2011年4月21日木曜日

カラスの話



 ついに、ラジャネーシュがウッタラカシに帰ってしまいました。親戚の結婚式があるので、二週間はやく。ラジャネーシュはホントいい子で、まさにハヌマーンのように(彼のイシュタデーヴァタはハヌマーン)、毎日のローカルクラスはじめ、いつも付き添って支えてくれてました。私の語る「かぐや姫」とか「桃太郎」とか、嬉しそうに聞いたりして、まさに可愛い弟そのもの。彼の立ち去る後姿を見送って、一瞬涙ぐんじゃいましたね。で、これが愛着ってやつなのかなあ、と思ってみたりする。ただねー、この悲しい感じっていうのはね、どっか甘いのね。人間ていうのは、悲しみや苦しみの快楽を享受したがるたちがあるんじゃないかな~と思った私でした。


「カラスの話」


 昔、村はずれの庵に、一人の男が住んでいました。家族をもたず、炊事も洗濯も、すべて自分で行っていたのでした。

 ある日、男が、ご飯の食べ残しを捨てようと外に出ると、一羽のカラスが物欲しそうにこちらを見ています。男が残りご飯を撒いて、遠巻きに見守っていると、カラス、警戒しながらも近づいてきて、ご飯をつつき始めるではないですか。「ほほう。」男は少し楽しい気分になったので、あくる日も、またあくる日も、ご飯をあげ続けました。カラスは少しずつ男になつき、男はなんだかとても嬉しいような気持ちになりました。

 一羽だったカラスは、二羽となり、三羽となり、やがては百ものカラスが男のもとを訪れるようになりましたので、カラスのための余分の食事をこしらえるのが男の日課となりました。もはやカラスも男のことを怖がりません。男の頭に、肩に、腕に止まって、遊びます。男は退屈で孤独な一人暮らしから一転、親愛と幸せに満ちた毎日を過ごすようになったのでした。


 ところが、ある日ことです。いつものように山盛りのご飯を持って庭に出ると、百のカラスが一羽も見当たりません。男は不安になって叫びました。「おーい、カラスやーい、ご飯だよー!どこへ行ったんだーい!」しかし、次の日も、また次の日も、呼べども呼べども、カラスは現れません。男はすっかり落胆し、悲しみにくれる毎日。「おーい、カラスやーい、戻ってきておくれー・・・。」

 初めて味わう、深い悲しみに胸が苦しくなって、いても立ってもいられなくなった男は、森に住むグルのもとに走りました。「おお、いったいどうしたんだね。そんなに泣いていちゃわからんよ。何があったか話してごらんなさい。」

 全ての話を聞き終えたグルに、男は一体どうしたらこの苦しみを解決できるのか、と訪ねます。「ほうほう、なるほど。」グルは少し考えてから、こう言いました。「そもそも、いつか必ず飛びさってしまうと分かっているものに愛着したら駄目だってことだな。」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 さてさて、飛び去ってしまうものとは何か。全てのエクスターナルオブジェクトってことですよね。森羅万象の全てです。この身体も、恋人も、アイスクリームも、家族も、会社だって、全ての生まれあるものには終わりがあるということ。この話は、家族や恋人を愛するなとか、浮世離れしろ、とか言ってるんじゃないんですよね。カラスは飛び去るものだってことを知っておきなさいよ、と言ってるんです。そもそも、そんなことは最初から判ってる当たり前のことなんだから。

 それらは確かにわれわれに喜びをもたらしてくれるけれど、そこに間違ったアイデアを持って執着することが、全ての苦しみの源だと、ヨーガは言うんですね。お金への執着というのは、この肉体への執着つまり死への恐怖の別の形だ、と、ある日本の古い思想家の人が言っていましたけど、まさにそういうことでしょう。

 

 こうなると「愛」と「愛着」の違いを見分けるのは簡単だね。断絶の苦しみをもたらすか否かってこと。たぶん、全ての行為は、愛であるべきなのでしょう。愛とは、つまり「ふつう」なんだと思います。どんなときでも「ふつう」状態。簡単なことではないけどね。あなたの行為が、愛であるなら、その行為の中において、どんな不平不満もあなたを苦しめることは出来ないでしょう。


ラジャネーシュ、またね。