じつは・・・ちょいと夏バテ中・・・なんだと思う。お腹こわしてます。まあそれも良かろう。暑いながらも風は涼しく、そんな時私は、この気だるい部屋という水槽の底から水の外の世界を眺めています。あるいは手当り次第に本を読みまくる・・・何冊も平行して読みながら、自分の中の世界だけを眺めてみたりしています。
ジュリア・ロバーツが主演した映画「食べて、祈って、恋をして」は、ヒロミダスと一緒にタイで観たんだけど「うーん・・・」という感じでした。同じ日に観た「ベストキッド」の方が良かったねって感じ。
しかし、この夏バテのさなかに縁あって原作本を読んでみたんだけど、本の方はだいぶ良かったのです。なかなか面白かった。「私だったら?」と自分に問いかけながら読める女子本。
統合のつかない情緒に振り回されながら、それをなんとか制して自分の生き方を見つめよう、とガッツなトライをする女の人の自叙伝ですね。本の中に、すごい執念というか、アメリカ人の素朴さとパワフルさを観ることができました。中には「へ?」というような記述もあるんだけど概ね良かった。
アンボリに居た時「この本を読んで(あるいは映画をみて)来た!」といってアシュラムを訪れる西洋人女性が幾人かいた。そういう場合ちょっと面倒くさい人である可能性が高い。本当に嫌だよ、いい加減にしてくれよ!って私は思ってた。
本を読んでみて、その理由がなんとなく分かったような気もするな。同時に、こういう迷惑っぽい人も、純粋な「自己」へ探究心の種をもっている、みんながon the wayなんだ!ということもわかった。ちょっと勉強になりました。
それにしても、主人公の「自分自身を生きたい」と願う根性?執念?はなかなかエライものがある。
とにかく、学ぶこと・・・学び続けることっていうのは、そう簡単なことじゃないんですよね、きっと。主人公が挑戦し続け得るのは、執念というより「本心」なのかな。本当に知りたい、その強い気持ち。正直。
たとえその気持ちがあっても「大人になってからの学び」は、これまで学校で受けた受け身教育とは違う。だから大変。「自分の頭を通さないとダメなんだって分かった」と月曜日のよっちゃんが言ってたけど、その通り、絶対的な能動性がまず必要。
世渡り上手な大人になると、自分相手にまで上手く世渡りしちゃって、それもよくない。周りの人や自分を誤摩化して楽な方に流れたりする。
しかし、たとえ「本気度」があったとしても、病気になったり、仕事や家族などの環境の為に「学び」を続けられなくなることもあるのが世の常なのです。だから私達はクラスの前にお祈りを唱える。どうぞ、この学びがつつがなく成就しますように、と。それからシャーンティという音を三回。三つの世界からもたらされる邪魔を退けるため。一つは「自分」から、一つは「自分以外の生き物」から、そしてもう一つは私達を取り巻く「環境」からもたらされるもの。
でもね、私は思うのですよ。たとえ様々な障害があなたの身に降り掛かっても、「本気中の本気」でなんとか持っていけるのではないか?本気の願いを神?が聞かない訳がないのではないか。本気の本気の人間を見たら、その人に手を差し伸べずには居られないんですよ、人は。この本を読んで更に確信した。必死で生きる本気の姿を観た時、人は感動するし惚れるんだって、ある結婚式で神父さんが言ってたけど、一理あると思う。
Jnana yogiは猿の子のように、何がなんでも自分から、必死にお母さんのお腹にしがみついていくんだって、そう教わった。猫のようにお母さん猫の名前を呼んでいてもダメだって。
だから気を落とさないで、その思いを燃やし続けていて下さい。上っ面ではなく、本気の本気を。きっときっといつか、あなたの学びが成就しますことを祈ってます。
ちなみに遅くなりましたが、豆の王国で話題に上った英語もうちょっと頑張りたい人の為のヨガ本はコレですよ。英語と日本語のダブルでもってね!でも言語なんてただの道具。何の心配もない。印グリッシュの私でも幸せに生きてるよ。
窓から誰かの口笛が聞こえる。「ルパン三世のテーマ」だ。
さ、そろそろ水槽から世界へ出るか。
今日も勉強会に行ってきます。
ジュリア・ロバーツが主演した映画「食べて、祈って、恋をして」は、ヒロミダスと一緒にタイで観たんだけど「うーん・・・」という感じでした。同じ日に観た「ベストキッド」の方が良かったねって感じ。
しかし、この夏バテのさなかに縁あって原作本を読んでみたんだけど、本の方はだいぶ良かったのです。なかなか面白かった。「私だったら?」と自分に問いかけながら読める女子本。
統合のつかない情緒に振り回されながら、それをなんとか制して自分の生き方を見つめよう、とガッツなトライをする女の人の自叙伝ですね。本の中に、すごい執念というか、アメリカ人の素朴さとパワフルさを観ることができました。中には「へ?」というような記述もあるんだけど概ね良かった。
アンボリに居た時「この本を読んで(あるいは映画をみて)来た!」といってアシュラムを訪れる西洋人女性が幾人かいた。そういう場合ちょっと面倒くさい人である可能性が高い。本当に嫌だよ、いい加減にしてくれよ!って私は思ってた。
本を読んでみて、その理由がなんとなく分かったような気もするな。同時に、こういう迷惑っぽい人も、純粋な「自己」へ探究心の種をもっている、みんながon the wayなんだ!ということもわかった。ちょっと勉強になりました。
それにしても、主人公の「自分自身を生きたい」と願う根性?執念?はなかなかエライものがある。
とにかく、学ぶこと・・・学び続けることっていうのは、そう簡単なことじゃないんですよね、きっと。主人公が挑戦し続け得るのは、執念というより「本心」なのかな。本当に知りたい、その強い気持ち。正直。
たとえその気持ちがあっても「大人になってからの学び」は、これまで学校で受けた受け身教育とは違う。だから大変。「自分の頭を通さないとダメなんだって分かった」と月曜日のよっちゃんが言ってたけど、その通り、絶対的な能動性がまず必要。
世渡り上手な大人になると、自分相手にまで上手く世渡りしちゃって、それもよくない。周りの人や自分を誤摩化して楽な方に流れたりする。
しかし、たとえ「本気度」があったとしても、病気になったり、仕事や家族などの環境の為に「学び」を続けられなくなることもあるのが世の常なのです。だから私達はクラスの前にお祈りを唱える。どうぞ、この学びがつつがなく成就しますように、と。それからシャーンティという音を三回。三つの世界からもたらされる邪魔を退けるため。一つは「自分」から、一つは「自分以外の生き物」から、そしてもう一つは私達を取り巻く「環境」からもたらされるもの。
でもね、私は思うのですよ。たとえ様々な障害があなたの身に降り掛かっても、「本気中の本気」でなんとか持っていけるのではないか?本気の願いを神?が聞かない訳がないのではないか。本気の本気の人間を見たら、その人に手を差し伸べずには居られないんですよ、人は。この本を読んで更に確信した。必死で生きる本気の姿を観た時、人は感動するし惚れるんだって、ある結婚式で神父さんが言ってたけど、一理あると思う。
Jnana yogiは猿の子のように、何がなんでも自分から、必死にお母さんのお腹にしがみついていくんだって、そう教わった。猫のようにお母さん猫の名前を呼んでいてもダメだって。
だから気を落とさないで、その思いを燃やし続けていて下さい。上っ面ではなく、本気の本気を。きっときっといつか、あなたの学びが成就しますことを祈ってます。
ちなみに遅くなりましたが、豆の王国で話題に上った英語もうちょっと頑張りたい人の為のヨガ本はコレですよ。英語と日本語のダブルでもってね!でも言語なんてただの道具。何の心配もない。印グリッシュの私でも幸せに生きてるよ。
窓から誰かの口笛が聞こえる。「ルパン三世のテーマ」だ。
さ、そろそろ水槽から世界へ出るか。
今日も勉強会に行ってきます。