シェアハウスの、私の部屋の一部である一畳半の濡れ縁。
流し台に発砲ウレタンの板を渡しただけの、妙にヨレっとした私のデスク。流し台だから、シンクの続きのステンレス、ふきん掛けをアクセサリー掛けとして使っている。
このデスクと植木台みたいな椅子のコンビネーションが、正直、体のサイズに会わない。
ていうか、流しだから仕方ないんだけど。
だからいつもは外に出てしまう。
でも今日は、すごい嵐だから、一歩も外に出ないようにしなきゃ。
毎日、毎日、座って何をしているかというと、翻訳作業をしています。
お父さん(G)のお手伝い。
これが結構時間を食うんだ。
どんなに短く見積もっても1ページ1時間。
美しい日本語を書くために。
やるなら完璧を目指したい癖に、神経質ゆえのスロースターター。そんな私にとっては、それを始めることがまず難しいし、座りっぱなしで体が痛い。しかも1日5時間くらいは頑張らないと・・・。
「一人でやるんじゃない!」とお父さんはいうけれど、とにかく嫌がられるんだ、この作業。大変だから。それを無理やり「そこをなんとか騙されたと思って!」と人にお願いしていたけれど、人疲れする自分は、本当は交渉ごとが苦手だし、どのみち全体の修正をしないといけないわけだから、今年は覚悟きめて、ガッツリ自分を拘束することにした。
当然のことながら、これにお給料が出るわけではない。
お金にならないことを、毎日毎日、誰にも顔を合わせずにやっている。
なんかすっごい貧乏だし、体はバキバキになるし、大きな犠牲を払わざるを得ないんだけど・・・
コミットメントってやつだな。
幸い、時間だけは沢山ある。
でもね、ちょっと、言葉では測れないくらい、すごいもんを貰ってる気がするんだよね。
なんか、ブルブル魂が震えるんだわ。
人生に愛されていると、強く実感する。
英文法の授業で、毎週机の上に正座させられてた私が、ですよ。
いちいち試練を与えてくれるお父さんは、やっぱり凄いんだと思う。
私、時々思うんだよね。
たとえば誰かにちょっと大事な役目をふってみたとするでしょう。
日本人の場合、
「無理 無理 無理!荷が重いから無理です!シータマやってください!」
責任が生じそうな場面は、とかく嫌われる。
骨と同じでさ、負荷をかけないと密度は上がらないんだよなー、って思うんだけどね。
もちろん私がやるのはやぶさかでは無いんですよ。
ド根性でなんでもやるし。
その代わり、あなたじゃなくて私がどんどん成長しちゃうよ!ってだけ。
そして、なんかちょっと孤独を感じるね。
この魂の振動を共有できる相手がいないとき。
そう。
責任のないところに成長はないんですよ。
だから、若人は、目の前に少しばかりのハードルを設置してみることをお勧めするよ。
それは「あの難しいポーズ出来るようにする」とか、そういうことじゃないよ。
ちいさな責任を生じさせるということです。
責任は関係性の中で磨かれること、誰かの支えになることでありながら、自分の生きざまに責任を持つということに直結しています。
そうして努力することで、宝といってもいいくらい、大切なものが身に着くし、独りよがりの張りぼてにも、天狗にもならないで済む。
江原さんも言ってたな、大人になるというのは責任を持つということです。
一つ所に命を懸ける。
それはとても自由で素敵なことなんだよ。
人生は挑戦。
大人の喜びは子供には分かるまいよ!
ふふふふ。