2010年4月26日月曜日

Amazing Grace


 この歌を歌っていると、なぜかいつも、胸がいっぱいになって、「ウッ!」とこみ上げるモノがあります。歌詞のせいです。「ゆみこさん・・・あなたまさか!」ちなみに、吐き気ではなく、涙ですよ、念のため。
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 そういえば、Vedanta Campでもスワミジが仰ってましたね~。我々が神の恩寵=graceと呼んでいるモノも、全体の秩序の一部分であると・・・。主にpunya(良い報い)に関して、「神様の恩恵だわ!」と思う訳ですが、私たち日本人はまた「日頃の行いがいいから」「功徳だねえ」とも言います。 功徳という言葉は、行いと結果の両方を差しますが、punyaを訳す時にビンゴかも知れませんね。いやはや日本語というのは、便利ですよ、本当に。
 
 話が難しくなるけれど、カルマのネットワークというのは、一対一の単純論では語れない複雑なものです。だって、この地球だけとって見ても、どれだけ多くの生命体が、同じ時と場を共有しているか、瞭然。我々は「結果の原因となる行為」を自由意思で選ぶことは出来るけれど、「行為の結果」を選ぶことは出来ない、ということを理解しておかなければなりません。punyaもpapa(良くないと思える報い)も、結果としてはイーヴンなんだな・・・と思います。スワミジはこう仰っていましたよ。「人生に失敗という言葉は無い」。 全てがgraceであり、意味のあること。
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 この歌は、一般的に「神が私に良い計らいをしてくれる」というニュアンスで、二元論的に理解されることが多いのですが、「盲目だったけど、今は見える」とか、「恐れもgrace、恐れからの解脱もgrace」という部分なんて、まさに一元論的な真理を突いているって思います。いつもいつも、泣けちゃうんですよね~。罪深き魂なんです・・・とほほ。私の思いと、私の言葉で訳してみました。

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すばらしき恩寵。

なんと妙なる響き。
私のような罪深き魂を、救いあげてくれた。
世界に迷える私を見つけ出し
盲目の闇から、目覚めさせてくれた。


恐れを知ったこともまた恩寵であり、

恐れから解放してくれたのも恩寵。
その存在の顕れを知ることが、
私にとってどれだけ尊いことであったか・・・。
それはまた、私が、信じる強さ得たときでもありました。


これまでの人生に訪れた、多くの危険と苦悩、そして誘惑。
それらを乗り越えて、今ここにいる私を、
守り導いてくれたのも恩寵であり、
それはまた、私を、我が家へと導いてくれることでしょう。


どんな辛い出来事も、私にとっての最良の働きであることは、

あなたのなかに約束され

それはつまり、 私の希望は
なにものにも冒されないものであるということ。
この命の永らえる限り、
その存在は、私の盾となり、私そのものとなるでしょう。


この肉が、心が朽ち果て、

限りある命が終わる時
私は、よろこびと安らぎのヴェールの中へと還ります。


いつかは、この大地も、雪のように淡く消え去り、

太陽も、その輝きを失うことでしょう。
しかし、私に呼びかけるあなたと私自身は
永遠に分かたれることはありません。


人々が生きた幾千年ものあいだ、

日の光のようにまばゆいその存在を
私達は讃え、歌い続けてきました。
初めて歌われたときよりも、もっと高らかに。
そして、これからも絶えることなく。




『Amazin Grace』

Amazing grace! How sweet the sound!
That saved a wretch like me!
I once was lost, but now I am found;
Was blind, but now I see.

'Twas grace that taught my heart to fear,
And grace my fears relieved;
How precious did that grace appear!
The hour I first believed.

Through many dangers, toils and snares
I have already come
'Tis grace hath brought me safe thus far
And grace will lead me home


The Lord has promised good to me
His word my hope secures
He will my shield and portion be
As long as life endures


Yea, when this flesh and heart shall fail
and mortal life shall cease
I shall possess within the veil
A life of joy and peace


When we've been there ten thousand years
Bright shining as the sun
We've no less days to sing God's praise
Than when we've first begun
            


                ― Jhon Newton―

TTC in Thailand 10/10 ~ 11/6


 見て下さい、この景色。Sita 的には、このかなり隔離された感じがビンゴなんですよね。この山奥感、これはもう、完全にカリアッパ先生が居そうですもん。あるいはダイバダッタに会えそう(by 大和タケシ・・・古い?)。ああ、血の池の底からメラメラと湧き起こる修行欲・・・。
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 それにしても、素晴らしい環境です。インドはちょっと・・・、清潔でないと無理・・・、という人も、ここなら絶対安心して泊まれるはず。私は安宿専門だから分からないのですが、これはラグジュアリーなホテルの部類に入るのでは?普段だったら、私は、こんな宿に滞在することは出来ないかな・・・。でもここ Phu Chaisai Mountain Resort & Spa オーナーのご厚意により、この絶好の環境でのTTCが実現するのです。ゴージャス!
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 でも・・・TTCはなかなかタフなコースですよ。我々スタッフにとっても同様、もしくはそれ以上かも。(私はTTCの舞台裏を「東京証券取引所」と呼んでいますが・・・。) ところで、来世にディプロマだの資格だのは持って行けないですよね。来世で価値のないものは、今生でも大した価値はないのかな・・・って気がします。では、何を持って行けるのか?普遍的な価値あるものとは何か?それは「経験」ではないでしょうか?苦しみも歓びも隔てなく、一瞬一瞬を、しっかりと経験しつくすことに意味がある。だって人生は、学びの旅路ですから。一緒にガッツで頑張りましょうね。
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 ホテルさんで受け入れられる人数に制限があります。お申し込みはお早めに。でもお宿のHPだけでも必見ですよ。修行欲がメラメラと・・・もとい、癒されますよ~。

2010年4月23日金曜日

つくばの畑から


 じゃじゃーん。銀座のアロマヨガクラス、今月をもって閉講なんです。私のおつとめは昨日で終了・・・ということで、代表の方からフェアウェルのブーケを頂きました。「寺崎先生ハーブお好きだったから」・・・そう、筑波の畑から来たハーブのブーケ。ティートゥリー、カモミール、ラベンダー、ローズマリー、ミント・・・あ、はじっこにあるデッカイ花だけは、一ヶ月水を替えなかったのに枯れない、謎の花ですけど。

 実は、この教室は、アロマセラピーとリフレクソロジーの学校で、caonというサロンもお持ちです。上手です。サロンも含めて、なんか丁寧な会社なんですよ。「人として自然と調和して生きる」ということを知ってらっしゃるんですね。立ち上げの段階で面接にいったとき、「たとえ選考に漏れても、みなさんにお会いできて、幸せでした」と、辞世の句みたいなことを言ってしまった程、なんか素敵でね・・・。ヘンテコな私なのに、丸4年間と少し、本当にお世話になりました。

 植物精油の人体への効果も、身をもって・・・というか生徒さんの身をもって・・・教えて頂きましたね~。例えば、ローズマリー精油を使うと、皆さんこぞってトイレに掛け込む。ベンゾインの日は、シャバーサナでみんな眠りまくる。一ヶ月間は同じ精油を使用するので、毎週続けてそれを目の当たりにする。勿論、効果については彼らに教えていません。「アロマなんて気のせい・・・と思っていたが、こりゃひょとすると、ひょっとするぞ!」・・・と。今では、この4年で学ばせて頂いた経験を、自身のヘルスケアに活かしております。(人のケアに活かせ!って感じ?)

 ところで、「施術者たるもの精油の元となる植物の元の姿を知っておかねばならぬ」とのことで、スクール生は農園実習に行きます。サロンでも、そこで取れたハーブを使用してます。昨年はインドに居た為、行けなかったけど、今年の夏はきっと行きますよ~、農園実習。ご近所の皆さんと一緒に簡単ヨガをして、土をいじって、ハーブの勉強をして、ブーケ作って、野菜たっぷりのご飯を食べて、そりゃあもう、夏休みのおばあちゃん家の様に楽しいのです。まあ私はオマケでくっ付いてくだけなんですけどね。一般参加OKだったら、コチラで告知しますね。

 花は大好き。草も大好き。何よりも嬉しいプレゼントを、ありがとうございました。 これからも地域への貢献のお手伝いをさせて下さい。

 茨城よいとこ、一度はおいで。Vedanta Camp のご報告は追ってさせて頂きます。

2010年4月14日水曜日

二つの道


 ロハス茅ヶ崎、Jayadeva先生の教室です。写真はスッドーダナのお抱え預言者ではなく、マニ先生と私ですが、永遠の平和を予言するティーチャーズ・・・ていうんですか?ま・・・単なるピースサインなんですけどね。本当に、穏やかで温かい場所なので、みなさん是非足を運んでみてください。
 
 スッドーダナは、サンスクリット語でシュッドーダナ。日本語では浄飯王(じょうぼんおう)だったけかな?お釈迦様の父王です。マニ先生は、ブッダ関連話がけっこう好きで、サットサンガの時も、よく話してくれます。「この話を貴方に教えた先生は、どの教派の仏教徒なの?」と尋ねると、「ほら、前に話したヒンドゥのスワミジだよ!」とのこと。あ~あの博学先生ですか。禅とか芭蕉なんかにも詳しい、大変な物知りらしいです。

 お釈迦様の話が出るのは、通訳する私にしてみれば大変ラッキーなこと。自分のバックグラウンドですし、既に知っている話も多い。ちょっと気が楽です。しかし・・・最後のサットサンガの話は、きつかった!

「おいおいおい!これ私に言ってんのか?」

って通訳しながら思わず笑っちゃいました。こういうお話です。

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 シッダールダが生まれたとき、シュッドーダナに伺いをたてられた占師達は、二本の指を立てて手を掲げ、宣言します。この赤ん坊の将来は、偉大な王になるか、偉大な出家者になるか、二つのうちのどちらかです・・・と。でも、一番若い占い師だけが、一本の指だけを掲げて、こう言いました。

「彼は王子として生まれて来たんです。王位を継がないなら、出家の道だけが残るのは当たり前。どっちに転んでも無難な予言なんて馬鹿げています。私は優れた預言者として、ハッキリ申し上げることが出来る。この子は、偉大なる出家者として悟りの道をゆくでしょう。」

ガーン!やっと生まれた後継ぎが出家だなんて、スッドーダナ大ショック。

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 マニは私に(&別の者に)、こう言っていたんです。「君がどの人生を選ぶかは君の自由だ。どんな組織も、どんな他人もそこには関与できない。でも、仲間として言わせてもらう。人間は、右の道と左の道の、両方に進むことは出来ない。つまりモクシャは、アルタ・カーマとは、同時には追求出来ないんだよ。いつまでも寝ぼけたこと言ってんじゃねーぞ、こら!」ってことでした。

グサーッ!その通りざんす。 正しすぎて、ウケました。
腹の底から笑ったら、それで、 ストンと落ちました。

 翌日、インドに帰国したマニ先生。みんなの心に色んなことを残して行きましたね。今回はとりわけ、そのように感じました。彼が日本に残したエネルギーを絶やさないよう、私たちは繋いでいかねばならないって、そう思いました。みなさん、これからも宜しくね。

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 今回、集って下さった皆さん、お手伝いして下さった皆さん、本当にありがとうございました。また、遠方の皆さんから沢山のメールを頂いたのに、なにしろバタバタで、お返事を出せずごめんなさい。「マニ先生によろしく、シータも頑張って。」 その愛をしっかり受け取って頑張りましたよ。みんな、心からありがとう!みんなも元気でね!

2010年4月9日金曜日

Kumbha Mela

 
 クンバメーラは、全国のサドゥー達がガンガーに一堂に会するという、いわば巡礼大祭で、6年に一度だとか12年に一度とか、私も詳しいことは解からないんですが、お友達のYogesh君が行ったんですね、今年。それで、写真を沢山送ってくれました。ご利益のおすそわけ。

 YogeshはATTCの同級生であり、センターでも一緒に働いた仲間です。お洒落なイケメン、デリーっ子。そして、イケメンなのに・・・ものすごーく声が高い!なぜインド人には、このパターンが多いのか。・・・顔の渋さと、声のギャップが、いやはや、好きなんですけどね、面白くって。

 クンバメーラには、行けなかったけど、今夜はセンターでDevi のPuja。朝風呂にも入りました。新しい下着をつけました。指にマルダー二(メヘンディ=ヘナ)も施しました。身を清めて行って参りま~す。

2010年4月7日水曜日

インドの与太郎


 私、落語といえば、与太郎ものが、けっこう好きなんですね~。

 そしたら、なんと、インドにも与太郎がいることが判明。彼の名はMulla Nasreddin。Mullaはタミルっぽいけど、Nasreddhinは中東っぽい響きなので、インド中近東一帯の与太郎なのかも知れない。そんなMulla話の一つを、月曜日のサットサンガでマニ先生がお話してくれましたよ。


 ある日のこと、Mullaは大勢の友達とお喋りをしています。
 話題は「ケチ」について。

「ケチっていえば、Mulla、おめえのことだよ。」

「なんだと~?誰がケチだってんだい!俺は断じてケチなんかじゃ無いぞ!」

「いや、 お前さんはケチだよ。だいだい、俺らの中の誰一人だって、お前さん家に招待されたことがない。そういうのをケチってんだよ。」

「言いやがったな、おぃ!だったら俺がケチじゃないってことを証明してやろうじゃねえか。おめえら全員、今すぐうちに招待するぞ!」

「よっ、いいぞ!そうこなくっちゃ、行こう、行こう。みんな揃って行こうじゃねぇか。」

 Mulla、友人をそぞろ引き連れて家に向かいましたが、扉の前でつと立ち止まる。

(あ~、まずいことになったよ~、こんなに大勢連れて来て、かあちゃんが怒るよ。うちのかあちゃんが怒ったら、鬼が太鼓持って暴れてるのとおんなじだ。怖いの怖くないのって・・・。)

 Mullaは実は恐妻家だったのですな。

「おう、みんな、ちょいと表で待っててくれぃ。準備が出来たら呼びにくるよっと~。」

 そう言って、Mullaは家の中に入って行きました。


「あら、あんた、おかえり。なんだか様子が変だね?なんかあったかい?」

「いや、なんにもねえ。断じてなんにもねえよ。それよりおめえ、誰か客が来ても、俺は居ねえって言っとくれ。」

「変な人だね~。わかったよ。居ないって言えばいいんだね。」

「おう、そうだよ。」

 と中にも外にもシラを切ることにした。
 
 その頃外では・・・・

「変だな。Mullaの野郎、家に入ったっきり出てきやしない。誰か、ちょっと行って、ノックしてきな。」

「ほいきた。トン、トン、トン。おーい、Mulla、どうした?まだか?」

 すると、おかみさんがドアから顔を出します。

「Mullaなら、居ないよ。」

「何をいうんだい、おかみさん。おいら、あいつが家に入るのをこの目で見たよ。第一あいつが、ここで待ってろって言ったんだもの。」

「居ないもんは、居ないんだよ。」

「いやぁ、そんな筈はねえ。ヤツを出しとくれ。」

 玄関での押し問答が続くなか、隠れているMullaはビクビクして、どうにもこうにもない。もともと気の短いMulla、ついに居てもたってもいられなくなりまして、窓から顔を出すってえと

「Mullaならここにはいねえよ、裏から出て行った。」

 ・・・・本人が顔出したらバレバレなんすけど~!ってのが落ちなんだけど、この話の教訓は「真実は必ず露見する」ってことだそうですよ。


 もっと、わかりやすい文章を引いてみると・・・昔ジャックスというバンドにいた、早川義夫さんの言葉で

「伝えられることは、本当のことしかなくて、伝わってくるのも、本当のことしかない。」

「もしも嘘をつけば その嘘は伝わらずに 汚れた息づかいが 伝わってしまうだけ」

「何も伝わってこなければ、何も伝えるものがないのであって、かっこだけが伝わってくるのは、かっこつけてるよということを伝えたいのだろう」

「音が出る一歩手前の沈黙。音を出す一歩手前の息づかい。それが美しいかどうかですべてが決まる。音楽は音でもない、言葉でもない。沈黙なのだ。」

 早川義夫を引用するヨガの先生というのも、本邦初なのでは・・・という気がしますが、本当は、本当のことしか伝わらないし、つまり人は、伝わっている姿そのものでしかないってことですな。・・・ま、お後がよろしいようで。



2010年4月3日土曜日

brother sister

 Mani先生 が来ています。この通り、元気です。彼の髪は長い方が良いという意見と、短い方が良いという意見にわかれるのですが、私は短い派。いやはや、今回は短くて良かった。ほっ。

 しかし、人の髪の毛のことを、とやかく言う前に、私の頭が猛烈にボサボサではないか・・・。身なりに構わぬ性質なので、人前に出る場面で、私がボサボサなのを発見した人は、本人にご一報下さい。シャツの後ろ前とか、靴が左右違うときも教えて下さい。

 さて、Mani先生は、私にとって、うーん、なんていうんでしょうね・・・これはとても妙な感覚なんですが、兄弟みたいな人です。Sivakami先生などは「んも~うるさいわね、この子達は」と思ってるんじゃないかしら?お母さんだから・・・・。私には、本物の弟もいるのですが、その弟と過ごした幼い頃を彷彿とさせる、なんなんでしょうね・・・・同じ血の安心感みたいな・・・。いや~謎ですね、自分でも。このテーマは時空を超えて奥深すぎるんで、閑話休題とします。

 高校生の時、英文法のクラスで、毎週欠かさず机の上に正坐させられていました。「なんで」って?もちろん出来が悪いからですよ。そんな私が、時々通訳をしなくてはならない。大抵はヒヤヒヤものでスンマセンな結果なんですが、時々、奇蹟的に「語り手の思いが聴き手に完全に伝わった」手応えを、感じられることがあります。聴き手の顔を見ていると分かる。うわ~通訳の神様が降りてきた~って、ゾクっとします。そういう時の語り手って唯一Mani なんですね。まあ、そんな時は、私も、自分の口で喋ってる気がしないんですけどね。きっと瞳孔は開き気味で、頭もボサボサに違いない・・・と。(ボサボサは関係ないか・・・)

 木曜以外のサットサンガと、6日のアーサナは私が通訳に入ります。10日は茅ヶ崎で一日頑張ります。マイブラザーに会いに来てね。