本です。



「あらゆる種類の価値ある達成が、努力と思いによってもたらされる王冠です。自己コントロール、決意、けがれのない思い、気高い思い、正しい思いの援助を得て、人間は上昇します。」

なるほど。

「自己コントロールの欠如、怠け心、けがれた思い、卑しい思い、謝った思いの援助を得て、人間は降下します。」


それから?


「成功を手にできないでいる人たちは、自分の欲望をまったく犠牲にしていない人たちです。人間は、もし成功を願うならば、それ相当の自己犠牲を払わなくてはなりません。」





私が、日頃、先生をやっていて思うことは、

「あれも欲しい、これも欲しい、それも欲しい」

というカワイイ欲張りが、一つの大切なことを達成する障害となっているか、ということです。



人として生まれた全ての者が闘わなければならない、共通のものってなんだかわかります?

チッチッチッチッチッチッチ


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それは「時間」ですよね。正解した?


限られている時間の中で、欲しいもの全部、やりたいこと全部、とってたら、たぶん何一つ高みに達成することはできません。多分、ネットサーフィンみたいな人生で終わっちゃう。

この本で自己犠牲っていうのは、そいうことだと思う。


他の人たちに比べると、私は極端な例で、だいぶストイックだと思います。少数派という意味において、だいぶ過激なような・・・それが自分のことをテロリストみたいだなあ、と思う所以なので、私を真似しろとは決して言えません。



ただ、コミットするってことだよね。


それは、何があなたの成功なのかを、知ること。

あと集中力。


学びは一生。


根性ある生徒さん達には、いつも本当に元気をもらいます。


来週も頑張ろうね。



Sita









2014年5月2日金曜日

奇跡の脳

みなさん、こんにちは。

まず、はじめに、クラウドファンディングでのヨガホール建設&寄贈プロジェクトにご協力下さった皆様、ありがとうございます。終了まであと60日を切りました。目下、36%のご支援表明を頂いており、私は、ビビりですから、あと64%と思うと、もうパソコン開く度にドキドキしちゃって、心臓が・・・。ひきつづき応援よろしくお願いします。

このプロジェクトの新着情報をなるべくマメにアップして、訪れるのが楽しいページにしたい!と思ってるのですが、先ほどトライしたら、何故かアップロード出来なかったので、とりあえず、こっちをアップデートしようってことで・・・。

いやはや、インドにいる間に、多くの方から「ブログアップしないんですかー?」「なかなかアップしないから、過去の記事を片っ端から読んで凌いでますよ?」などなどのお声を頂いていましたからね、これからは頑張るのです。ロシアのウパーサナー、三浦半島のユウジさーん、鹿児島のミポコー!ほらほら〜、更新してますよー!




ところで私、水戸におります。納豆の水戸、黄門の水戸です。今日は大阪のイベントの為に新幹線の格安チケットを買いに町にいってきました。(注:田舎では繁華街に出向くことを町に行く、と言うのです。)

水戸駅の北口にでると、そこには水戸黄門の銅像がベベーン!と立っていて、そこから国道50号線がズズイッと真っすぐ伸びています。お天気も良かったので、この50号線を市の外れにある実家に向かって歩いて帰ったのですが、途中「笠間24km」の標識に「む。徒歩圏内じゃん!」と思った自分が大変たくましく思えました。いくら私でも昔は笠間は徒歩圏内では無かったぞ(笑)。

田舎にいるとねえ、本当に運動不足になります。実家で落ち着いてアーサナを出来るスペースも無く、歩くのが唯一の慰めなんだけど、誰も歩かないのよ。駅から8キロ歩く、というと変人扱いで全力で止められます。変人なんで勝手に歩かせてくれいただくんですが。

(脳の)茂木さんもテレビで言ってたけど、二足歩行のひとときは「歩行禅」といって格好の瞑想時間だし、やはり足腰鍛えておかないとなあ、って思う。私はねえ、人は、歩かなくなると、生き物としての大事な能力が削ぎ取られるような感じがしてならないのですよ。右脳と左脳のバランスと、そして右脳のアビリティーが。

まあ、そんなこんなで、今日は、本の話。


〜どんなときに、深い心の安らぎのループが働いているのかに気づくことができれば、その回路に意識的につなげることが容易になります。どんなときにこの回路が働いているのかわからず、悪戦苦闘している人もいるでしょう。その唯一の理由は、他の思考に心が向かっているせいです。これは、当然のことです。なぜなら、西洋の社会は左脳の「する」(doing)機能を右脳の「ある」(being)機能よりずっと高く評価し、報酬を与えるものだから。あなたが右脳マインドの意識に近づくのが難しいのは、あなたが成長するあいだに「こうしなさい」と教えられたことを実にうまく学んできたからにほかなりません。細胞達のこれまでの成功を、褒めてあげてください。そのうえで、わたしの仲の良い友人、カット・ドミンゴ博士が宣言しているように、「悟りは、学ぶことではなく、学んだことを忘れること」だと知りましょう。(※ 守破離ですねえ・・・byシータ)

(中略)

左脳マインドはわたしを、いずれ死にいたる一人の脆弱な人間だと見ています。右脳マインドは、わたしの存在の真髄は、永遠だと実感しています。いずれ、わたしは自分をつくっている細胞を失い、三次元の世界を知覚する能力を失うかもしれませんが、このエネルギーはただ幸せに満ちた穏やかな海に還ってゆくだけ。〜


これはある脳解剖学者の手記です。以前この人のトークをYoutubeで見たことがあったのですが、最近、活字で読みました。

若くして有能なドクターでしたが36歳の時に脳溢血になるのね。この手記は脳溢血が起ったときと、快復における脳感覚、身体感覚、超感覚の記録になります。

後半は殆ど、瞑想者とか、いわゆる聖者=悟った人、お釈迦様みたいな人の言っていたことに似た体験が書かれているのが面白い。「瞑想とか、そういうのがどうしても嫌!」と抵抗のある方には良いと思いますね。科学者の左脳を駆使して書いた右脳体験の記述。です。

それからもちろん、脳溢血が我が身に起ってしまった人だけでなく、脳溢血がこれから起る可能性のある人、すなわち私たち全ての人間にも、勇気と知識を与えてくれる本です。女性の口語体で書かれているので、気楽な感じで一般的に読み易って言われてるよ(私は女性語に慣れてないのでちょっと読みにくかったけど・・・)。


右と左を繋ぐんですよ。あるいはバランスするんです。「人間そんなコントロール権は持っていない」と皆は思ってるんでしょう?ここはひとつ、科学者ではない単なるヨガの人である私に言わせてください。

それは「わたし」によって可能なんです。


ヨガの先生は是非読んどいて下さい。










2010年3月6日土曜日

愛がなんだ?!


再び「いのちの輝き」より。

 「自分が大いなる進化のなかにいると気づいたとき、人はどう変わるのだろうか?


 たとえば、その人は弾むように軽やかに歩くようになる。たえず自然の美のエネルギーを吸収しているからだ。たとえまわりが自然に無関心な人たちばかりという環境に居ても、ささやかな自然にひそむ細部の美の多様性に感動し、こころを打たれるようになる。そして自然とのつながりはますます強く、豊なものになっていく。



 その人はまた、自己を表現することによって進化をかたちにあらわすようになる。自己の内なる健康を外部の世界と交流させるようになる。人を助けることに喜びを見いだすようになる。もとめられる前に、すすんで手をさしのべるようになる。



 健康であることの大切さは、ただ自分のためだけではない。自分の健康はある意味で、すべての生き物の健康と進化につながっているのだ。われわれはともに、この世界を分かちあって生きている。あらゆる生き物が平等に、宇宙の力に頼って生きている。だから地上に生きる目的のひとつは、われわれすべてがひとつの存在であるという事実に気づくことにある。」




 昔々、いっちょまえに、胸が裂かれるような悲しい事が沢山あって、ある日、泣いてばかりの私に、大人の人が教えてくれた。「愛とはね、理解と信頼ですよ、ユミコさん。」 一粒の種が投じられた訳ですね。その種は、やがて芽吹いて、枝葉を拡げて行きました。「understanding」、揺ぎない「confidence」、もう少し大人になって、「acceptance」、それから「forgiveness」・・・・。これらの言葉って、全部おんなじものを説明しているみたい。



愛は幾つもない。愛は一つだ。

愛は、減らない。愛は、つまり、失えない。



 上に引用した、フルフォード博士の文章を読んでいて、たしか柳田国男だったと思うけど「疲れ果ててとぼとぼ歩いてくる人に、黙って野の花を一輪差しだすような」・・・という一文をなぜか思い出したんですね。その心持こそが・・・芸術だったか文学だったか・・・忘れちゃったんだな、これが。もう一度読みたいのだけど、本を捨てちゃったし、日記に書き付けているけど、膨大な記述から探し出すことも難しく・・・誰か、知ってる人いたら教えて下さい。



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こういうこと言うと、怒られちゃうかもしれないけど、私は、な~んの大層なことの一つも考えてないんですよ。「ヨガの先生として、人々にヨガの良さを伝えたい」とか「立派な先生になりたい」とか・・・そんな大義名分は、ひとっつも抱いていません。過去に抱いたことも・・・(すまん)一度も無い。(実際、東京で先生になることになった時、NYに逃げ帰ってますからね。でスワミジに You can make it ! Go to Japan ! とか言われて追い返されて。 )


 ただ、自分が変われば、世界が変わる、その手ごたえは信じているんです。仏教でもたしか、災害だって辱悪な想念の集合に起因するものと説かれるでしょ。自分とこの世界とは、たがわず一つのものだとういうことを、全身全霊で現す、つまり、きらきら生きる。地味な草の根運動かも知れないけど、それが全てだと思います。
だから私は、その挑戦に、この人生を賭ける。


 黙ってそこにある野の花でいい、一輪でいい。疲れてとぼとぼ歩いてくる人が、微笑んでくれても、そうでなくても、どうでもいい。「あなたに笑っていて欲しいから」というモチベーションは、たぶん「愛」じゃなかった。あなたが笑ってくれなくても、私は変わらず、そこここに、限りある命の全てを賭けて咲こう。しかし、どんな嵐も、この花を、傷つけることは出来ない。その花の「本質」を知っていること、その強さ、それが私にとっての愛です。



だって、愛は傷つかない。



以下、写真家であった星野道夫のエッセイより。



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「いつか、あるひとにこんなことを聞かれたことがあるんだ。たとえば、こんな星空や泣けてくるような夕日を一人で見ていたとするだろ。もしも愛する人がいたら、その美しさやその時の気持ちをどんなふうに伝えるかって?」



写真を撮るか、もし絵がうまかったらキャンパスに描いて見せるか、いややっぱり言葉で伝えたらいいのかな。



 『その人はこう言ったんだ。自分が変わってゆくことだって・・・その夕陽を見て、感動して、自分が変わってゆくことだと思うって。』



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ね?愛はどうだ!


2010年3月2日火曜日

「いのちの輝き」


「霊性とは不完全な世界にあって平和と幸福を見出す能力のことだといっていい。それはまた、自己のパーソナリティーの不完全さを理解し、それをそのまま受容することでもある。理解し、受容したときのこころのやすらぎから、創造性と利他的に生きる能力が生まれてくる。」


 「いのちの輝き」(Touch of Life-The Healing Power of the Natural Life Force)という本の中で、ロバート・C・フルフォード博士が書いている文です。
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Dr.フルフォードは、オステオパシーという手技を用いた治療法の大家。たしか1997年に亡くなっているのかな。彼がVedantaの師について勉強したということは、まず無いはずだけど、この一文を読んで、「道は違えど行きつく答えは一つなんだな~」と思いました。また博士が、長年の治療の経験から得た結論は、我々が代々先生から教わって、あるいは、経験から得た智識と、一致している。
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 この本は、本当に素晴らしい本ですね。以前、伊豆でリトリートをした際に寄せていただいた「こだま荘」の女将が寄贈してくれた本なのです。今、私が借りて読んでます。どんな素敵な旅館か想像つくでしょ。ホスピタリティーに愛を感じましたもの。しかも私は女将のテアテセラピーを受ける幸運にあずかり・・・女将、その節はありがとうございました。


 愛について。


「愛とは、霊的な力を発現させるエネルギーのことである。

~人を愛する能力の有無は、その人の内部にある本質に気づき、それをうやまう能力の有無にかかっている。その本質の美しさに気がつくと、その人にひきつけられるようになる。その人もあなたにひきつけられる。もはや、そこにいるのはふたりの人ではなく、ひとつ、たがいに分かちあう愛のなかでくくられたひとつの存在である。愛の行為とは相手を「全体」にひろげることであり、愛とはあたえ、またあたえることである。」


愛が霊性につながって、また愛に帰ってる。これは、大宇宙の大きな企みですぞ。・・・ってことで(って関係ないけど)私も、愛を語ろうではないか、じゃじゃーん、近日公開!と予告してみました~。先程「いのちの輝き」を間違えて「いのちのかば焼き」と入力してしまいましたが
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愛してますよ~!


Sita


」