2010年6月28日月曜日

『旅をする木』

「いつかある人にこんなことを聞かれたことがあるんだ。
たとえばこんな星空や泣けてくるような夕陽を一人で見ていたとするだろう。
もし愛する人がいたら、その美しさやその時の気持ちをどう伝えるかって。」

写真を撮るか、もし絵がうまかったらキャンバスに描いて見せるか、
いや、やっぱり言葉で伝えたらいいのかな。

「その人はこう言ったんだ。自分が変わってゆくことだって…。
その夕陽を見て、感動して、自分が変わってゆくことだって思うって。」

(星野道夫『旅をする木』)






あまりにも遠かった・・・。東京→NY→メキシコシティ→サンホセデルカボ。さらに一日車で走ってラパス。まだ勘弁して貰えずに、ラパスからボートで8時間も揺られてやって来た。誰もいない、小さな入り江の、小さなテント、小さな毛布の隙間から見える、これが全てのもの。まるで地の果てへ来てしまったみたい。シャーベットのように、淡く、淡くとけて、一日が終わる。この体も、砂地にとけて、安息の眠り、ようやく。




曖昧な月が、いつしか煌々と輝きだす、ゴーストダンスにふさわしい満月の夜。そういえば、生まれて初めてムーンボーを見たのでした。濃紺の空にくっきりと、鮮やかに架かる七色の虹を。




地球上のどんな場所にいても、かならず巡って来る朝の光。
そうなると、私としては、結局どこにいても同じではないかと・・・。




まっすぐに私を見返す、真昼の太陽も。




こんな遠いところまでやってきたのは、チーフのもとで行われるセレモニーの為でしたが、人里と隔離された、そこはパラダイスだったな・・・。私にとっては、初めての、夜通しの儀式。




恐竜?それともクジラだろうか。長いながい間、誰の目にも晒されず、 たとえば鳴らない電話のように、じっと息をひそめていたら、石になってしまった。ずっと昔に生きていた何かの骸。




そして、いま生きているのは、過去という名の髪を切り落とした私と、変わらずに寄り添う君と。

友よ、愛する人よ。永遠に分かたれることのない歓びを祈りにかえて、限りなく淡い夕暮れ、明と暗の狭間に。

空と宇宙の狭間に。


 思えば、目を見張るような風景は、いつもチーフやファミリー、そして親友とともに居た、幾度かの機会に出会ったのでした。世界には、こんな顔があったんだ・・・という、それは異形の風景といってもいい。

 NYからサウスダコタまで、5日間かけて走ってきた車から降りて目にしたのは、果てしなく広がる荒野。雷鳴が轟き、空と大地が結婚するのを、私は見た。

 ヴィジョンクエストの夜明けの太陽もすごかった。「おい、あれは、おまえのとこの国旗だぞ!」と言われて振り返ると、乳色に煙る空に、クッキリと輪郭を描いていたのは、血のように赤い、真赤な日の丸・・・・。うちらの国旗を覚えてくれててありがとう。

 ここメキシコでは、小さな船で夜の海に乗り出して数時間。漆黒の夜の海の果てから、突如、真っ赤な岩の様なものが現れたんだっけ。原爆?エアーズロック?ってオーストラリアだし・・・え、もしかしてオーストラリアにきちゃったの?などとうろたえているうちに、その禍々しい赤い物体は、真っ黒い水平線を離れて、宙に踊り上がってきた。それは見たこともないほど巨大な、メラメラと燃える赤い月でした。

 カメラを持ち出すのも忘れてしまうほどの、圧倒的な未知の世界の前で、ぽかんと口を開けているのが、精一杯だった。無条件に泣けてくるような空を、その時の気持ちを、私は、伝えられただろうか?



死にゆくもの、生まれ来るもの。

私も、きっと、旅をする木。