2021年2月20日土曜日

天のこころ咲き乱れる。

今朝、クラスの中で話が脱線した折に、学生時代にお世話になったI 先生の話が出たので、先生について書いた文章をこちらにバックアップしておこうと思います。

なんでかというと、その文章の載っていたページがもう存在しないからですね。

10年前にYoginiという雑誌がwebで「笑ってヨガとも」をやっていてのリレーエッセイをやっていて、編集部から渡された「ヨーガをもっと楽しむ方法」というテーマで、色んな人が順繰りに書いて繋いでい・・・という企画。

そこに寄稿した文章です。

タイトルは「天真爛漫」で出しましたが、今もこの言葉の如く生きられているかな?あんまり客観的に考えたことはないから分からないけどさ。


なんと言っても写真が若い!

とりあえず、原稿、いってみよー!



タイトル:天真爛漫

以下本文:


笑顔で夢を形にする意志の人、Ukoちゃんからバトンを受け取りました。

Ukoちゃん、ありがとう。今年もよろしくね。


「ヨガをもっと楽しむための方法」かぁ・・・「なんも考えないこと」ですかね~。あ、のっけからオフモードの独りごとになりしたが・・・こんなゆるい答えで良いんでしょうか・・・? 


・・・むかし、まだ学生の時のこと。私は、白髪の偏屈老人、泣く子も黙るI教授のゼミにおりました。先生は詩人で、とある寺の住職でもありました。「お父さんは心配症」(知ってる?)という漫画に出てくるお父さんにそっくり。


「授業中に弁当を食べようが、コーヒーを飲もうが構わないが、全霊で聴け!」


という変わった人でした。本当に弁当をムシャムシャ食べながら、最前列で聴いている私も、まあ変人だったには違いないんでしょうが、先生はそりゃもう最強変人だった気がします。授業中お喋りをしていた学生に


「地獄に落ちろっっっ!」


と怒鳴ってましたからね。とにかくかなりのインパクト・・・尊敬してました。



彼が決定的に私のヒーローになったのは、卒業の日のことです。式のあと、教授たちの訓辞を賜っていた時。「社会に出ても頑張って下さい」というお決まりの文句が続くなか、教壇に上がったI先生は、怒ったみたいな震える声で


「私は・・・頑張るという言葉は、大嫌いだっ!」


いきなりバタン、ドア閉めて退場。


衝撃でしたよ。研ぎ極めたナイフのような正論・・・。もしかしたら・・・先生は多分、本当に怒っていたんだと思います。「こいつらの云う、頑張るなんて言葉、嘘だ!」・・・先生の心の声を聞いたような気がして、胸を掻きむしられる思いでした。偏屈者の先生が言いたかったことは「手を抜け、楽をしろ」ってことじゃない。


『頑張って』なんとかやり過ごす様な生き方をするんじゃないよ。

  この限りある人の一生は、全ての行動を歓びと共にしてこそ全うできる。

  歓喜に挑み続けなさい。


・・・そう聞こえた。偏屈でも聖職者。感動しました。



以来、あの日の先生を思い出すたび「これからは魂の底から楽しいことしかすまい。その為に努力をしよう」と誓うのですが、どうしてこれが、一番難しいことなのかも知れない。


・・・しかし、楽しいって、どういうことよ。あー、あれだ、経験上、なーんも考えてない時だなぁ。あれ?ヨーガの先生なのにこんなんでいいのか? あ、また独りごと・・・。


そこで、一応それらしく解析するわけですが、「なーんも考えてない時」ってのは、多分、ほんの少し前の過去でも、一寸先の未来でもない、今という完全な瞬間に居る時なんですよ。「多分」じゃなくて、これはホント・・・。


「楽しかった!時の過ぎるのを忘れた!」っていう経験を、誰しも持っていて、とくに子供の時なんてそうだけど、我を忘れて、時間の向こうの夢の中にいるみたいな、あの感覚。文字どおり、無我夢中に遊んだ夏休み、一瞬が永遠になったあの夕暮れ。そこに歓喜は満ちるなあって思います。


時間よりも速く、遅く、もっと静かに、もっと神に近づく、その瞬間、連続・・・


私にとって、歓びとは・・・愛とは、それは完全な静けさ。


だから私はもう、な~んにも考えないっ!バタン、退場。



「天真」とは生まれつきの素直な心そのまま、「爛漫」は自然のままに輝き現れる様子をいうのです。いつまでも気分は小学生。何のてらいも持たず、若々しい新鮮な気持ちを失わず、そういう風に生きていけたらいいね。そうしたら、ヨーガは・・・すべては、もっと楽しい。



そうそう、それからもう一つ、私の「ヨーガをもっと楽しく」してくれるもの。「それ以上でも以下でもない、そのままの私」を許してくれる「ヨガ友」たちの存在。このライフを歓びで満たすという我がミッションにおいて、もはや距離なんて関係ない、彼らには本当に助けられてます。この場を借りて感謝の意をば・・・


みんなーっ、愛してるよーっ!



次のブロガーは・・・この人も天衣無縫ですね・・・「そのまま教」の大先輩であるあの人にバトンを渡します。楽しい暮らしの頼れるアニキ、今日も駄洒落が冴えるSatori君。アニキ頼んだ、後はよろしくっ!


2021年2月8日月曜日

丁寧は、それは・・・。






「お久しぶりです。お元気ですか?すっかりご無沙汰してすみません。 自分の世界に没頭していましたー。」

・・・とのメッセージを友人に送ったら


「わー、それはどんな世界でしょう?」

とレスポンス。


・・・・というようなやりとりがあって考えた。


確かに、どんな世界?


うーん、一つ言えるとしたら、それは、めくるめく自己中世界ですよ。

社会の一員たるもの、人間は多少なりとも自分の外からの視点を想定して、様々な行いをするわけですけど、その視点の想定を、可能な限り削ぎ落として過ごしたい気分・・・そんな世界。

「全体の中におけるバランス」は無視して、自分のすべきこと、したいことだけど、ひたすらやるって感じ。

・・・と、まあ、SNSやブログの更新の無いことへの、かっこいいタイプの言い訳だったり(笑)。


この没頭のなかでですね、色々なことを考えて、それを醸して、過ごしていました。

そうそう、醸してた!そういう世界だわ。


このところ月イチで、ご近所仲間の友永乾史さんとオンラインのトークライブをやっていて、チケット購入時に、私の個人的な興味から小さな質問をさせてもらってる。

「冬のお楽しみは何ですか?」

とか、そいういう簡単な質問。


回答は任意だけど、皆さん、いろいろとお答えくださって、それを集計したものを、トークの中で発表させて貰うんです。


で、先月のライブを聞いてくれていた方と、後日公園で待ち合わせした時のこと。


「2021年の豊富のアンケート、皆さんの回答聞いてて号泣しちゃった。」


え?


「”日々丁寧に笑顔で過ごすこと”とか、”小さなことからコツコツと”とか、”体に優しいお料理やお菓子を少しは作る”とか、”とびきり美味しい飲み物をいつも作れる人でいる”とか、聞いて涙腺崩壊。」


ええっ!そこ?どっちかっていうとほっこり系の答えだけど?


聞けば、遠く離れて暮らすお母さんを思ってのことだそうです。


合理主義的な都会のリズムに馴染んでしまい、あるいは時間に追われて、あるいはコロナのせいにして、大切な人との繋がりや、生活のなかの小さな一瞬のすべてから、丁寧さを省いてしまっていることに気が付いた。お母さんにも寂しい思いをさせてしまい、自分は何をやっているんだ、と泣けてきた。自分に対しても、人に対しても、丁寧に生きようと決意した。


・・・とのこと。


このお話を聞いたら私も泣けてきて、親にはなるべく密に連絡をしよう、優しくしようって思ったわけです。


ところが。言ってるそばから父の誕生日を失念。一瞬「気まずいから、ラインでメッセージだけして誤魔化すか」とも思ったんだけど、「それではいかん!丁寧、丁寧!」と翌日電話で父と話しました。


「プレゼントあげてもどうせ使わないんだよなあ〜、無駄になっちゃうから省くか?」と、また一瞬思ったけど、郵便でプレゼントを送った。感情の表現が控えめな父だけど、それは外見だけで、内心は絶対に嬉しいに決まってるんだから。


家では父以上に寡黙な娘の私だが、最近コーヒーをおぼえた父に、コーヒーを淹れてあげるようになった。不肖の娘。ドラスティックな恩返しは、多分、出来ない。だけど、小さなことからコツコツ。


たいした宣伝もせず、地味にやっているトークライブで、日本のどこの誰とも知らぬ人の言葉が、別の地域の誰かに届いて、その心を動かして、さらには巡り巡って、私の心を揺さぶっている。


人間の思いって、目に見えないんだけど、すごく柔らかく影響しあって、繋がりあっていて、とても有機的だなって、思えた出来事でした。


それと、私は常々、人と人の間の媒体(人と人を繋げるもの)でありたいと願っているので、今回のこのお話は、ちょっと嬉しいエピソードでもあったのです。


言葉にするのは難しいのだけど、「丁寧」というのは、「繋がりに気づく」ということなのかもしれない、って思ったのでした。そして「愛」という言葉の意味するものは、それ、なんじゃないかな・・・。


今月は12日の20時からやります。

(詳細は↑クリック)

めくるめく自己中の世界から、一瞬、外に出る日。


多分、春はもうすぐ。