この光
西の国の詩人ゲーテは死に臨んで
「もっと光を!」と叫びました
するとそこにいた人が
窓のカーテンを開けました
東の国の人が
西の彼方に浄土という
光の国があると云いました
すると人々は
夕陽に向かって手を合わせました
この光は西も東もなく
目には見えないもので
目に見えるようにと像や聖典を作りました
すると人々は
像や聖典ばかり見るようになり
だれも光を信じなくなりました
・・・・・という詩は、「納棺夫日記」の著者の青木新門の詩。「納棺夫日記」から「おくりびと」という映画が生まれましたけど、この原作ちょっとニュアンスが違ってとても良かったです。
死を恐れるあまり忌み嫌う風潮の社会で、遺骸を扱う為に蔑まれていた納棺夫が、人々に感謝されるようになっていく過程・・・って感じの美しい映画でしたが、原作の方は、つめの甘いダメ男が、納棺夫として死に接することによって開眼していく過程であり、ちょっと壮絶なものがあります。理屈ではなく体験としての悟りですよね。カルマヨーギの鏡。
話を戻して、なんでこの詩を引用したかというと、そのまんま!です。私は教える仕事をさせてもらってるけど、生徒の皆さんに最終的に伝えたいことは、聖典の意味云々とか、セオリーとかではなく、その背景にある「その光」、つまり「あなたそのもの」です。本末転倒してもらいたくない・・・ということでこのブログ記事は勉強会の補足みたいなもんだね。
作中に引用されている正岡子規の随想集の一文で駄目押ししてみると・・・
「余は今まで禅宗のいわゆる悟りといふことを誤解していた。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ねる事かと思って居たのは間違いで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。」
そういうことです。笑って泣いて苦しんで喜んで失って、その上で平気で生きることは、すなわち諸行のなんたるかを識ることでしょう。でも、これってすごいことなんだよね。多分。
本の話ばっかり・・・。
でも良い本だったんだもん。もうちょっとシェアさせて!今度は私の好きな部分。
「アメリカの精神科医キューブラー・ロス女子が、多くの臨床の経験から、「末期患者が最も安心するのは、何らかの方法で死を克服した人が患者の側にいることである」と言っている。
ということなれば、死の不安におののく末期患者のいるところに立たない限り、役に立たないということになる。たとえ善意のやさしい言葉であっても、末期患者にはかえって負担になる場合があるのは、立つ場に問題があるからだ。
人は自分と同じ体験をし、自分より少し前へ進んだ人が最も頼りとなる。
仏は前に進み過ぎている。親鸞には、少し前を行くよき人(法然)がいた。
末期患者には、激励は酷で、善意は悲しい。説法も言葉もいらない。きれいな青空のような瞳をした、透き通った風のような人が、側にいるだけでいい。
死に往く人は、惨愴たる現世を横目で見ながら、きれいな青空と透き通った風の中にいるかもしれないのだ。
要するに、菩薩に近い人が側にいれば一番いいのである。」
今、私の前にもいる。届きそうで届かなそうなその背中を、見失わないように私は必死で追いかける。イノシシの子供みたいに。これまでも、ずっと色んな先生がいてくれた。でも私が追いかけているのは「その人」ではなく「そのむこうにある光」なんです。
私もなれるだろうか。きれいな青空のような瞳をした、透き通った風のような人に。
西の国の詩人ゲーテは死に臨んで
「もっと光を!」と叫びました
するとそこにいた人が
窓のカーテンを開けました
東の国の人が
西の彼方に浄土という
光の国があると云いました
すると人々は
夕陽に向かって手を合わせました
この光は西も東もなく
目には見えないもので
目に見えるようにと像や聖典を作りました
すると人々は
像や聖典ばかり見るようになり
だれも光を信じなくなりました
・・・・・という詩は、「納棺夫日記」の著者の青木新門の詩。「納棺夫日記」から「おくりびと」という映画が生まれましたけど、この原作ちょっとニュアンスが違ってとても良かったです。
死を恐れるあまり忌み嫌う風潮の社会で、遺骸を扱う為に蔑まれていた納棺夫が、人々に感謝されるようになっていく過程・・・って感じの美しい映画でしたが、原作の方は、つめの甘いダメ男が、納棺夫として死に接することによって開眼していく過程であり、ちょっと壮絶なものがあります。理屈ではなく体験としての悟りですよね。カルマヨーギの鏡。
話を戻して、なんでこの詩を引用したかというと、そのまんま!です。私は教える仕事をさせてもらってるけど、生徒の皆さんに最終的に伝えたいことは、聖典の意味云々とか、セオリーとかではなく、その背景にある「その光」、つまり「あなたそのもの」です。本末転倒してもらいたくない・・・ということでこのブログ記事は勉強会の補足みたいなもんだね。
作中に引用されている正岡子規の随想集の一文で駄目押ししてみると・・・
「余は今まで禅宗のいわゆる悟りといふことを誤解していた。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ねる事かと思って居たのは間違いで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。」
そういうことです。笑って泣いて苦しんで喜んで失って、その上で平気で生きることは、すなわち諸行のなんたるかを識ることでしょう。でも、これってすごいことなんだよね。多分。
本の話ばっかり・・・。
でも良い本だったんだもん。もうちょっとシェアさせて!今度は私の好きな部分。
「アメリカの精神科医キューブラー・ロス女子が、多くの臨床の経験から、「末期患者が最も安心するのは、何らかの方法で死を克服した人が患者の側にいることである」と言っている。
ということなれば、死の不安におののく末期患者のいるところに立たない限り、役に立たないということになる。たとえ善意のやさしい言葉であっても、末期患者にはかえって負担になる場合があるのは、立つ場に問題があるからだ。
人は自分と同じ体験をし、自分より少し前へ進んだ人が最も頼りとなる。
仏は前に進み過ぎている。親鸞には、少し前を行くよき人(法然)がいた。
末期患者には、激励は酷で、善意は悲しい。説法も言葉もいらない。きれいな青空のような瞳をした、透き通った風のような人が、側にいるだけでいい。
死に往く人は、惨愴たる現世を横目で見ながら、きれいな青空と透き通った風の中にいるかもしれないのだ。
要するに、菩薩に近い人が側にいれば一番いいのである。」
今、私の前にもいる。届きそうで届かなそうなその背中を、見失わないように私は必死で追いかける。イノシシの子供みたいに。これまでも、ずっと色んな先生がいてくれた。でも私が追いかけているのは「その人」ではなく「そのむこうにある光」なんです。
私もなれるだろうか。きれいな青空のような瞳をした、透き通った風のような人に。