2014年9月24日水曜日

ムナールに行って来た。Part 4

皆さん、スリランカ航空ではリクエストをすれば、コロンボでの長時間トランジットの際、宿泊が無料で付いてくるのをご存知ですか?


日本からの便だけのサービスかな?と思っていたけど問い合わせてみたところ「条件を満たしていればどこからでも」というお返事。


ただし、リクエストの応対をするのは出発地のオフィスのみ。


で、私は今回、マレーシアと電話で話す必要があったわけですな。気が重い・・・けど仕方がない。


私の英語なんて所詮、相手の言っている感じを真似ているだけだから、会話の相手によって発音が違っちゃう。主に、イギリス英語、アメリカ英語、インド英語の括りです。


マレーシアの人とお話しすることがあまりないので、どのパターンなのか分からず、どもるし、新しい感じのへんてこりんな訛りになってしまった。ああ・・・。


自分の英語を確立させたいものです。




さて、ムナールですよ。

ムナールの町から少し下って、自然の中のロッジにやってきました・・・ってとこまで話したよね。アメリカ人とフランス人が出てきます。








夕食時が来て、丘の上のメインコテージへ移動する。


コテージは平屋で、中央はダイニングルームを囲むようにして、4部屋とキッチンがある。管理人家族が一部屋使うから、ゲストは3組しか入れないそうだ。


ツンデレの奥さんを含む管理人の家族は、もとはタミルナードゥの人達だそうで、先祖が越境して移住したらしい。英国統治下は、茶畑ビジネスはさぞ盛況だったことでしょう。

三々五々、住人達がダイニングに現れた。バードウォッチャーのアメリカ人、作家のフランス人、インドは初めてというイギリス人の女の子二人組と日本人の私。他人同士でひとつの食卓を囲んでディナーと相成った。


インドのお母さんが作るご飯を食べられる宿は実にありがたい。レストランの脂っこい炒麺とか、悪くは無いけど、飽き飽きしていたところだ。缶詰になって執筆するのに最高の環境だし、そんな暇ができたら、いつか長逗留してみたいものだ。

夕食を終えて、自分のヴィラに戻る。お一人様好きの私には嬉しいけど、いざという時には決して好ましい環境ではない。叫んでも誰も聞きつけてくれないだろう。門を閉めてチェーンをグルグル巻きにしてから寝た。悪者が車やバイクで来た場合、少なくとも時間は稼げる。



さて、翌朝の朝食はフランス人と二人きりだった。アメリカ人は鳥を観に川にいってしまったし、女の子達は既に次の目的地へ出発してしまった。


私がアメリカ人から聞いていたフランス人の事前情報はこう。


「もう半年近く滞在して書いている作家なんだよ。彼はいいやつさ。でもちょっと厭世的なところがあってね、全てにおいて悲観的なんだよな。・・・You know、この地球は危機的な状況だ、とか、世界は退廃し尽くしている、とかいつも言ってる。」

そこで私は、

「うーん、あなたの言わんとすることは解る気がする。要するにフレンチってことだよね。」

と答えたのだった。


しかし、朝食の席でフランス人がアメリカ人について語るには、

「うん、彼はいいやつさ。でもただ一つ僕は嫌なところがある。世界のいろんな危機的な状況に対していつも“I don't care.”だ。これは彼の性格が悪いってことじゃなくて、アメリカが国民をそういう風にしているってことなんだけど・・・。」

なるほど。お互いがお互いの背と腹みたいなことだ。



I don't care. は「気にしない」って意味だけど、ニュアンスを性格に伝えるならば

「別に、関係ないよ、俺がどうこうしたって、どうにかなるわけではないんだしさ、気にしても仕方ないじゃん」・・・と言葉にしてくればまだしも、いわゆる「見ない振り」みたいなことです。


二人のそれぞれと、じっくり話をしてみて、私はどちらも好きだな、と思う。素敵な大人だった。だけど、フランス人に一票!という気分であることは確か。


フランス人の彼はもともとプロの登山家で、日本の登山家を自宅に泊めて長いこと一緒に暮らしたこともあるそうだ。登山に詳しくないから、日本人の名前を言われても解らなかったんだけど・・・。

登山をやめてから、もっとみんなに、大切なこととか、(ことに山男の視点からは)地球のこととか、を伝えたくて作家に転身したとのこと。



仏「フランスも終わってるよ。国民はすっかり骨抜きだ。これじゃまるでアメリカだよ。本当に悲しいよ。」

私「EUになったから?」

仏「それだけじゃないね。」

私「日本もそうだよ、グローバルになって、町も店もアメリカっぽくなってしまって、没個性でつまらないよ。なんでかっていうと、アメリカはどこの町にいっても同じモール、同じ都市計画、でしょ。日本の政治家はアメリカに骨抜きだしね。」

仏「グローバライゼーションっていうけどね、あれ言葉を間違ってるよ。本当はあれはアメリカナイゼーションなんだよ。」

私「!!確かに!そうだわ。その通りだわ。」




私が初めてインドに来たのは十数年前のこと。

シッキムの山奥のカフェで、朝食の席でこの手の話になったことがある。メンバーは台湾人、アメリカ人、フランス人、そして日本人の私だ。言いたいことは沢山あったのに、あの時は、一言も口を挟むことが出来なかった。人は変われるもんだな。英語は便利だ、と思う。



私は、基本的にアメリカの友人達が大好き。一緒にいて、なんだか楽。何故かは解らない。あの大ざっぱさが、大ざっぱな私の性に合っているのかもしれない。言葉は悪いけど、褒め言葉として、あのバカっぽさが、バカな私にしっくりくる。


ただ、日本と同じように、なんだか盲目化させられてる感は確かに否めない。

考える力を搾取されてしまっているというか・・・・。

事実、日本人の盲目っぷりの加速に、私は帰国するたびに土肝を抜かれている。



「もう止められないのかも知れないけれど、それでも、納得出来ないことには僕はNOと言いたいんだ、おかしいだろ、原発だって何だって。納得がいくまで話合いたいし抗いたいんだよ。」というフランス人の思いが、私にとっては正しい姿勢に思えたのだった。


大自然の懐で過ごし、人知を凌ぐ山の頂から「世界」を見てきた人の言葉として、余計に身に滲みた。


フランス人に別れを告げて、午前10時、迎えの車にのって、友人アニーシュの実家に向かうことになっている。とくに行きたいわけじゃないんだけど、断れなくて、そのストーリーに乗っかってしまった。

途中、バードウォッチングから帰ってくるアメリカ人とすれ違った。狙っていた鳥は見れたかな?自然を愛する、おおらかで朗らかな男だ。みんな、みんなが、そしてその家族が、どうぞ幸せであって欲しい。