2018年7月10日火曜日

読書ひとりごと


読書好きです。

漫画も含め、いろいろな本を好きです。

哲学系、スピリチュアル系もさることながら、一貫して好きなのは小説かも。

たぶん一番好きです。

これら文学と実用書の違いは、私にとっては、言葉の持つ音楽性を扱えているるかどうか、ということですね。「音楽」というのは「雰囲気モノ」という意味ではなく、なんと云えばよいものか。

言わずもがな、言葉の第一の使命は「意味」を伝えることですから、多くの本は著者の伝えたい何らかのメッセージを、読者に伝えることを目的として存在します。

そんな本の中にも稀に、言葉の音楽をBGMに備えている作品もあります。

が私が「文学」をどのようなものと認識しているかというと、「意味」以外のところにある、息遣い?気?プラーナ?音楽に近いところ、そのアートだと思われます。

私の読書歴は、子供の頃に両親が買ってくれた「世界文学全集」から始まりましたが、社宅の上階に住んでいたシモムラさん家のお母さんが貸してくれた、アーサー・ランサム全集が私と本の絆を密にしました。

小学生でお金持ってなかったから古本屋に通ってた。

アーサー・ランサムの本はイギリスの児童文学。


中学に入って最初の国語の授業で、先生が、「文学が伝えたいのは真実なんだ」と言っていたのも、私と読書の絆の大きな鍵かも。

黒い髪の毛がみっしりと濃い先生でした。

額面通り、意味通りの、その言葉たちの向こうに広がる広漠たる真実を伝えるのが、文学のみならず、すべてのアートの目指すところなんだろうな、と思いました。

その先生が青少年に絶対に読んで欲しいと言っていたのは「赤毛のアンのシリーズ」でしたね。

その先生と、シモムラさんの影響で当時は西洋文学を読んでいたわけです。もちろん翻訳版です。思春期になると、性分とフランス文学が妙にマッチしてきたのが笑える。

その後、短大で近代文学を専攻するんですけど、このブログで度々登場する「地獄に落ちろ!」の伊藤先生はじめ、文学界の大御所的なユニークな先生たちに出会います。その殆どがかなりのご老人でしたが。

詩人の伊藤先生がゼミの時間に言ったんですよ。

すべての芸術は音楽に憧れる」って。

この言葉に、いま尚、しみじみしますね。



赤毛のアン推しの先生の言葉とも、繋がってる気がする。

文学は、言葉が生まれつき持っている「意味」という拘束具から、完全には自由になれない。

だけど、それでも意味の向こうに旋律があるんですよ。

私が日本の作家一辺倒になったのは、短大時代の影響もあるけど、言葉の音楽を聞き取れるほど英語を知っていないからだと思うし。結局、ものすごく日本人なんですよ。

もちろん意味やメッセージの内容も決して、どうでも良いって訳でもない・・・ていうか、重要。

その上で言葉の連なりに音楽を奏でさせることが出来る作家さんが好きです。
腕も必要だろうし、生まれ持ったセンスも然り。

といっても文壇を追いかけて新作を毎回購入できる訳でもなく、最近はブックオフの108円コーナー専門なので、常に数年遅れなんだけどね。

面白いですよ。音楽として聴くと。
高校生の時に授業で退屈した近代文学にしても。

芥川龍之介の、シンプルで均整のとれた冴え冴えとした音楽。

夏目漱石の、フックのある訛りのある音楽。

太宰治の、自分語り風な独特なリズムの音楽。


ファンといえば、一番はもう不動の遠藤周作ですけど、
現代では最近、女性作家が、琴線に触れますね。

私の若かりし頃に、軽めの小説を書いていた作家さんたちも、なんだかメラメラしていて凄い。女というのは、なんだか凄い。ずっと変化し続ける生き物なのかも知れません。秘めたる力の重量を感じます。

この十年くらいずっと好きなのは、桐野夏生ですね。


基本宿無しなので、ここ数年、古本屋のない地域に居ることが続きました。

古本屋で小銭握りしめて、書棚を端からジーッと眺めていく、夏の夕暮れ。

首の後ろに滲む汗と、なんでもない一日の終わり。

ささやかで、ささやかだから、鈍くとも輝く大切な時間。

心から懐かしいです。




最後になりましたが、西日本の豪雨の被災地の皆様へ、心からお見舞い申し上げます。
一日も早く、平穏な日々が戻りますように。