2010年3月30日火曜日

Mani 来たる


 半年振りにMani Chaitanyaがやってきます。昨年は伊豆のこだま荘さんで、リトリートしましたね。こちらの宿はマッサージチェアもさることながら、お湯がいいんですよ。ちょうどさっきまで一緒にいた仲良しのKhalsa先生が、Gurmuku師(ともに3HO)の来日リトリートの為に、視察に行って来たとのことで、女将さんが元気だった旨も報告もらいました。私からのHelloも伝えてくれてるはず。そんなこと言ってる、まさに今夜は、某スタジオのL先生が泊ってるって。ホントに、この世界は狭い・・・というか、こうして、ボーダーレスで heart to heartのお付き合いが出来るのは、ヨーガの世界ならではなんじゃないかな。

 今日は、次から次へといろんなティーチャーズが現れては、共に時間を過ごし、不思議な一日でした。楽しかったな。アシュタンガでしょ、アヌサラでしょ、クンダリニーでしょ、アクロでしょ、フリースタイルの先生も。そしてシヴァナンダの私。夜は夜でDhyananda先生の御弟子である先生とお話して。国籍も、流派もみごとにバラバラ。後腐れも、制約もない、ただの静かな愛がそこにありました。ほんとはね、最初から垣根なんて無いんですよ。これがリアルワールドなんです。マニも居たらよかったなって思いました。
 
 マニ先生は4月2日から11日まで東京と焼津、そして、茅ヶ崎で教えます。4月10日の茅ヶ崎は、ロハス茅ヶ崎のJayadevaさんにお願いして場所を提供していただきました。どこに行ってもリアルワールドを表現できるよう、私は、一生懸命頑張ります。私たち先生は、みんながいるから頑張れる。この場を借りて突然ですが、いつも本当にありがとう。その恩に報いるための人生なような気がします。

 急な来日で、スケジューリングが追い付いていない感がありますが、ご興味のある方は、お手数ですが、SYVC 、ZANTRAヨガ、そしてロハス茅ヶ崎 HPをチェケラッ!(また古い?)
 

2010年3月24日水曜日

劇的ビフォー&アフター?!

 こんにちは。お元気ですか。シータです。どうやら、人気らしいんですよ、このコーナーが面白い・・・と。どこまで変な写真を載せていいものかわからず、面白くなれるかどうか疑問ですが、行ってみましょう!『劇的ビフォー&アフター写真館』partⅡです。


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今は大体こんな感じよね。黄色い衣に身を包み、インドアピクニック。

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これは、15年くらい前か?アウトドアピクニックなんだけど・・・
悪そうな顔してんな~。
ヨガはしていませんでしたが、シャツにはしっかりとマントラ。



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髪を振り乱して熱唱しとりますな。


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 それに対し・・・この衝撃のブリっ子写真!2005年当時のプロフィール用のショットだけど、郷に入っては郷に従えっていうんですか?東京ティーチャーズの爽やかな感じに迎合してみました~。本当は、Gパンのポッケに入るくらい髪が長いんですけど、後ろにうまく隠してる。


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・・・にもかかわらず、その裏ではこういうことをしているわけで・・・。
これヨガの自主勉強会なんですけどね~。

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といっても、元々はこうだから、益々訳がわかりません・・・・。
ステージではカッチョよかったらしいですよ。こんな感じでね。


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今はすっかり落ち付いてお母さん風情・・・

と見せかけて、小学生に紛れてみました~!
それではみなさん、ごきげんよう!

2010年3月19日金曜日

プラーナヤーマ&メディテーション 18週コース


 5月から、毎週日曜日、18週間のプラーナヤーマ&瞑想のプラクティスコースをさせていただく予定になっています。コースっていいんですよね。関係を継続することで、信頼関係のもとに学び合えることは、お互いにとって、大きな利点です。


 これまで一番長かったのは6週間の「インヴァージョンクリニック」ですが、皆さん感動的な進歩を見せて下さって、わたしゃ心の中で、夕日に向かって走りましたね。ちなみに、裏タイトルは「小姑コーチSitaの鬼の逆立ち特訓コース」でした。


 しかし、18週とは前代未聞のロングコース、もちろん私にとっても初めての経験。18週間、特定の人々にコミットする・・・知らない人と、責任のある関係を締結する訳ですよね。ある意味で、恐れを伴うことです。「他人に対して誠実・公明であれるか」の答えは、「自分に対してそうあれるか」という問いだから。


 実が伴わず、虚勢になっていないか?自分と正直に向き合えているか・・・?この18週は私にとっても、越えなければならない大きな山だと思っています。新米先生の私は、こうして生徒の皆さんに育てられてるんですよね。そして、私を信じて機会を投げてくれる yogajaya スタッフに・・・。そうじゃなかったら、単なる怠けものですからね~。はっはっは!(いばってる場合ではない・・・)感謝です。


 トピックと日程が決まると、お父さん(小姑じゃなかったっけ?)は、内容、構成を考え始めます。家族全員を見守り、誘導する為には、何を、どう伝えるべきか・・・・。紡ぎだしては自分の中で、何度もシミュレーションします。はじめに「アイデア」ありきの「カタチ」ですからね。私にとっては、この時間が、大切だし、幸せです。「部分」が「全体」に繋がっていく感じの、揺ぎ無さが、とても好き。「考えて」るのに「無心」っていうのは、変かも知れないけど、その時間を振り返ると、やっぱり「無心」のような気もします。脳みそフル回転で、膨大なデータが往き来しますが、地球時間(・・・ウルトラの父でしたか?)は実はそんなに掛かっていません。そうそう、告知用のコピーも全て、一生懸命、自分で書いてますよ。これから出会う18週の家族のために。

 
 写真は、日光ワークショップのあと。力尽きて湖畔で昼寝をしている怠け者です。もう、どこでも寝る。




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プラーナヤーマ&メディテーション18週間 実践コース(仮)


Practice of Pranayama & Meditation



◆コース概要



プラーナヤーマとは、我々の体に満ちる生命エネルギー(vital energy)をコントロールすることを意味します。このプラーナヤーマは、ラージャヨーガのゴールである瞑想を深める為の、極めて重要な浄化の過程であり、心のコントロールそのものと言えます。



その習得と成熟には、習慣性と辛抱強さ、冷静さを要しますが、18週という長い期間にわたって、互いの信頼を高めあい、体験をシェアすることが、その大きな助けとなるでしょう。コースのテーマは「調和」。プラーナヤーマと瞑想を通して、響きあう心と身体、人と人、個と大いなる宇宙の調和を得ます。



本コースは、単なる情報の獲得にとどまらず、知識を実践と統合していくことを目的とします。徐々に体を慣らしながら進行していきますが、継続的な実践が伴いますので、現在妊娠している方、期間中に妊娠を予定している方、精神科の医師の処方を受けている方、高血圧症の方はご参加いただけません。その他、既往症のある方は、担当医の指示をあおぐとともに、事前にご相談ください。




◆コーススケジュール

ヨーガでは、「形あるものは①潜在、②発生、③維持と変化、④消滅の四つのサイクルを繰り返している」と説かれますが、本コースも自然の摂理になぞらえ、18週間を4つの期間に区切って練習していきます。各期間とも、レクチャー、実践、そしてシェアリングの時間を含みます。




1ヶ月目 「準備期(Existence Term 5週間」


体の基礎を整える。アーサナと呼吸によるナディ(プラーナの通り道)の浄化。心身休息の訓練。



2ヵ月目 Brahma期(Generating Term4週間」


プラーナの蓄積の開始、止息を伴うプラーナヤーマ。キャパシティの拡大。感覚を利用した瞑想。



3ヵ月目 Vishnu期(Observing Term4週間」


キャパシティの更なる拡大、上級プラーナヤーマへの移行。感覚を離れた瞑想への移行。



4ヵ月目 Siva期(Dissolution Term5週間」

前月までの練習に加え、心的プロセスを使ったナディの浄化。瞑想の時間の拡大。

2010年3月12日金曜日

Hari Om リレーションズ


 今年も、Dhyananda Ashramより、Swami Dhyananda ji が来日されます。(http://vedanta.exblog.jp/10741827 ) 昨年のその時期は、Dhyananda ji と、あとSYVCのMani先生の来日もあったので、私もコソコソと帰国していたのでした。ああ、時の過ぎるのは速い。

 Swami Dhyananda師(Dhyananda Ashram)は、Swami Sivananda師(Divine Life Society)の弟子のSwami Chinmayananda師(Chinmaya Mission)の弟子・・・だった筈ですが(・・・こんがらがった?)、「シヴァーナンダ・ヨーガ」(成瀬貴良先生訳)を読まれた方。あの本の中に、喫煙をやめない蛮カラ(死語?)な弟子をグルデヴがユニークなやり方で教化するエピソードが載っていたでしょ?私の記憶が正しければ、その蛮カラな御弟子さんが後のSwami Chinmayananda師だったと思いますョ。

 そういえば、Mani の最初の先生は、Chinmaya Misson のスワミジじゃなかったけなぁ・・・。違ったらアレですけど、私の記憶が正しければ・・・。(違ったらすまんマニよ、皆様よ。)

 Swami Sivananda gurudevは、Chinmayananda師のようなVedantaの得意な御弟子さんにはVedanta、Raja Yogaに向いている弟子にはRaja Yoga、Hatha Yoga が向いている子には Hatha Yoga・・・というふうに、教えを授けたそうですが、インドではこれはかなり斬新なことなんだそうです。

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 巡りめぐって、個が生まれては、100%もれなく死んでゆくなか、親から子へ、師から弟子へ、袖を掠りあいながらバトンを渡しあって、みんな生きているんですね。真実の種が、あらゆる時代の、あらゆる場所で、そっと蒔かれては、時を経て花開く。その絶えまない連続は、とおい銀河の果てから届き続ける、星の光みたい・・・。

 ・・・今ここに、こうして自分が存在することが、どれだけの恩寵か・・・。そのことを知った時が、自分がこの世界を愛しているし、同じだけ世界に愛されていることを、知った時だったと思います。

 なんか、最近、真面目なことばっかり書いてるけど(根がシリアスなもんで・・・)、そろそろ面白いことも書かなくっては。といっても、私の中で、ユーモアとシリアス完全にイコールですからね(笑)。そこに茶化しや嘲笑は無いっ。真正面からどーんと笑いましょう。では、またね。

2010年3月6日土曜日

愛がなんだ?!


再び「いのちの輝き」より。

 「自分が大いなる進化のなかにいると気づいたとき、人はどう変わるのだろうか?


 たとえば、その人は弾むように軽やかに歩くようになる。たえず自然の美のエネルギーを吸収しているからだ。たとえまわりが自然に無関心な人たちばかりという環境に居ても、ささやかな自然にひそむ細部の美の多様性に感動し、こころを打たれるようになる。そして自然とのつながりはますます強く、豊なものになっていく。



 その人はまた、自己を表現することによって進化をかたちにあらわすようになる。自己の内なる健康を外部の世界と交流させるようになる。人を助けることに喜びを見いだすようになる。もとめられる前に、すすんで手をさしのべるようになる。



 健康であることの大切さは、ただ自分のためだけではない。自分の健康はある意味で、すべての生き物の健康と進化につながっているのだ。われわれはともに、この世界を分かちあって生きている。あらゆる生き物が平等に、宇宙の力に頼って生きている。だから地上に生きる目的のひとつは、われわれすべてがひとつの存在であるという事実に気づくことにある。」




 昔々、いっちょまえに、胸が裂かれるような悲しい事が沢山あって、ある日、泣いてばかりの私に、大人の人が教えてくれた。「愛とはね、理解と信頼ですよ、ユミコさん。」 一粒の種が投じられた訳ですね。その種は、やがて芽吹いて、枝葉を拡げて行きました。「understanding」、揺ぎない「confidence」、もう少し大人になって、「acceptance」、それから「forgiveness」・・・・。これらの言葉って、全部おんなじものを説明しているみたい。



愛は幾つもない。愛は一つだ。

愛は、減らない。愛は、つまり、失えない。



 上に引用した、フルフォード博士の文章を読んでいて、たしか柳田国男だったと思うけど「疲れ果ててとぼとぼ歩いてくる人に、黙って野の花を一輪差しだすような」・・・という一文をなぜか思い出したんですね。その心持こそが・・・芸術だったか文学だったか・・・忘れちゃったんだな、これが。もう一度読みたいのだけど、本を捨てちゃったし、日記に書き付けているけど、膨大な記述から探し出すことも難しく・・・誰か、知ってる人いたら教えて下さい。



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こういうこと言うと、怒られちゃうかもしれないけど、私は、な~んの大層なことの一つも考えてないんですよ。「ヨガの先生として、人々にヨガの良さを伝えたい」とか「立派な先生になりたい」とか・・・そんな大義名分は、ひとっつも抱いていません。過去に抱いたことも・・・(すまん)一度も無い。(実際、東京で先生になることになった時、NYに逃げ帰ってますからね。でスワミジに You can make it ! Go to Japan ! とか言われて追い返されて。


 ただ、自分が変われば、世界が変わる、その手ごたえは信じているんです。仏教でもたしか、災害だって辱悪な想念の集合に起因するものと説かれるでしょ。自分とこの世界とは、たがわず一つのものだとういうことを、全身全霊で現す、つまり、きらきら生きる。地味な草の根運動かも知れないけど、それが全てだと思います。
だから私は、その挑戦に、この人生を賭ける。


 黙ってそこにある野の花でいい、一輪でいい。疲れてとぼとぼ歩いてくる人が、微笑んでくれても、そうでなくても、どうでもいい。「あなたに笑っていて欲しいから」というモチベーションは、たぶん「愛」じゃなかった。あなたが笑ってくれなくても、私は変わらず、そこここに、限りある命の全てを賭けて咲こう。しかし、どんな嵐も、この花を、傷つけることは出来ない。その花の「本質」を知っていること、その強さ、それが私にとっての愛です。



だって、愛は傷つかない。



以下、写真家であった星野道夫のエッセイより。



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「いつか、あるひとにこんなことを聞かれたことがあるんだ。たとえば、こんな星空や泣けてくるような夕日を一人で見ていたとするだろ。もしも愛する人がいたら、その美しさやその時の気持ちをどんなふうに伝えるかって?」



写真を撮るか、もし絵がうまかったらキャンパスに描いて見せるか、いややっぱり言葉で伝えたらいいのかな。



 『その人はこう言ったんだ。自分が変わってゆくことだって・・・その夕陽を見て、感動して、自分が変わってゆくことだと思うって。』



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ね?愛はどうだ!


2010年3月2日火曜日

「いのちの輝き」


「霊性とは不完全な世界にあって平和と幸福を見出す能力のことだといっていい。それはまた、自己のパーソナリティーの不完全さを理解し、それをそのまま受容することでもある。理解し、受容したときのこころのやすらぎから、創造性と利他的に生きる能力が生まれてくる。」


 「いのちの輝き」(Touch of Life-The Healing Power of the Natural Life Force)という本の中で、ロバート・C・フルフォード博士が書いている文です。
Dr.フルフォードは、オステオパシーという手技を用いた治療法の大家。たしか1997年に亡くなっているのかな。彼がVedantaの師について勉強したということは、まず無いはずだけど、この一文を読んで、「道は違えど行きつく答えは一つなんだな~」と思いました。また博士が、長年の治療の経験から得た結論は、我々が代々先生から教わって、あるいは、経験から得た智識と、一致している。
 この本は、本当に素晴らしい本ですね。以前、伊豆でリトリートをした際に寄せていただいた「こだま荘」の女将が寄贈してくれた本なのです。今、私が借りて読んでます。どんな素敵な旅館か想像つくでしょ。ホスピタリティーに愛を感じましたもの。しかも私は女将のテアテセラピーを受ける幸運にあずかり・・・女将、その節はありがとうございました。


 愛について。


「愛とは、霊的な力を発現させるエネルギーのことである。

~人を愛する能力の有無は、その人の内部にある本質に気づき、それをうやまう能力の有無にかかっている。その本質の美しさに気がつくと、その人にひきつけられるようになる。その人もあなたにひきつけられる。もはや、そこにいるのはふたりの人ではなく、ひとつ、たがいに分かちあう愛のなかでくくられたひとつの存在である。愛の行為とは相手を「全体」にひろげることであり、愛とはあたえ、またあたえることである。」


愛が霊性につながって、また愛に帰ってる。これは、大宇宙の大きな企みですぞ。・・・ってことで(って関係ないけど)私も、愛を語ろうではないか、じゃじゃーん、近日公開!と予告してみました~。先程「いのちの輝き」を間違えて「いのちのかば焼き」と入力してしまいましたが
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愛してますよ~!


Sita


2010年3月1日月曜日

茅ヶ崎へ


 先日、「ロハス茅ヶ崎」にお邪魔しました。なんていうんでしょうね、うまく説明できないけど、とても懐かしい感じのする教室だったんですよね・・・。うっかり写真機を持っていくのを忘れたので、次に行くときは撮影してきます。聞けば以前は、障害者の方の作業所だったそうです。周囲の方の御理解も含め、温かい気配に満ちた素敵なところでした。久保さん、このブログ用に私が訳したキプリングの詩を、印刷して置いて下さってたりして、気恥しいながらも、うれしかったです。

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 個人的な話をすると、私は高校を卒業して家を出て、その時に住んだのが茅ヶ崎です。子供の時は、「学校」が社会の殆ど全てで、「環境」が人間関係の最大のモチベーションでした。これが、私には窮屈でね~、どこか腑に落ちないものを感じていたんですね。でも、これからは、全てが自分の選択と行動が、私の環境をつくる。これからは自分で選ぶんだ、私はどこへでも行けるんだ・・・って思ったら、人生に対する責任感と共に、どうしようもない歓びが湧きあがってきたのを覚えています。

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とはいえ、苦悶と歓喜を混ぜこぜにして、パンパンに詰め込んだ、青春時代。一筋縄ではいきませんでしたけどね。沢山泣いて、沢山笑って、悩んで苦しんで・・・ああ、思い返すと、いじらしいですねぇ。あの時君は若かった。人生第二期のスタートだから、第二の故郷と勝手に呼んでいるこの町を、大人になって再訪できて、うれしかったです。

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この機会を作ってくださった久保さんと、お集まりいただいた皆様、ありがとうございました。また茅ヶ崎で会いましょうね。