2020年5月26日火曜日

ネットのこと(追記)

皆さん、こんにちは。

つい先日、前編後編にわけて「ネット」について思うことを書きました。

インターネットをはじめ、あらゆるメディア(媒体)が情報を発信するところには、必ず受け取り手の存在があります。

受け手があってこその発信という「行為」が成立するわけで、つまり発信側には「このように見せたい」というヴィジョンが最初にあるわけです。

私は先日の記事の中で「瞑想をしている写真のあるところに瞑想はない」って書いたんですけど、「瞑想コース、教えます」の文言に、教える人が瞑想している写真が添えられているパターン、ありますよね。探してごらんなさい、沢山見つかるから。

それを見て「すごい、瞑想してる姿がかっこいい、申し込もう!」と思う受け取り手がいるわけです。

その写真は「瞑想している姿」ではなくて。

「こう見せたいというヴィジョンに添ってレンズに写る努力をしている姿」

なんですよ。

カメラ、SNSといった中間媒体の介在を想定する時点で、瞑想はなくなってしまってる。つまりリアルはないんです。

ハタヨーガも含む瞑想関連の行法ってのは、そもそも、思考という内部メディアの構造を暴くためのセオリーなので、外部メディアが噛んだ時点で、本末転倒する・・・という最も分かりやすい例ですね。


メディア発信は「行い」で、行いの具現化される背景には必ず「欲求」がある。

欲求があるのが悪いってことじゃないんですよ。

欲求のパワーはとは素晴らしい力で、それがこの世界を顕現せしめているわけなんだけど、メディアを介して手に入る情報には、「見せたい(または見せたくない)ヴィジョン」、つまり発信側の意図が、必ず先行していて、この二重構造に気づけないと色々たいへんなこともあるよ、ってことです。


私が「残念なのは受け手側の脆弱性」と書いたのは、そういうこと。

ちょっと前に、「リア充(充実したリアルライフ)」という言葉が流行ったけど、SNS上で見られるのは本当のリアルじゃなくて、「こう見せたい」という「欲求」。

なのにみんなで「この世界では、それがリアルね」ってことにしてしまった。


それが「マス」の力なんですよ。マスの無知の力は大きくて、侮れない。


「瞑想しているように写るように努力している姿」が「瞑想している姿」になってしまうんですね。リアリティーの変換が起こる。


メディア上のリアル(真実)は、アクチュアル(実際)なリアルとは違うよ、ということ。これを理解しておくことは、この時代、必要なことだと思う。

「人を幸せにしたい」思いで、エンジニアたちが進化させてきたテクノロジーを、不幸になるために使ってどうする?って話。便利な車だって、そのメカニズムと扱い方を知らずに乗ったら危険物でしょ?


リアリティーショーに出演していた女の子が、若い命を断ってしまった。
とても悲しいニュースに胸が痛む。

彼女をターゲットにして、誹謗中傷をしていた人たちがいると聞くが、その人たちに

「リアリティー番組は本当のリアルじゃないよ。情報って、見せたいヴィジョンを見せるために放たれるんだよ。」

って、言ったらどういう返事が返ってくるのだろう。

「自分たちが書いた中傷だって、ネット上にあるからにはリアルじゃないだろ!それなら傷つく方が悪い!」って反論されるかも知れない。

そこは、合わせ鏡のような、出口のない、危険な場所。
ちゃんと地図を頭に入れておかなきゃダメ。



この悲しいニュースを聞いて、私は、芥川龍之介の小説「地獄変」を思い出した。





あらすじを、ものすごく端折って説明すると・・・

主人公の絵師が、クライアントに「地獄を描いた屏風」を発注される。絵師は、リアルな地獄絵図を書く為にいろいろ頑張ったが、イマイチ納得がいかず苦しんでいた。しかし、最終的に、自分の娘を乗せた車が火の中で燃え落ちていく姿をモデルにして、鬼気迫る傑作を完成させた。

・・・という話なんだけど、文芸界隈の学校では、「芸術至上主義」について議論する際に出てくる鉄板ネタです。芥川本人の、芸術の為にいかなる犠牲も厭わない主義を投影する作品(ほんまかいな?)みたいな議論がなされてるわけです。

しかし、学者の議論なんて、議論のための議論みたいなもので、それこそ机上の空論。当の芥川の表現したかったヴィジョンは、本人にしかわからないんですよ。

さて、地獄変は、芸術を突き詰めたい欲求のために、人としての道理を犠牲にしてまで「表現」した男の話だったけど、現代におけるマスなメディアの表現の動機=ドライビングフォースは何か。

多分それは「金」でしょうね。炎上商法というのもあるくらいだから。マーケティング至上主義とでもいうのか・・・。でもお金を追求すること自体はなにも悪くない。問題なのは、ダルマ、人としての道理を犠牲にすること。


メディアという迷宮のような世界で、いつだって、発信側も、受信側も、「メディア」の性質を理解しておく必要があると思います。


ちなみに、この物語の中で主人公は、自分の娘を見殺しにして最高傑作を仕上げた後、自死してしまいます。

十代の頃は、その理由を「自責の念にかられて」だと理解していましたが、今はちょっと違う気がしている。

芸術というフィールドで、真実を追求していた絵師が、全てを賭けて突っ走り、その結果ものすごく虚しくなってしまったのではないか・・・・。


エネルギー使い果たしたところで、ようやく気が付いた。
このリアルは本当のリアルではない・・・と。

探す場所も、探し方も、間違えた。

それは、一体どこにあるんだろう。

しかし、もう一度、いちから探し始める力は、彼にはもう残っていなかったんだろうな・・・って。

まあ、書いた本人はもう居ないし、すべてはそれこそ「藪の中」なんだけどね。そもそも文章芸術というのは、読み手があって初めてそこに「存在」できる世界だから、読み手の数だけの「リアリティー」があるということでしょう。

「地獄変」は、小説というメディアだからこそ出来る、「本当」についての問題提起であり、しかし、作家自身も、合わせ鏡のメディアの迷宮で、迷子になり始めていたのかも知れない。


ちょっともう一回読んで見ます。