2021年3月25日木曜日

液晶画面を捨てよ、空の下へ出よう。

月曜、午後二時。とつぜん思い立って家出した。

一人住まいではあるのだけど、これも立派な家出なのである。

「書を捨てよ町へ出よう」は言わずもがな、寺山修司の作品の表題。

でも、今は町よりも、もうちょっと違うところに出た方が良くないか?と思い、町と反対方向の列車に乗りました。

そしたら、ほら、思いがけず、満開の桜やら何やらお花の数々と、化学汚染少なめの空気が迎えてくれましたよ。こんな風にちゃんと桜を見たのは、本当に10年ぶりだよな。



さっき「とつぜん思い立った」と言ったけど、実はそれは本当ではない。
私がなにか新たに行動を決めるときって、基本的に閃き待ちなんですよ。

先週くらいからですかね。「あれ?なんか、みんな疲れてない?けっこう”塵が積もっちゃった”っていうか・・・」と急に頭に差し込んで来たのよね。

大きな変化を受け止めてきた一年だったからねえ。もちろん自分も含めてだけど、人々の双肩に疲れが積み重なるのも、当然ではあるよね。そろそろ、歯車の軋みが、体感できるくらいに芽吹き始めるんじゃないかな・・・と。

私は、どちらかというと、その辺のガス抜きを小まめに出来るタイプなんですよ。でも、そうでない人もいるから、何か理由を付けて、バランスの軸を戻しやすいように方向付けを、ちょっとだけ手伝えないかなあって、ここのところ、ずっと考えていました。もちろん自然の力(太陽とか)も借りてね。

それで「お外でアーサナしようぜ!」とか言って、ちょっくら生徒さんを連れ出すか、と。

あんまり大仰なことにしたくないので、都心でと考えたんだけど、「塵積」な悪しき神経回路の轍からちゃんと抜けだせるように、喧騒からは離れたほうが良い気がするんだよな。

で、ロケハンに飛び出したという訳。

個人的な好みをいうと、アーサナするなら土台が揺らいでしまうビーチはNG。でも水が好き。で多摩川を遡ってみた。



人が集まって、体操していても怒られない、人が沢山いない、そして平たい場所はないか?

10キロくらい歩いて、二三箇所ほど候補地を探し回りました。


チョイス①水コース。
〇砂部分だと土台が揺らぐけど、玉砂利の部分なら足が埋まらないことが分かった。
〇水好き
×雨が降って地形が変わったら消滅してしまう。
〇現場へのハイキングが楽。



チョイス②空コース

×私の好きな水がない。

〇×現場へのハイキングが①より若干タフ。でも良い運動としては良い。

〇釣り人、バーベキューのグループがおらず静か。



 チョイス③ 公園コース

〇トイレが近い。

× 週末は人の往来があるだろう。

?こういう時期なので公園の管理事務所に集会を咎められるかも。


・・・というのが、ロケハンの収穫ですね。

JR青梅駅に集合して、30分程度のハイキング → ヨーガして、お昼ごろに現地解散です。そのままハイキングコースに行くのもいいですね。ランチ持参か駅前で購入も自由ですが、コロナの件があるので、みんなでピクニックとかは計画していません。東京駅からは、在来線の直通列車で1時間半。

てな感じで行こうと思ってます。

最少催行人数は2名。上限は6名~8名くらいかな?

ひとまずは4月の日曜日・・・4日、11日、25日のうちどれか。天気予報をチェックしつつ、詳細と開催日はスケジュールページで発表しますね。


ということで、まずは「家出のススメ」でした!

神経、五感のバランスを取り戻す実践的な方法?の一つとしての企画です。

あ、その点においては、今年の夏の京都と横須賀は、皆さんにがっつりシャヴァ―サナについて仕込む予定なのでよろしくね。

他にも考えていることがあるので、形に出来そうになったらお知らせします!


またね!


2021年2月20日土曜日

天のこころ咲き乱れる。

今朝、クラスの中で話が脱線した折に、学生時代にお世話になったI 先生の話が出たので、先生について書いた文章をこちらにバックアップしておこうと思います。

なんでかというと、その文章の載っていたページがもう存在しないからですね。

10年前にYoginiという雑誌がwebで「笑ってヨガとも」をやっていてのリレーエッセイをやっていて、編集部から渡された「ヨーガをもっと楽しむ方法」というテーマで、色んな人が順繰りに書いて繋いでい・・・という企画。

そこに寄稿した文章です。

タイトルは「天真爛漫」で出しましたが、今もこの言葉の如く生きられているかな?あんまり客観的に考えたことはないから分からないけどさ。


なんと言っても写真が若い!

とりあえず、原稿、いってみよー!



タイトル:天真爛漫

以下本文:


笑顔で夢を形にする意志の人、Ukoちゃんからバトンを受け取りました。

Ukoちゃん、ありがとう。今年もよろしくね。


「ヨガをもっと楽しむための方法」かぁ・・・「なんも考えないこと」ですかね~。あ、のっけからオフモードの独りごとになりしたが・・・こんなゆるい答えで良いんでしょうか・・・? 


・・・むかし、まだ学生の時のこと。私は、白髪の偏屈老人、泣く子も黙るI教授のゼミにおりました。先生は詩人で、とある寺の住職でもありました。「お父さんは心配症」(知ってる?)という漫画に出てくるお父さんにそっくり。


「授業中に弁当を食べようが、コーヒーを飲もうが構わないが、全霊で聴け!」


という変わった人でした。本当に弁当をムシャムシャ食べながら、最前列で聴いている私も、まあ変人だったには違いないんでしょうが、先生はそりゃもう最強変人だった気がします。授業中お喋りをしていた学生に


「地獄に落ちろっっっ!」


と怒鳴ってましたからね。とにかくかなりのインパクト・・・尊敬してました。



彼が決定的に私のヒーローになったのは、卒業の日のことです。式のあと、教授たちの訓辞を賜っていた時。「社会に出ても頑張って下さい」というお決まりの文句が続くなか、教壇に上がったI先生は、怒ったみたいな震える声で


「私は・・・頑張るという言葉は、大嫌いだっ!」


いきなりバタン、ドア閉めて退場。


衝撃でしたよ。研ぎ極めたナイフのような正論・・・。もしかしたら・・・先生は多分、本当に怒っていたんだと思います。「こいつらの云う、頑張るなんて言葉、嘘だ!」・・・先生の心の声を聞いたような気がして、胸を掻きむしられる思いでした。偏屈者の先生が言いたかったことは「手を抜け、楽をしろ」ってことじゃない。


『頑張って』なんとかやり過ごす様な生き方をするんじゃないよ。

  この限りある人の一生は、全ての行動を歓びと共にしてこそ全うできる。

  歓喜に挑み続けなさい。


・・・そう聞こえた。偏屈でも聖職者。感動しました。



以来、あの日の先生を思い出すたび「これからは魂の底から楽しいことしかすまい。その為に努力をしよう」と誓うのですが、どうしてこれが、一番難しいことなのかも知れない。


・・・しかし、楽しいって、どういうことよ。あー、あれだ、経験上、なーんも考えてない時だなぁ。あれ?ヨーガの先生なのにこんなんでいいのか? あ、また独りごと・・・。


そこで、一応それらしく解析するわけですが、「なーんも考えてない時」ってのは、多分、ほんの少し前の過去でも、一寸先の未来でもない、今という完全な瞬間に居る時なんですよ。「多分」じゃなくて、これはホント・・・。


「楽しかった!時の過ぎるのを忘れた!」っていう経験を、誰しも持っていて、とくに子供の時なんてそうだけど、我を忘れて、時間の向こうの夢の中にいるみたいな、あの感覚。文字どおり、無我夢中に遊んだ夏休み、一瞬が永遠になったあの夕暮れ。そこに歓喜は満ちるなあって思います。


時間よりも速く、遅く、もっと静かに、もっと神に近づく、その瞬間、連続・・・


私にとって、歓びとは・・・愛とは、それは完全な静けさ。


だから私はもう、な~んにも考えないっ!バタン、退場。



「天真」とは生まれつきの素直な心そのまま、「爛漫」は自然のままに輝き現れる様子をいうのです。いつまでも気分は小学生。何のてらいも持たず、若々しい新鮮な気持ちを失わず、そういう風に生きていけたらいいね。そうしたら、ヨーガは・・・すべては、もっと楽しい。



そうそう、それからもう一つ、私の「ヨーガをもっと楽しく」してくれるもの。「それ以上でも以下でもない、そのままの私」を許してくれる「ヨガ友」たちの存在。このライフを歓びで満たすという我がミッションにおいて、もはや距離なんて関係ない、彼らには本当に助けられてます。この場を借りて感謝の意をば・・・


みんなーっ、愛してるよーっ!



次のブロガーは・・・この人も天衣無縫ですね・・・「そのまま教」の大先輩であるあの人にバトンを渡します。楽しい暮らしの頼れるアニキ、今日も駄洒落が冴えるSatori君。アニキ頼んだ、後はよろしくっ!


2021年2月8日月曜日

丁寧は、それは・・・。






「お久しぶりです。お元気ですか?すっかりご無沙汰してすみません。 自分の世界に没頭していましたー。」

・・・とのメッセージを友人に送ったら


「わー、それはどんな世界でしょう?」

とレスポンス。


・・・・というようなやりとりがあって考えた。


確かに、どんな世界?


うーん、一つ言えるとしたら、それは、めくるめく自己中世界ですよ。

社会の一員たるもの、人間は多少なりとも自分の外からの視点を想定して、様々な行いをするわけですけど、その視点の想定を、可能な限り削ぎ落として過ごしたい気分・・・そんな世界。

「全体の中におけるバランス」は無視して、自分のすべきこと、したいことだけど、ひたすらやるって感じ。

・・・と、まあ、SNSやブログの更新の無いことへの、かっこいいタイプの言い訳だったり(笑)。


この没頭のなかでですね、色々なことを考えて、それを醸して、過ごしていました。

そうそう、醸してた!そういう世界だわ。


このところ月イチで、ご近所仲間の友永乾史さんとオンラインのトークライブをやっていて、チケット購入時に、私の個人的な興味から小さな質問をさせてもらってる。

「冬のお楽しみは何ですか?」

とか、そいういう簡単な質問。


回答は任意だけど、皆さん、いろいろとお答えくださって、それを集計したものを、トークの中で発表させて貰うんです。


で、先月のライブを聞いてくれていた方と、後日公園で待ち合わせした時のこと。


「2021年の豊富のアンケート、皆さんの回答聞いてて号泣しちゃった。」


え?


「”日々丁寧に笑顔で過ごすこと”とか、”小さなことからコツコツと”とか、”体に優しいお料理やお菓子を少しは作る”とか、”とびきり美味しい飲み物をいつも作れる人でいる”とか、聞いて涙腺崩壊。」


ええっ!そこ?どっちかっていうとほっこり系の答えだけど?


聞けば、遠く離れて暮らすお母さんを思ってのことだそうです。


合理主義的な都会のリズムに馴染んでしまい、あるいは時間に追われて、あるいはコロナのせいにして、大切な人との繋がりや、生活のなかの小さな一瞬のすべてから、丁寧さを省いてしまっていることに気が付いた。お母さんにも寂しい思いをさせてしまい、自分は何をやっているんだ、と泣けてきた。自分に対しても、人に対しても、丁寧に生きようと決意した。


・・・とのこと。


このお話を聞いたら私も泣けてきて、親にはなるべく密に連絡をしよう、優しくしようって思ったわけです。


ところが。言ってるそばから父の誕生日を失念。一瞬「気まずいから、ラインでメッセージだけして誤魔化すか」とも思ったんだけど、「それではいかん!丁寧、丁寧!」と翌日電話で父と話しました。


「プレゼントあげてもどうせ使わないんだよなあ〜、無駄になっちゃうから省くか?」と、また一瞬思ったけど、郵便でプレゼントを送った。感情の表現が控えめな父だけど、それは外見だけで、内心は絶対に嬉しいに決まってるんだから。


家では父以上に寡黙な娘の私だが、最近コーヒーをおぼえた父に、コーヒーを淹れてあげるようになった。不肖の娘。ドラスティックな恩返しは、多分、出来ない。だけど、小さなことからコツコツ。


たいした宣伝もせず、地味にやっているトークライブで、日本のどこの誰とも知らぬ人の言葉が、別の地域の誰かに届いて、その心を動かして、さらには巡り巡って、私の心を揺さぶっている。


人間の思いって、目に見えないんだけど、すごく柔らかく影響しあって、繋がりあっていて、とても有機的だなって、思えた出来事でした。


それと、私は常々、人と人の間の媒体(人と人を繋げるもの)でありたいと願っているので、今回のこのお話は、ちょっと嬉しいエピソードでもあったのです。


言葉にするのは難しいのだけど、「丁寧」というのは、「繋がりに気づく」ということなのかもしれない、って思ったのでした。そして「愛」という言葉の意味するものは、それ、なんじゃないかな・・・。


今月は12日の20時からやります。

(詳細は↑クリック)

めくるめく自己中の世界から、一瞬、外に出る日。


多分、春はもうすぐ。







2020年12月11日金曜日

おろちの道!(後編)

続きです。

前編で、「アイデンティティーを補うために何かをするのは時間がもったいないから、好きなこと、これをやってるとホント喜びがある!ということをした方が良いよ」という話をした。

では「好き」って何だろう、て疑問が出てくるわけです。

それって人それぞれだし、同じ一人の人においても、その時々で違った「好き」があることでしょう。

なんにせよ「好き」の持ち主である本人を、調和と前向きな精神状態へと導いてくれる「好き」こそが、健全な「好き」ってことだと思います。


ちなみに前編で私は「好きなことをしたらいいよ」と言ったけど、それは「楽して生きる」とか「低コストで高い利潤を得る(せこっ!)」ことではなく、「好きなことをする為に努力が出来る」ってことです。それが「好き」かどうかを計る指針の一つだと思うよ。

ここ10年くらい「最小限の努力で、最大限の利益を得ることが人生の成功」的な風潮があるけど、それって極めて消費者的な考えに思える。地球上でで、消費舎に繋がれた消費人が増えたってことなんだろうね。「1貰って100倍返しちゃった損じゃん!損したら人生負け!」なロジック。

わかった。消費者的っていうのは、物質主義的ってことですね。

いやいや~、でも、世界はそんな目に見えて単純なものじゃないから~。

100倍返した人にしか見られない景色がある。

むしろ半沢からがスタート地点?みたいな。


先月から友永乾史先生と二人でひっそりと始めたトークライブ。その第一回目で録画を失敗するという痛恨のミスがありました。で、参加者の皆様へのお詫びと振替案のご呈示をさせていただくやり取りが発生したわけです。すると乾史先生からなんどもお気遣いメールが届くんですね。「余計な仕事を増やしてすみません」と。

それを読んだ私は「あら~優しいわ~」と思いつつ、頭のもう半分で別のことを思い出していました。

2002年から2004年のどこかの金曜日。御母堂の友永先生が、ポロリとこんなお話しをしてれました。

「先日、夜家に帰ったら、洋服が床に落ちていたので、その服を辿っていくとそこはお風呂場でした。でも電灯は付いていなくて、仄かに揺れる光はキャンドル。息子がロウソクの灯お風呂に浸かっているのです。はあ~、こんなリラックスの方法もあるのだな。素敵だな。」

そしてお話のまとめは、こうでした。

「人間、好きなものに囲まれて生きるというのは素晴らしいことですよ。」

あの日から、変態もとい不肖「おろち」の私は、今日までずーっとこのことを考え続けて生きてきた。おろちだから。


好きなものかあ。

でも世の中好きなものばかりじゃないものなあ。

それに犯罪とか好きな人はどうなんだろう・・・ていうか、犯罪好きってそれ本当の「好き」なの?それとも別のなにか?

そもそも好きと打算の違いって意外と見分けがつかないよ?

etc...

で、その時至った結論は、

自分が「本当に」好きなもの、必要としているものを見極められるようになることが大切なんだな。

それから「好き」の対象をより良いものに成熟させていくことも大事だろう。

の二点です。


あれから十余年。

それがここに来て大転回してしまった。


「乾史先生、優しいなあ~。でも、意外とこの余分なやり取りって苦痛じゃないんだよな~。損した気もしないし、貧乏くじ引いてる気にもならんし、なんなら結構満ち足りた感じすらする・・・・え?!もしかして、好きなことに囲まれて生きるって、こういうことなんじゃないか?」

嫌いなものがない。

それが好きなものに囲まれて生きる「究極のかたち」か!


ふ、深い、先生・・・・!


でも、多分、そうなんだと思う。

好きと嫌いの違いが無いってこと。


好きなものだけに囲まれて生きられたら、確かにそこは天国だろ。

これから、まだまだ嫌いなもの減らしていけるのか?

いけたらいいな。


・・・という新たな結論に至ることが出来たので、失敗しても損するってこと一つもないんだな・・・とつくづく思いましたね。


という訳で、最後はまた告知になっちゃうけど、今月も懲りずにトークショーやっちゃいます。今月の私の選曲はSong for salutationsです、しかもノリノリで。録画でもリアルタイムでもご参加お待ちしています。



12月14日(月)20時~21時 ディナーの後にあいましょう!

お申込みはコチラ


おろちは今日も粘り続ける。

ねばねばのネバーギブアップだ!

(↑半沢でお願いします。)


おろち倶楽部の構成員は現在4名。

メンバーは私おろち、パイソン、うわばみ、並びにツチノコです。

全員そういう意味では変態です。


キングコブラ会長に激励をうける ”おろち部長”と伝説のスネイクチャーマー













おろちの道!(前編)

 私は昔から、格安物件、格安航空券、格安ホテルなどを見つけるのが得意。これまでに最もお得だった航空券は東京‐NY往復2万円代、2005年のことである。

今住んでるアパートもかなりお気に入りのグッドディール。この不景気で生活を可能にしているのは、やりくり一本と言っても過言ではない。

25年前、「24時間の大半を働きまくって、やることといえば金を使うことだけ。なんと阿保らしいことよ・・・」と私は思った。当たりまえとして受け入れている社会構造だけど、これって人間を消費者という家畜として飼いならすシステムじゃん・・・みたいな。


斯く言う私もその構造の中に住まう人間なんだけどさ、そのシステムを理解して煙に巻かれないように暮らしていきたいな、と思うわけですよ。

ランニングコストを抑えて、好きなことをする時間を手に入れたい。だからこそ、やりくり。

さて、私のアパートは小さな1K。掃除は毎日したいので短時間で終わる狭さが良い。狭いのでベッドは入れず、喫茶店の二人掛けテーブル2000円に「不用品あげますアプリ」で探した椅子は無料。

問題は二つある本棚が小さく、手持ちのCDとか、本や資料が入りきらないことなんだけど、メルカリで茶箱を手に入れて、無印良品のミニ台車の上に載せてテーブルの横に設置。さらにメルカリで手に入れたA4サイズが縦に収まる木箱を乗っけて、すぐに使う本やノート・・・まあ勉強道具ですね・・・を収納したわけです。




この木箱が大活躍。木箱の出現以前は、お茶箱の上に縦積みしていたので、日々の雪崩が大変だった。

夜は部屋が暗いので、リングライトを活用します。



ということで、これが私の勉強環境。

ボールペンの替え芯とノートのストックは必須。

ちなみに授業を聴くときには、裏が白い紙を見つけたら何でもかんでも取っておいて束ねたものを使います。これはここ10年インドで出来た習慣ですね。インドでは弘美さんに「ボンビーマックス!」と呼ばれていた。

(ボンビーマックスとはつまり創意工夫のことだけど、私のボンビーマックスは結構すごい。物のないところから何でも作る。枕、ふんどしパンツ、クリスマスツリーも作った。マギー麺を使った高級中華風汁麺とかも。そしてそれらのどれもが貧乏臭いからボンビーマックス。服は人が捨てていったものを着ていた。どうせ色んな作業で汚れてしまうので。)


で裏紙に取った授業をちゃんとしたノートに纏めていくんだけど、ボールペンを使いたいので修正テープが必須なのよ。ここはケチらずに120m分まとめ買い。今年だけで50mくらい使いました。修正液だと乾くまでの時間が勿体ない。

ノートは何冊にもまたがるので最終的に製本テープを使って一冊にまとめる。


・・・というようなことをやって暮らしています。


インドでスワミジ達に教えて貰ったこと。講義を聴いて終わりな訳はないんですよ。教わったことを理解するまで、残りの人生の寝ている時以外、ずっと考え続けてろ!ということなんですわ。で、たまたま私は、これを「好き」だったから出来てる(もちろんまだまだではあるけれど・・・)。


だからみんなも、心から好きだと思えることをしたらいいんだと思うんだよね。「手持ちのアイテムを増やす」ことが目的だと勉強は楽しくない。心から打ち込めること思う存分やっているうちに、好きの対象が勉強に移る日も来るかも知れない。

逆に、多少覚えが悪くとも、好きならば学び続けて欲しい。こういうのは他人と比べてどうこうって話ではない。


これは勉強だけに限った話ではないんだけど

「私には何か足りないから補わなければ」

という考えはこの際捨ててしまったらどうだろう。


・・・って「習いに来てください」って言ってる立ち場でこんなこと言うのもなんだけどね。


「そんな悠長なことは言ってる暇はない。それなら勉強を好きになりたいんだ」という人。寝ても覚めてもその対象の事ばかり考え続けていれば、多分好きになるよ。言い方悪いけどストーカーになれ、って話です。


学びの成就の極意をお伝えしておきますよ。


「教えられたら学び返す・・・・100倍返しだ!」


それ以外にはないね。うん。

もはや変態の道ですよ。


筋トレと同じではないでしょうか?自分で実践した分しか身にはならない。


ちなみにこの半沢的な執念を私と弘美さんは「おろち」と呼んでいる。

おろち部、部員募集中です。



















2020年12月3日木曜日

ちゃんとオジサンになるという素敵。

師走ですか・・・。早いものだ。

家にばかりいたし経済的には低迷期だと思うんだけど、精神的にはとても充足感のある一年だった。もう一年くらい、なんなら二、三年これをやってもいいような気もしている。

直近の十年間が「外でアクティブに経験の嵐!」って感じだったんだけど、それを腑に落としこむ時代が自分の中で始まったんだと思う。十年の濃さに対して、たった一年のステイホームでは足りない。

私がインドで何をやっていたか。以外と知らない人もいるので、掻い摘んで書いておくことにする。


10年前、スワミGが大きな組織から独立されたので、

「一人では大変に違いない!下働きでもお役に立てれば!」と思った私。

(長い名前のスワミジがたくさん登場するので、頭文字・・・)


スワミT「もしもし、スワミジー、一人で大変だけど、手伝いの人はいるの?」

G「シーターというのが日本から来ると言っているが。」

T「おおー!シーター来るんなら大丈夫!」


というやり取りがスワミ間あったそうで、どういう基準の太鼓判なのかは分からないけど、とにかく渡印した2010年の12月。ここからインドでのあれやこれやが始まったわけです。

最初の一年目は、言葉に尽くせないくらい濃厚な時間でした。スワミGとゴパールジ(というオジサン)と私の三人態勢で大人のためのグルクラムをやっていた、というようような状況。


なんといってもゼロからだから、とにかく大変だった。

でも、とてもとても特別な時間だった。これまでの人生でもっとも特別な輝きを放つ時間。多分スワミGも同じように感じているのでは、と私は勝手に思っているのだけど・・・。

この頃のことは、じっくりと噛み締めて、いずれ言葉として残したいな、と思っています。


以後、年を追うごとに関わる人が少しずつ増えて来て、今では、あの頃の感じとはまた違うアーシュラムだけど、二年目、三年目はまだまだ黎明期。これまで何百人の生徒さんを送り出してきたけど、当時のコースの生徒さん達のことは特に良く覚えています。

彼らと寝食を共にして、教え学んだ時間は、子育てをしたことのない私が、疑似的ではあるものの「親」であることを学んだ時期だったような気がする。これについては出家のスワミGも同様の感覚があったのではなかろうか。

私は、さながらアーシュラムの小うるさいオバちゃん、お母さんみたいな役どころ。

私はここで初めてオバサンにして貰ったんだと思う。

もう私は時代の主役ではなくて、これからの若者を守り育む側になった。世代交代を引き受けたというか、一般的に人間にはその年齢に応じての役割ってのがあるんだなあと、実生活のなかで知ったわけです。


既に知り合いだったアヌープが学びに来ていたのは、8年前のちょうど今頃。彼を含めて20代半ばのインド人が4人、他に西洋人の人。私が居るということで、日本人の方も来てくれていました。

インド人の小顔ときたら・・・!


(ちなみに日本からの生徒さんには、いつも本当に心を癒されてました~。感覚的に共有できる何かがあるんでしょうね。それにお煎餅とか醤油とか甘酒とか持ってきてくれたり。ほんとにありがとう!)

さて、この四人組が、他の同世代と比べると、純粋というか子供っぽいというか、なんだかとても可愛くてね。とても良い子達だった。(悪ガキもいっぱいいるのよ、これが。笑)

基本的に彼らは仲良しで、いつも一緒に行動していたけど、毎日のように「シ~タ~マ~!」と誰かが私のドアがノックする。「やれ喧嘩だ、やれホームシックだ、やれ誰々が泣いた、誰々が怒った」と、まあ忙しかったわけですよ。

今日たまたまFacebookを開いたら、アヌープのルームメイトの「もう一人のアヌープ」がコースを終えて帰る瞬間の写真が出て来て、とても懐かしかった。

後ろには本物の子供のロシンとハリダの姿も!


あの時のことも、よく覚えているよ。

「ヒマラヤに帰って頑張れよ!君は良い先生になる!大丈夫だ!心配ない!」的なことを言った気がするな。

うっすら涙目で別れを告げる彼の姿が若い。子供だなあ。

まあ、この日に限らず、四人が四人とも本当に無邪気によく泣いていた。


そんな彼が今、ちゃんと立派なオジサンになっていることは想像に難くない。

男の子ってほんと不思議な生き物で、いつの間にか大人の男になっている。

女の子達もきっと可愛い奥さんになっていることでしょうね。


もう一方のアヌープもはというと、こちらもちゃんと立派なオジサンになっている。インドで三十半ばは立派なオジサンだ。でも、ちゃんとオジサンになれるって素敵なことなんだよ。近ごろ日本じゃ、大人になるって、なかなか難しいんだ、。

アヌープが17歳の時に開設した学校の存続のために、今、クラウドファンドが立ち上がっているので、良かったらそっちも覗いてみて下さい。

https://readyfor.jp/projects/premametta2020

新着記事の更新がいつも楽しみです!

がんばれ!

2020年11月13日金曜日

シータマを探せ@11/16 新月の夕べのサットサンガ


恒例の(・・・だったっけ?)クイズ!シータマを探せ!じゃかじゃんっ!


正解は巻末(笑)に。


みなさん、お元気ですか?


日頃のやることなすこと「思いつきで・・・」ってことが多い。

閃き待ち・・・というか、閃いちゃったことは取り敢えず、やる。

やることで何かを狙おう!って訳でもないし、その先に何があるかは、全くもって分からないんだけど、「やる」ってことに「コミットする」ことに意義がある。

・・・ような気がしている。

そんな今年のある日、「私、友永乾史先生とトークライブしようっと」と思いついた。

乾史さんは、言わずと知れた、友永淳子先生のご子息である。

お互いに、見知った間柄ではあるが、とりたてて交流の機会はなかった。


だからこそ楽しいじゃない?

それも出来るだけ、ひっそりやろう。幻のなんちゃらってやつだ。

(という意識があるためか、いつも告知に消極的・・・てかサボってしまう)

こっち、こっち、こっちを見てー!

 私、私、私を見てー!

っていうのは、巷に溢れかえっているので、

そうじゃない感じのがいい。


作り込まないで、ただの私として衒わずに話をしてる姿で、出たいなあって。

そりゃ、普段クラスを教えている時だって、自分を作り込んじゃぁいないんだけど、クラスってのは、明確な目的があってお話ししているんですよね。

「今日はコレについて理解して貰えるようにしよう」とか、その日その日のターゲットがある。だから「私の思うこと」を話している時間は、あまり無いんですな。


だから、トークライブで「私が私として思うこと」を話してみたいなあって思ったのよ。

そして、その「”今”感」が、自分じゃない誰かと対話することによって、もっと引き出される気がするなって思う。


だいだい新月の近くの日の夜に、ひっそり集まってやろう、ってことになりました。

本当はライブハウスや夜のカフェみたいなところで、皆と温かいドリンクでも飲みながら開催したかったんだけどね、ま、仕方ないです。

それは、ま、コロナが明けたらってことで、今はオンラインで。

Youtubeで垂れ流し配信も考えたんだけど、少しだけ入場料を頂いて、一カ月の中のちょっとだけ特別な時間っていう、ささやかな”お楽しみ感”、”大切感”?のある「催し物」にしたかったので、こんな形を取りました。リアルタイムでも視聴していただけるし、後日、録画を見るのでもOKです。

それと、このイベントで私たちが制作の目標として掲げるのは「8時だよ!全員集合」です。あ、面白いことをするって意味ではないです。


思えば、チェンマイのバーンロムサイを応援するリトリートも、思いつきからだった。

それが2012年から続いてる。

京都の夏のリトリートもそうだね。

どれも小さなことだけど、ひっそりと、時間をかけて根を張って、花を咲かせて、果実を実らせてきた。


その実や花や木陰が、そこを通りかかる人達の、ほんのひとときを喜ばせたらいいな。


そういう路傍の立ち木のように居たい。


もちろん、その人の人生を丸ごとを救済することは出来ない。

だけど、疲れ果てた旅人の、その一瞬に寄り添うことは、出来るかも知れない。

また、前を向いて、鼻歌なんか歌って、旅路を行こうって思えるように。


追伸:もう一つの思いつきが日の目を見る時を待っています。

「しいたけとしいた リトリート」をやりたい、と勝手に思っている。

しいたけ、とは占いのしいたけさんのことです。一面識もないけど。




トークライブ「シー友の 新月の夕べのサットサンガ」vol.1 シー友の見たインド2020/11/16(月) 19:00~20:00(リアルタイム)、終了後は録画を視聴出来ます。

参加費:500円

チケットはコチラから 

※インターネット環境が必要です。リアルタイムのご参加の方は、事前にZOOMのアプリをダウンロードして下さい。


答え:みんな正解したかな?スケキヨじゃないよ、シータマだよ!