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2022年4月16日土曜日

みんなのQとシータのA〈やんばる編〉



今日は、先日の沖縄でのサットサンガに来てくださったHさんからの質問をピックアップ。

Hさん!町から山まで、暗いなか足を運んで下さってありがとうございました!

お会いしたこともないHさんなる人物にやんばるの奥地でお話を聞いてもらう、なんてことはその瞬間まで想像だにしなかったわけで、人生、髄所にお宝が隠されていますよね~。


ということで、おひさしぶりの「みんなのQ」、いってみよう!


Q.先日のサットサンガの時の話が頭に残っているのですが、ちゃんと思い出せないので、確認させて下さい。一つ目は四つの社会的区分について。それぞれのバランスに応じて社会で果たせる役割があると解釈しましたが、 これは人間の何を表しているのですか?


A.「インドにはカーストとして知られる階級制度がある」というのが世界中の多くの人の認識です。

辞書で引いてもカーストとはヒンドゥー教の特権的な階級制度とか書かれているのですが、そもそも、カーストという言葉はインドにはありません。

その語源はポルトガル語のCastaです。

諸外国人の言うカーストとは本来「ヴァルナ」という社会を構築する四つの役割区分のことで、この四つは時代や国が違っても、つまりどの国のどんな社会にもある普遍的な社会基盤です。


インド亜大陸はその豊富な資源を諸外国に目をつけられて侵略されまくりましたが、侵略者たちの国の常識からみて、ヴァルナの概念は「特権的」あるいは「排他的」階級制度として理解されてしまったのでしょう。

だから「奴隷」などという大きな誤訳が生じているのだと思います。

私は手塚治虫ファンですが、この点において「ブッダ」はどうもしっくり来ないんですよね・・・。


それはさておき、四つのそれぞれを見て行きましょう。


①ブランマナ・・・智識を守り継承する人達(神事を司る人、教職など)

②クシャトリヤ・・・国を守り治める人達(政治、行政、防衛、警察など)

③ヴァイシャ・・・ものをつくり流通させる人達(農業、工業、商業など生産者、商売人)

④シュードラ・・・①~③をサポートする人達(使用人、雇われ人)


どこの社会にもこの四つの柱はあります。

逆に無いと社会が社会として機能しません。


※この人間社会の役割区分を「排他的、特権的な階級制度」と吹聴し、人々の間に分断を作れば、民衆の支配は容易になります。政治的な意図によって歪曲、利用されている感は否めません。実際に多くの人が誤った理解と運用をすることとなりました。


余談ですが、戦後日本では大多数の人がは雇われの勤め人となりました。

日本では親の感覚として、娘の婚約者が自営業よりも良い会社に勤めていることを喜ばれますが、インドでは小さくとも自営の方が勤め人より一目置かれます。

文化の違い、興味深いです。


さて、やんばるでは四日間の講話の内容がゆるりと連続していたため、突然耳慣れない専門用語が出てきたりして、途中ご参加下さった方には分かりにくかったと思います。

ここで補足させて下さい。


あらゆるモノ(目に見えるもの、見えないもの、ぜんぶ)の多様な質を辿っていくと、三つの根本要素に集約されます。


1⃣ サットヴァ ‐ グナ(私達を智識に近づけてくれるクオリティー、ニュアンスを漢字で表すと明、浄、聡といったところでしょうか・・・)

2⃣ ラジャス ‐ グナ(私達に動きを与えてくれるクオリティー、能動性)

3⃣ タマス ‐ グナ(私達を智識から遠ざけるクオリティー、同じく暗、濁、鈍)


ちなみにグナとは質という意味です。

この世界に見られる多様性は、これらの組み合わせの度合いの違いにほかなりません。

テレビに映る無数の色のバラエティーが、シアン、マゼンダ、イエローの多様なコンビネーションであることを想像して貰うとイメージしやすいですね。

人間のパーソナリティーの違いも、元を辿れば、この三つの多様なコンビネーションです。


再び四つの役割に話を戻しましょう。


交通機関やマスメディアの発達してなかった昔、それらの役割は親から学んだ子供達によって代々継承されることが殆どでした。

また、子供が、特定の社会的役割を担っている親の背中を見て、長い年月をかけて特定の知識と技術を身に付け、親の担っていた役割を継承することは自然なことでした。

一つの役割を、代々の同じ家系の人間が担うのが一般的で、カースト=お家柄と強く理解されることになりました。

しかし、メディアも交通も発達した現代では、家系の枠を超えて、個々人のクオリティーに応じて、得意な分野で活躍している人々も増えていますよね。

例えば、私の先祖は米を作っていたけど、父は米を作らず会社員をやっていましたし。


ここで「社会を構築する四つの役割」の担い手に必要とされるクオリティーを、「三つのグナのコンビネーション度合い」を使って表してみましょう。

質の度合いを文字の大きさで表現します。

※サットヴァをS、ラジャスをR、タマスをTと表記。


①ブランマナのクオリティーは SRT

②クシャトリヤのクオリティーは RST

③ヴァイシャのクオリティーは RTS

④シュードラのクオリティーは TRS

自ら考えるという知的要素、自ら動くという能動的な要素の少ない④の人は、自ら起業するよりも与えられたタスクをこなす勤め人として社会に貢献することでしょう。

整頓された高い知性の持ち主は、自ら理解し他者に理解させる①の稼業に向いています。

②はどうでしょうか?活発で理知的な人でなければ、他人の為に尽くし国を司ったり守ったり出来ません。

能動的でありつつも、より現世的な喜びに価値を見出して、それを他者にも届けたい人は③の仕事で能力を発揮するでしょう。


家系の括りだけでどうこう・・・という話ではないのです。

もちろん、遺伝子を継承し、同じものを食べて、同じ環境で暮らす家族のクオリティーは当然似通ってきます。

特定の親の元に生まれること自体、何らかの原因によって押し出された特定の結果、つまり必然ですしね。


看護師さんというお仕事は、どれなんでしょう。

お医者さんのアシスタントということであれば①の、国民の命を守るということであれば②の、それぞれアシスタントとして仕える④なのかな・・・。

今度先生に聞いてみますね。


・・・とまあ、以上が日曜日のお話の概要です。


今現在、私たちは皆社会において、個人として携えているクオリティーと置かれている立場に応じて、それぞれに役割を果たしているわけです。


どこでどんな仕事をしているにしても、他の動物と比べてサットヴァな「人間」という生き物として生まれたからには、このサットヴァなクオリティーを受け容れ、理解し、磨いていくべきです。

①~④のどの仕事に就こうと、私たちは皆、精神的に①の人であれることを目指すんですよ。


今、世の中では「良い仕事=楽な仕事」と認識されているようですが、私たちを成長させる=つまり精神を SRTに磨き上げてくれるという点において、どんな仕事も等しく尊いんです。

そういう意味では、むしろ楽じゃない方が良い仕事ですよ。

心だって磨かなきゃ輝かないんだから。


SRな精神状態ってどんなかというと、清く、落ち着いていて、だからこそ聡明なんです。

喧々でもなければ悶々でもない。

他者のために動ける人の心です。

いつも、そんないい感じでいられたら良いですよね?

きっと充足感でいっぱいの筈ですよ。


だから目先の見返りにとらわれず、今目の前にある役を一所懸命果たしてみようじゃないの。

いつか立ち止まって見たとききっと見える景色がキレイになってるよ。


というようなお話でした。


うわ、長くなってしまいました。読んでくれてありがとうございます。

質問②については改めてお返事しまーす!



Sitaより



2021年11月15日月曜日

お久しぶり。みんなのQとしーたのA



お久しぶりでございます。最近、大事な話はいつものクラスで面と向かってお話ししてしまうので、ブログに書くモチベーションをすっかり失っていたんですが、コロナ以来、お会いでいる人の数にも限りがあるし、やっぱりブログ、書いた方が良いかな・・・ってちょっと思い返しまして、久々に。


面白いことに、同じ時期に同じようなことが重なるってありませんか?

先月は複数の人からいただくメッセージに「バガヴァッドギーター」という言葉がやたら出てきました。なので、久しぶりに「みんなのQとシータのA」です。

多少の校正をいれながら、今回はKさんとのやりとりをご紹介しますね。ご質問の内容に伴いちょっとショッキングな単語も出てきますがご容赦下さい。赤字の部分が私です。以下長くなりますのでゆっくりどうぞ。

質問なのですが、自分でもどう伝えて良いかわからないままなので、文章がしっちゃかめっちゃかになってしまうであろうことを、先に謝っておきます。行いをした結果は神がもたらすものなので良いも悪いもないということですが、では、殺人や自死、犯罪などもそうなるのでしょうか?

→まず、言葉を整理するところから始めましょう。殺人、自殺、犯罪というのは私が選ぶ「行い」の選択肢の一つですね。

 人間には選択の自由がありますが、カルマヨーガの「行いを神への捧げものとする」という観点から言うならば、「アンタ、殺生とかそんなもん神様に捧げていいんですか?」ってことですね。愛する恋人への記念日のプレゼントに、墓掘って盗んできた来たネックレスとかあげないですよね。神への捧げものはSattvaなものであるべきです。行いを神への奉納品と考えるとき、我々人間の行動の選択に自然とガイドラインが出来ます。

 

それらも欲を持ち行動を起こした「結果として」他人や自身の命がなくなったにすぎなく、そこに善悪はないのでしょうか。

→この質問は「行いの結果の受け取りについて」と捉えていいですかね?

とすると、他人の選択した殺人という行為の犠牲になることも「結果の受け取り」ということになりますが、ここで原因と結果の関係を思い出して下さい。木製の机(結果)の材料(原因)は木ですので、「木製の机」は姿を変えた「木」にほかならず、この机は「木らしさ」に満ちていますよね。磁石がひっつくなどの鉄らしさは微塵も備えていません。原因と結果は似通った性質を持つことが分かります。これは我々の住む世界における一つの摂理です。

この因果という摂理の視点からお話しさせていただくならば、殺人の犠牲になるという事象は、似通った質の行いを原因とする果報であって、この視点の基準は原因と結果であり、そういった意味では、Kさんのおっしゃる通り善悪云々ではありません。「自分が受け取るもの(結果)は、自分のやった行い(原因)らしさに満ちる」という摂理の視点から見たら、善い結果だろうが、悪い結果だろうが、自分に還ってくるだけのことなんだから等しく受け取るしかないんですよ。でも「イーシュヴァラのプラサーダと思えば受け取れるでしょう?」っていう話です。


アルジュナが王家の人間として既に生まれてしまったというのは、本人の過去の行いの結果なので受け取るしかありません。彼の置かれた状況だと、もう戦う以外の選択肢が残されていないんですよね。(どういう状況かは後で説明しますね。)

 

但しこれは、私たち人間の短い一生のなかに限定された話ではないので、証明も出来ない代わりに否定も出来ない、人智の及ばぬ法則である点に留意して下さい。この全体の摂理をイーシュヴァラと呼びます。

 

もちろん、その先捕まって罰を受けるのも「結果」であるでしょうけど。

→一方捕まって罰を受けるのは、人間の一生という短い時間に目に見える結果ですね。沢山の個人が集まって暮らす為には、社会的なルールが必要です。ダルマという言葉は色々なレベルで様々な意味として使われますが、この社会的なルールもまたダルマと呼ばれます。命を殺めることはダルマに反します。誰も殺されたり傷つけられたりすることを望んでいないからです。Kさんのおっしゃっている善悪は、この社会的視点に立つときに出現する言葉です。良いとか悪いとか、好きとか嫌いなどの相対的な概念です。

大抵、人間の視野は狭く、自分や、自分の家族、自分の仲間、自分の住む人間界のことしか気にしていません。人間社会で鳥の丸焼きは悪と呼ばれまていせん。しかしこの地球上には人間だけではなく、他の沢山の生命が存在しています。広い視野を持つとき、動物や魚を殺すのはやはりアダルマですよね。だって魚だって鶏だって殺されたくないですもん。

とはいえ広く地球上には、肉を食べないと命を繋げない境遇にいる人間(北極圏に暮らす人とか)もいるでしょうし、人間を食べないと今日の命を繋げない状況の獣もいます。もちろんそういう境遇に置かれること自体も過去の行いの結果ですが、今日熊を殺したら、いつの日か熊みたいなものに殺される結果が実ることでしょう。トマトを食べて栄養を得る私たちも、いつか土に還ってトマトに栄養を与えます。因果とは、好き嫌いとか良い悪いとは関係ない、つまり自然のサイクルです。


ギーターの話になりますが、クリシュナがアルジュナに戦えと言ったことも、モヤモヤ納得がいかない所です。

その後クリシュナが説く、カルマヨーガやバクティなどはわかるのですが、「だから」戦いに行きなさいというのが、うーん…と感じる所です。

→ギータ―の中でアルジュナが置かれているシチュエーション。これは我々平凡な民の日常に起こる問題をはるかに超えた、究極の選択を迫られた男性の話です。誰だって人(アルジュナの場合はしかも愛着のある人達)を傷つけたりしたくないのに、戦わなくてはいけない。そんな、人間として一番苦しい状況に置かれた人がアルジュナです。


この戦争に至るまでアルジュナ王子達は、ドゥリョーダナの悪政を食い止めようとあらゆる交渉を行ってきました。しかし絵に描いたような悪代官ドゥリョーダナの暴走は止まりません。越後屋もびっくり。ダルマもへったくれもありません。(国を治める人物として有名どころでいうと)ヒットラーに勝るとも劣らぬ大暴走です。


国民を守るべき役職にアルジュナは「戦争するってことは相手を殺したり傷つけたりしなくてはならない。でも従兄のドゥリョーダナはじめ、兵隊たちもみんな知らない仲じゃないし、オレ嫌だよ。無理、無理、無理、この戦、マジでダレ得?戦うのを辞めて森に行って瞑想する人になりたい・・・」って言いだしました。


(先ほどから個人名出して恐縮だけど、分かり易いように・・・・)ヒットラーの大暴走はご存知でしょうけど、悪政をストップすべき立場の人が「ヒットラーは放置します。私はインドへ行って出家します」みたいなことを言っている。

でももし私がアルジュナの立場なら・・・暴君と化したとはいえ身内と戦うなんて嫌。

でも、懸命に生きている幾億もの尊い命の時間が、暴君によって凌辱されるのも、嫌じゃない?


「結果として」命が奪われるだけだというのが…

→果たして結果は「命が奪われるだけ」だったでしょうか?


私は、戦うことで他人の命を奪ってしまうのが怖いと言ったアルジュナの気持ちの方が良いのかなと思うのです。

善悪は、時代や国、宗教、個人でも判断が異なるものなので、あの時代クシャトリヤとして戦うことがダルマで仕事だから、怯えずその責務を果たしなさいということで、現代(?)に当てはめて考えるのはおかしいのかもですが。戦わず平和に(?)とならなかったのは何故なのか物語だし、深く考えるなって感じなのかな。

 バガヴァッドギーターは「自分で読んで勇気を貰えて、ついでに学ぶところもある歴史ドラマ」ではなく、ちゃんとした先生の解説とセットで勉強するもの (= 厳然たる教え、ヴェーダーンタの聖典)なので注意が必要です。


ギーターは「戦争をしろ」と言っているのではなくて、(だいぶ端折りますけど)「行いを通してイーシュヴァラを理解する」というサーダナについて語っているんです。「その為には好き嫌いを基準にして行いを選択しませんよ」と教えてくれています。すべてにイーシュヴァラを見るという姿勢を貫くことが、その助けになります。


「牛を殺してステーキ食べちゃう☆彡だって美味しくて好きだから☆彡」というのは、サーダカのサーダナとしてはどうでしょう?って話ですね。アルジュナが戦うべき理由は「楽しいから」ですか? 逆に戦わないべき理由は「楽しくないし好きじゃないから」でいいですか?


確かに、アルジュナの置かれているのは極限的な状況で、平凡な私たちには計り知れない。

でもアルジュナ程では無いにしろ、私たちの人生にだって時には受け入れがたい苦しい状況ってあります。

その時、私は、何を基準に次に取るべき行動を選択したらよいかって話です。好き嫌い、快不快を基準にしたらいいのでしょうか?


 先生達やクリシュナの言うことはよくわかるのですが、犯罪を正当化させる (?) 理由になり得るよなぁと思ってしまうのです。

→「よくわかっていない」んですよ。確かに、ちゃんと資質のある先生の解説とともに学ばないければ、ギータ―が犯罪を正当化する理由になってしまいます。だからこそ、きちんと学んでいただきたい。700節、長い道のりですけどね。一緒にどうですか?


人殺しや自死が「悪」というのは、今私たちにある倫理での話だし (動物には良いも悪いも無いですもんね)、神からしたら命が失われるのはどんな風に失われたとしても、ただの事象でしかないのですよね。

善悪でジャッジしようと考えるから混乱するのでしょうけど、やっぱりモヤモヤします~。

そこを超えた次元にいかなきゃなんですよね。。。

→人間が十人いたら十通りの「悪」があるんですよ。それぞれの立場の正義がある。動物にだって動物の立場ですべきことがあるし役割もある。人間のいう正義は絶対的な次元の話ではなく、相対的な次元の話ってことです。

一般的(=相対的)な視点でお話しますが、国によっても善悪は違いますよね。インドの大抵の場所で女の人がふくらはぎなんて見せていたら悪です。でもゴアでは女性がふくらはぎを露出しています。ヒンドゥー・ムスリムの非常識が、クリスチャンの常識だからです。リシケシで日本人の女性がドゥパタを着用しないでウロチョロしていますが、インドの非常識が日本では常識だからです。

ヴェーダーンタというのは、そういう相対的な次元(=それぞれの立場)の話ではなく、普遍的、絶対的な価値の話なので、それを混同をしないクリアーな知性を得るための、いろんなサーダナが細かく聖典に示されています。


普遍的な視点を持つことは、人生における良き衝撃吸収システムとなります。愛着あるものを失った時に、悲しみは悲しみとしてあるけれど、それでも寿命尽きるまで生きて自分に残された時間を、本質の追求に邁進する強さを与えてくれます。


ということで、こんな感じでよかったかな?またクラスでお会いしましょう!


長々と失礼いたしました。

お勉強したい方は先生を紹介できますので声かけてね。

写真は近所の空。


 

2020年10月6日火曜日

超久々☆みんなのQとシータのA「頭で立つポーズ」

 みなさま、ごきげんよう!

「これでもか」という暑さも去って、まだまだ寒くもなく、窓を開ければ金木犀の香り。ただのいつもの空気なのにね、香水みたい。

ああ、体に優しい、気持ちいい。

なーんてね。実は夏も同じようなこと考えてたけど。

少し遅れてついてくるワンピースの裾がねえ、
足に纏わりつくリズムが気持ちいいんだわ。
汗のぺたぺたですら気持ちいい~!

・・・ってな具合。

ま、どんな季節だって、気持ちいいってことだ。最高だ。

お気に入りの衣を纏って、ふらり路地に踊り出ようではありませんか。


マイペースに拍車がかかったシータマンです。
8年ぶりくらいにインスタグラムにログインしてみたら出来た。
消えないもんだ、アカウント。

こっちも何年振りだ、「みんなのQとシータのA」行ってみよーっ!

神奈川県にお住まいのYさんからのお便り。

質問:「他のポーズより、シールシャアサナをしたら心臓のあたりがスッキリするのは、なぜだろうと思います。先生の見解を聞かせてもらえると嬉しいです。」

さすがYさん。お目が高い!

机上の空論ではなくてね、こうやって、自分の身体で理解していくってことですよ。このような疑問を聞かせてもらえると、シータマンも嬉しいです。

ということで今日はヘッドスタンドのお話しです。

ここで10年以上前に行った、逆転系のポーズのワークショップの時に使ったイラストを見ていただきましょう。この紙芝居、今も私のもとで出番を待っとります(笑)。



ここに血圧が「上120-下100」の人がいます。
血圧ってのは、だいたい心臓のあたりの数値ですね。

イラストの右側を見ていただきたい。

頭の足の横にもそれぞれ数が書いてありますね。
この通りの数値になりますってことではなくて、アベレージっていうか、大体こんな感じよっていう例えです。

血圧、頭の方が低く、地面に近い方が高くなってるの分かりますか?
なんで、こうなるんでしょう?

地球の重力のおかげで、血液が地球の中心に向かって引っ張られるので、立っている時は足の方に血が下がるわけですね。

でも、血液っていうのは、下がったままにして置けない。ちゃんと全身を循環させないと。

底に溜まろうとする血液を汲み上げているのが、心臓というポンプです。

だいたい、体の四分の三くらいは心臓より下に位置してますからね。

重力に反して汲み上げるんですから、ポンプの圧力が高くしないとね、昇ってきませんよ、血液。

心臓なんて、いや、ほんと大変ですよ。24時間365日、生まれてから死ぬまで働きづくめ。

たまには心臓の負担を軽くしてあげたい。どうすればいいか。

じゃんっ!


逆さにしてあげればいいんです。


直立時に心臓より下にある部分を、心臓より高いと位置に持ってくれば、血液は重力の助けを借りて、勝手に心臓に戻ってきます。

その間、心臓は休めるのよね。

同じように右半分の数値を見て下さいね。

足の横の血圧が低いということは、重力がポンプを助けているってことに他なりません。


Yさんのおっしゃるように、心臓がスッキリするわけです。

休まっちゃうもん。束の間の休息ですよ。

きっと心臓は、Yさんに感謝してると思いますよ~。


ここで、気をつけなくてはいけないのが、頭。

逆さまになることによって、自動的に頭部にかかる圧は高まります。

このイラストの人は、まあ平均的な血圧の人だから問題ないけれど、もともと血圧の高い人だったら?

頭の血管にかかる圧力は相当の物になりますよ。

緑内障など、眼圧の高い人も要注意です。


先生達に置かれましては、この点をきちんと生徒さんに確認して下さいね。

ということで、超お久しぶりの、Q&Aコーナーでしたー!

質問はいつでもウェルカム。お待ちしています!


ではでは、シャツの裾翻して、金木犀の空気を吸いに行ってね!


ばいちゃ!





2010年9月27日月曜日

みんなのQとしーたのA <福岡編>

 ワークショップやら引っ越しやらで、すっかりご無沙汰しました。立て続けにブログを更新していくことになりそうですが、そこんとこヨロシク(永吉風)。福岡でのWSから帰ってきましたよ。良いところだった~福岡。暮らし易いというんでしょうか、大都会なのに自然が身近。衣食住全てがセンス良く味良く、お手頃価格。必要な(良質なもの)が身近に手に入り、小回りが利く。住みたい町候補にトップ3に躍り出ましたね~。それから麺がうまい!この豪華野菜天ぶっかけうどん、なんと650円ですよ。Kumari先生御用達の和助



 9月25日のワークショップは、そんな素敵シティ福岡から、さらに山口県や宮崎県からもお越し下さった皆さんと、アットホームかつ、真剣、マニアックな会となりました。TTCの時に伝えるような小難しい話に、居眠りもせずノートをとりながら耳を傾けて下さって、感謝しています。講義はアンタッカラナについてでしたが、それとは別に、皆さんの素朴な疑問に関するオシャベリも楽しい時間でした。というわけで久々に「みんなのQ」、いってみよ~!すごく長いので、お勉強の好きな方は、読んでみてください。



Q. ①時代とともに科学も栄養学も発達しました。何千年も前のヨガ菜食が現代人に沿うとは限らないのでは?②ヨガで欲望を全部なくしたら、子供が出来なくなって、人類が滅んでしまうのでは?

A.ふたつの疑問をからめてお答えしますが、ヨガは万人にとって有効な知識であり、また万人にとって有効な知識をまたヨガと呼びますが、全ての人が同じ道を選ぶということではないんです。インドでは四つのアーシュラマというのがあります。四住期って聞いたことありません?それです。


 学生期(brahmacarya) - 先生のもとでヴェーダを学ぶ時期
 家住期(gārhasthya) - 家庭で子をもうけ一家の祭式を主宰する
 林棲期(vānaprastha) - 森林に隠棲して修行する時期
 遊行期(samnyāsa)-一定の住所をもたず乞食遊行する時期


 生まれてから年をとって死ぬまでに、この段階を経ていきます。家住期に子供を育て、林棲期とはいわゆる御隠居ですよね。でも、若くしてスキップして第三・四期に突入しちゃう人も稀にいる。なぜか?この人生でやらなきゃいけないこと、として与えられた課題が、人それぞれに違う、からです。その各々の課題をスヴァダルマといいます。スヴァダルマからは、誰も逃れることは出来ません。TTC卒の方は思いだして下さい。GITAに書かれています。

 同じように、インドの暮らしには、四つのヴァルナといわれる階級があります。これがを西洋の合理主義的視点で捉えられ、カーストと呼ばれるようになるのですが、ここでいうヴァルナというのはカーストの言葉から連想するような「強いものが利益を独占するために制定した階級差別」ではありません。


 ブラフミン=神聖な職に就いたり、儀式を行う。
 クシャトリヤ=王族など武力や政治力を持つ。
 ヴァイシャ=商業や製造業などに就く。
 シュードラ=下働きなどの仕事に就く。


 この辺は皆さん聞いたことあるかと思います。どの階級に生まれるか、それはスヴァダルマです。子供を持つ前に出家してしまうのもスヴァダルマ。さらに人間には段階的な四つの欲求というか人生目標があります。


 アルタ=安全や安心を得る。
 カーマ=喜びや楽しみを得る。
 ダルマ=秩序を得る。
 モークシャ=解脱。


 ボロボロの衣キレをまとった私を想像して下さい。飢えて住む家もない。そんなSitaが最初に欲しいのは空腹を満たす少しの飯と、寒さを凌げる屋根と衣服(アルタ)。それらが安定的に確保されると「味のヴァリエーションとしてふりかけが欲しいな、美味しいと噂の店に行ってみたいな」「もっと着心地の良い服が欲しいな」(カーマ)、欲望を満たし楽しい暮らしなのに、何かが足りない。宇宙の規律と調和して暮らすことを、生きる指針にしたいな(ダルマ)。飢え死にそうな時に、「永谷園のおとなのふりかけ、焼鮭味が無いなら食えん」とか言う人はいないでしょ?やっぱり段階的なんですね。


 それでも尚、何かが足りない、私は私自身の正体を知りたい!ダルマ以前の全ての欲求が、who I am を追及したい欲望に吸収されたとき、我々はヨーガを生きる人になります。ここら辺は皆さんご存じでしょう。そして実はヴァイシャとは


ブラフミン(モークシャを追及する。)
クシャトリヤ(アルタ、カーマを得、ダルマを守ることで、ブラフミンの追及活動をサポートする)
ヴァイシャ(アルタ・カーマを得、他にもそれらを供給することで、クシャトリヤとブラフミンの活動をサポートする。)
シュードラ(ヴァイシャ、クシャトリヤ、ブラフミンの活動をサポートする。)

 これはつまり、ピラミッド型押し上げ式のモークシャサポートシステム社会。何度も生まれて、その都度スヴァダルマを一生懸命まっとうして、次に生れる時には進級して、いつかはモークシャを得る。それを社会全体で支えるのがインドの社会構造なのですね~。かなり気の長い話なので、西洋的合理主義的見地からはちょっと理解しがたいと思います。


 ようやく結論なんですが、アルタ・カーマを満たし、感覚や肉体を喜ばせる為の食事ということでしたら、時代とともに変遷していくでしょう。しかし、ヨガで説く菜食=モークシャの為の食事です。時代を経て価値が変わるというものでもありません。主にブラフミンの方々が菜食を厳格に守っていますが、四つのヴァルナのように、色々な役割の人がいて支えてこそ、社会全体が成り立っているのです。


 出家僧には出家僧の、ママにはママの、弁護士さんには弁護士さんのスヴァダルマがある。みんなが同時に欲望を放棄すると仮定したら、ご質問の通り、人類は滅びるかも。でも、考えてみて?全人類が同時に小学校を卒業するなんてことは、ありえない。小学校を6年かけて卒業するみたいに順繰りに、先輩を送りだし、自分もまた時間をかけて卒業していくんですね。後輩は先輩を応援し、先輩は後輩に道を示す。その連鎖。多くの他者の助けがあってこそ、ということを忘れてはいけませんね。常に全体を見て感謝したい。

 欲望を落とすというのは、段階を経て、いろいろな次元において欲望の対象が変わっていくということです。それを成長と呼ぶ。いつかはモークシャへの欲望が1stプライオリティーに躍り出るのかも知れません。


最後に福岡のスーパーマーケットからのメッセージをば。
旬命!さんきゅーっ!

2010年2月26日金曜日

バンダの補足


 先日、バンダのことを書いたけど、最近、世間一般(?)でよく使われている「バンダ」という言葉は、アシュタンガヴィンヤサヨガの用語として「バンダ」なのかな?・・・とふと思いまして・・・・。
.
 私としては、アシュタンガ~のクラスで合言葉のように飛び交うこの言葉は、バンダ状態完成への行程まで含めて、そう称されてるような感覚があります。先日の記事で述べたのは、これとは違ってまじバンダ(本気と書いて「まじ」と読むぜ!)・・・クンバカを伴ってLockがこう着している状態・・・・についてですので、紛らわしくならないように補足でした。
.
 良きにつけ悪しきにつけ、商業メディアの発達で言葉ばかりが先行する時代ですからね・・・。耳年増になるよりは、まあ、先生との信頼関係の中で教わるのがいいと思います。先生に、出会うも縁、出会わぬ縁ですが、まあそれはカルマということで・・・・。
.
 こないだのも、し~たらん&ばでぃが、様々な経緯を経て培った「相互」信頼の中でのやりとり。言葉で伝えるのには限界があるので、閑話休題、これにてバンダ(閉じる)♪。

し~たらん

2010年2月21日日曜日

ばでぃのQとしーたらんのA


Q.ひとつききたいんだけどさー、なんでバンダやったえらいけないの?エネルギーあがりすぎちゃうとか危険とか、もっともらしい言い分あるけどバンダってそんなに危険か?先生とやってるんだししかもバンダしめなかったらプラナヤマの意味ないんじゃないの。穴の開いたバケツに水をためるような。

A.昔むかし、奥多摩の河原に、シータラン(Sitaram、私の仇名)が住んでいました。とても貧しいシータランは、ある冬の晩に考えました。

「寒いから、電気ストーブを使いたいなあ。ちょっと上流せき止めて、発電でもするか。ついでに余った電力売って儲けちゃう?」

作り方の理屈は本で読んだので分かってます。

「とりあえず、川をせき止めて、奥多摩湖作って、水が溜まったら水門開けて、爆発的な水流で電気を起こすっしょ。」

シータランは、たった三日の突貫工事で川をせき止め、奥多摩湖をつくりました。すると、折良く雨が降り始め、あっという間に水が溜まりました。

「イエーイ!天の恵み!」
よろこぶシータラン。 しかし・・・さすが手抜き工事のダムは、爆音とともに決壊してしまいます。果たして水は勢いよく流れ落ち、河川敷のシータランの家も、畑も、シータラン本人も、全部壊れて、流されてしまいましたとさ。おしまい。

・・・・というようにですね、バンダをダムに例える・・・

 川(ナディ)を流れている水(シャクティ)をダム(バンダ)でせき止めると、静かそうに見える湖の中に、実に巨大なパワーが集積されます。この集積したパワーを使って、発電をするのがダムでしょ。でも、設備(3ボディ)がショボかったら、フィジカルボディが壊れるか、アストラルボディつまりメンタルが壊れるか、一番面倒なのは、コーサルボディが壊れることでしょうね。

 最近、私の所に来る人でも「あれ?」っていう場合がけっこうある。でも、この領域のことって、正直、私には良く分かんないのよ。微細すぎて、私にはまだ捉えられない。不調をきたしても、具体的にどうやって調整すればいいか、今後、それを捉えられるかも、わからない。でも、バンダの影響は、充分にコーサルにも及ぶと思うよ。

 まあ一人で三日でダム作れば、壊れて当たり前よね。三匹の子ブタの、藁の家みたいに、ちゃちゃっと作って、風で吹き飛ばされた~みたいな。苦労してもいいから時間をかけて、レンガのお家を作りなさいねってことだと思うな。

(この話は、私なんかより、電気の人が詳しいはず。昔、チューニングメーターのアダプターが見当たらなくて、その辺にあった物で代用したら、チューナーから煙出てきて、ボンって壊れちゃった。ベースをギターアンプに繋いで弾きまくって、たびたびアンプも壊しましたね。それとおんなじよ。人間にも感電死とかってあるけど、「流せる電流の最大値」を超えた電流が流れたら、そのアンプやスピーカーは壊れる運命なの。その体、100A、100Vオッケー用ですか~?ってこと。電気の人に聞いてみそ♪)

こんな感じでど~お?
しーたらんより

2010年2月5日金曜日

だれかのQとグルデヴのA




 グルデヴとは、Swami Sivananda Saraswati Gurudev のことです。日本語の訳を、思いきって現代語にしてみました。分かりやすいように。

Q. What are the two inner enemies that stand in the way of developing Bhakti?
A. Lust and anger.

Q.神への献身の妨げとなる、内なる二つの敵とは、何ですか?
A. 強い欲望と怒り。

Q. What are the ten vices that follow lust.
A. Love hunting, gambling, sleeping in the day time, slandering, company with bad women, drinking, singing love songs, dancing, music of a vulgar nature and aimless wondering about.

Q. 欲望につきまとう10の悪い行いとは何でしょう?
A. ナンパ、賭け事、昼間の惰眠、誹謗中傷、悪い女性とつるむこと、飲酒、ラブソングを歌うこと、踊ること、野卑な音楽、無駄な心配事。

Q.What are the eight kinds of vices that accompany anger?
A. Injustice, rashness, persecution, jealousy, captiousness, cheating (taking posession of other's property) harsh words and cruelty.

Q. それでは怒りに付随する8つの悪行とは?
A. 不正、軽率、迫害、嫉妬、他人の粗探し、詐欺(人の所有物を騙し取ること)、暴言、無慈悲。

 キビシーッ!特に欲望に付随する悪行は、殆どの方がノーマークだったのではないでしょうか?でもこれが行者の世界なんですよね。悪い女性とつるむ、というのは、質問者が男性だったということで、つまり「悪い異性とつるむ」、不純異性交遊・・・・あれ、死語かな・・・?女子などは「だめんずうぉ~か~」してる場合ではないと・・・これも死語? でも、言われてみればその通りです。

 さて、バクティの障害として列挙される一連の言葉は全て、エネルギー的に見ると、それが低い方へ、粗大な方へ流れている状態を表しています。そのエネルギーを極限まで微細で純粋な方向に持っていきたいわけです。初歩の段階では、エネルギーのコントロールトレーニングとしてハタヨガがありますね。行者になるも良し、家庭を育む者になるも良し。どちらも同じように厳しく、また尊い道ですから。

最後に、ゴータマブッダ=お釈迦様の「lust」に関するエピソードを・・・

ある日、弟子がブッダに尋ねました。
「先生、修行に集中したいのに、女性を見ると、その柔らかな美に心惹かれ、胸が高鳴ってしまうのです。どうしたら良いのでしょう?」
ブッダは答えました。

「見るな。」

バッサーッ!! 痛快、一刀両断。正しいな。やっぱり、何度聞いても、何度話しても、好きなんです、この話が。

2010年1月24日日曜日

みんなのQとしーたのA


久々の、こちらQ&Aトークです。今日のトピックは「ヨガとヨガの先生になること」について。東京のSYVCでも毎月TTCの説明会をする計画があるのと、このところ同じような相談を、実にたくさん受けるのとで、タイミングかなって思い掲載する次第。例によって長いですから、スルーしちゃって下さーい。


Q.「ヨガをしたい」という気持ちと「ヨガの指導者になりたい」という気持ちは、相容れない、両立しないものなのでしょうか。

A.答えは、ズバリ、「必ず相容れるとも限りません」。「相容れない前提の上で、絶対に相容れないとも言えない」・・・って感じが適当かも知れない。先生になることによって、自身の修行に重石というか制限がかかってくるってことも実際にありますから、時に歯痒いものです。でも、今は、多くの人が、先生になりたくてヨガをしている時代なのかな・・・?


Q. TTCのことをA先生と話しました。 前は、TTCに行くのが一番いいとおっしゃっていたのに、 なぜか先日は、TTCに行かなくてもかまわない、 自分が一生懸命ヨガをしていれば、自然と人々が集まってくる、と。すでに、指導者を目指したい、だからTTCにも行きたいということは伝えてるんですが・・・。


A.TTCが全てではないですし、ヨガでは何がよくないって、「何かに執着しすぎることがよくないよ」っていう教えなので、A先生はそのあたりの中庸をとろうとしてるんじゃないかしら・・・。でも真意の程は本人に聞いてみないとわからないんですけどね。

 私の場合どうだったかというと・・・、モチベーションが低いっていうか、ぼーっとしていて野望が無いっていうか、そういうタイプなので、ヨガの先生になりたいって欲したことが無いのです。ただ流れに乗っているうちにこうなってしまった訳で・・・あんまり参考にならないですよね・・・。ミュージシャンとか、お嫁さん等になりたかったんだけどな・・・。前にお話ししたかもしれないけど。

 以下がカルマヨガ(ヨガの行動原則)の2大定義です。

 ①行為の結果を欲してはいけない
 ②行為しているという意識を持ってはいけない

 当てはめてみると、先生になるためにヨガをやってはいけない。私ってヨガしてるんです!という意識を持ってはいけない。つまり「ただやる」ってことです。地味に淡々と。これ、案外簡単なようで難しかったりします。


 実際問題、ある人に、天賦の才が備わっている場合、先生になるのにTTCは必要ないともいえます。第一、TTCを出れば自動的に良い先生になれるとも限りません。年齢にかかわらず、人間としての成熟度が必要になりますしね。

 それでもって、ヨガの先生って、見た目以上にシンドイ仕事で、私も最初は、本気で死んじゃうって思いました。なんか、エネルギーが全部外に出つくしちゃう感じだったんですよ。なんとか上手い回し方を得て今に至りますけど、一年くらいでやめていく人が、多いようです。

 ただTTCはとってもプラクティカルで楽しいですから、私はお勧めです。ヨガの生活を思いっきり満喫したい、今後の生き方に役立てたいって思ってくる方も沢山来ます。


 私事になりますが、私がこれまでの人生から教わった最大のことは「欲しいものが手に入るとは限らない」ってことなんですね。ネガティブに聞こえるかも知れないけど、そのことを知ったら(受け容れたら)生きることがとっても楽になりました。そしてロクでも無いと思っていた人生が、実は、全てがうまく転がっていることに気付いた・・・かな。辛かった出来事も、全てが今日というベストの為に用意されていたんだって・・・。

God provides for our need not for greed.

ヨガとは、欲望を超えること、そして時間を超えること。未来でも過去でもない、一瞬一瞬に満足し、楽しむために生まれてきたし、楽しめるってことが一番大事なことですから、あまり思いつめずに、日々を愛してあげて下さい。何かのタイミングが、ふと訪れる日を、密かにワクワクしつつ待つんです。先生になるかならないかは分らないけど、人生は、どんな人生でも「ベスト」なんです。いい先生になれたらいいですね。私はお祈りしています。

シータ


【まとめ】

来年のことをいうと鬼が笑うって、ことかな?あ、違うか?でもまあ、そういうことにして・・・。鬼に笑われるくらいなら、今を笑って暮らそうってことで。
だーれも足を踏み入れない荒野、ただそこで、小さくほころぶ花みたいにね。

2009年12月25日金曜日

みんなのQ&しーたのA 追記

 そうですよねぇ。「ふむふむ」なんていって本を読んでいて、突然プルシャ・プラクリティだのマハッドだの云われても、そりゃわかりませんよね。わかります、わかります、その気持ち。・・・で補足です。

Q.プルシャとプラクリティ。すみません、 まだよくわかりません。 この二つは、エネルギー、つまりプラーナであって、われわれの体の中にあるもの?生まれるもの? なのでしょうか? あれあれ?? 今日は、スワミ・シバナンダ氏著「Mind (its mystery and control)」を読んでおります。具体的にヨガの実践に役立つ部分、たとえば、食事のこと、瞑想の方法、などはわかるんですが、哲学となると、何度も行ったり来たり してます。


A.プルシャとプラクリティは、個としての人間の中身の話では無くて、全体、いわば宇宙レベルの科学説なんですよ。無という状態からどのように世界が生まれたかを分析、説明しているのです。あるいは宇宙という全体から、どの用に「個」という「性質」が発生したかという・・・。個々の性質をもつ物体や、自然、土や水や、色や音や、それから心などが発生したか・・・。だから、われらの生活レベルではまったく認識できないし、そもそも認識する必要も無いんですけどね。(・・・ってことなので、そもそも分かりにくい話ですよね~。だから分からなくっても全然、問題なしですよ。)

じゃあなぜ、スワミジがその話をわざわざするのかっていうと、心だって、たんなる自然界の科学現象物質なんだから、その正体を知っていれば、時に亡霊となって我々自身を悩ます「心」に惑わされることは無くなるよって、そういうことを証明する為だと思います。

その本は「ヨーガとこころの科学」という題で日本語訳が出ていますから、探してみてください。いい本です。

Sita

2009年12月24日木曜日

みんなのQ&しーたのA


Q. プラクリティとプルシャ、この違いはなんですか?読んでも読んでもわからないんです。

A. まず、インド科学のベースに6つのヴィジョンてのがあるんです。今日の奈良のリトリートでも少し、お話したんですが、大昔の賢者たちは、顕微鏡もレントゲンも無いのにヴィジョンとして直接そのリアリティーを悟っていたんですね。

詳しい記述は端折りますけど、1と2は原子について述べています。フィジカルな宇宙のリアリティーを説いてるんです。5と6はスピリチュアルなリアリティーを説いており、ここいらが(特に6が)インド思想の目指すところなんですが、粗大から微細へテーマが移行しているわけです。

で、問題は中間の3と4。これらは言ってみれば、アストラルな領域についてのリアリティーを科学したものなんですが、私たちの目線から言うと、つまり心というものをどの様に制御するかという話題です。4は御存じのYOGAですね。そして3がSANKYHAといって、プルシャとプラクリティの二元論が主に述べられているのはここです。

YOGAを含むこのインド思想の流れの行きつきたい処、結論は最終的に6の一元論なのですが、「全ては一つ」であるということを伝えるために、まず方便として二元論があるわけです。

以上小難しくて分かりにくいと思いますが、背景としてお伝えしただけですので、軽く流しといてくださいね。


で、プルシャ、プラクリティです。

簡単にいうと語弊があるかもしれないけど、このサンキャっていうのは、フィジカル~アストラルな宇宙がどの様に発生したかを定義しています。それによれば(私なりの言葉を使うと)、初めにプルシャ(静的エネルギー)とプラクリティ(動的エネルギー)の二極があって、これらが互いに作用しあうことによって、本来、完全であり安定した世界に揺れ(?)が生じ、様々な属性、性質が発生していく、という定義になります。

プルシャ(見る者)プラクリティ―(見られるもの)とか言いますけど、静観するエネルギー&創造するエネルギーとでも言いましょうか。それぞれは、単体では何も起こしません。

またもや乱暴な例え話をしますが、足が不自由で歩けないけど目が見える人と、歩けるけれど盲目の人がいますね。それぞれ、銀座に行きたいけど、二人とも個人では行けない。一方は、歩けないから進めないし、一方は、見えないから道を行けない。何も起こりません。


でも二人が出会って、盲目の人が足の不自由な人をおぶったらどうでしょう。目の見える方が、方向を指示し、歩ける方が、銀座に向かって歩けば、ことが起こるわけですよね。

こういう風にして、ことが起こって、初めて世界に色や匂いがついて、あるいは音が発生して、形が現れて、性質が出来てくるよ、ってことです。プルシャとプラクリティっていうのは、相対的に見たら、そういうことかな。でも二つは一つなんですよ。おんぶの二人みたいに。簡単に言うとこんなとこかな。

いつかどこかでお会いできたら、じっくりサシで説明したいです~。うずうず。

良いクリスマスをお過ごしくださいね。


Sita

2009年11月23日月曜日

みんなのQ&しーたのA


Q. 地元の先生が、断食するなら、その前後の食事も気をつけなさい。そうすれば、3日どころかもっと断食しても大丈夫と言われるんです。日本語で、もうちょっと詳しく教えていただけませんか?


A.そういえば、断食の後の食事の復活についてお伝え忘れてました。確かにこれは、とっても大事なことでした~。私の場合、一週間の断食をしたら、まったく前と同じ食事に戻すのに3週間くらいかかります。

 基本的に食べなかった期間が長ければ長いほど、復食にかかる時間も相乗的に長くなる、と考えて下さい。胃腸がとってもピュアになってるからです。赤ちゃんに与える食べ物を、ミルクから離乳食、固形物と段階的に変えていく、あの感覚です。ミルクを飲んでいる赤ちゃんにスルメを食べさせたら、結構大変なことになってお医者さんに駆け込むことになる筈ですが、それと同じ・・・と考えると、イメージしやすいかも。実際に、断食道場を抜け出して町になにか食べにいったら死んじゃったって話も聞きますし・・・。こわいです・・・。

 でも、一日くらいの断食なら、心配いりません。例えば、





「断食の翌朝は野菜スープとか、おかゆ。ランチは温野菜中心に軽めの食事など、ディナーで普通のご飯に戻す(ただし焼肉とかはダメですよ。消化に良いもので野菜中心に。)で、翌々日からいつも通り・・・」



こんな感じで全然問題ありません。

しかも、フルーツや生ジュースを使っての断食なら、より安全ですしね。ただし復食の日だけは、アルコールやコーヒー・唐辛子などの刺激物を控える。そして、よく噛む。一口を30も40回も噛みしめる。


 もし、3日とか1週間程度なら、食べなかった期間と同じ時間から2倍、3倍くらいの時間をかけて戻すって感じですね。だけど、最初は、どなたかの指導のもとで断食することをお勧めします。

 断食の真意は復食にあるんじゃないかなって思います。「食べなかったらスッキリした。痩せた。なんか達成感!はい終了」ではなく、日頃の悪い食習慣を是正することが目的というのかな・・・。


 
 時々短い断食をして、その度に復食に気をつけていけば、自然と食が整ってきて、ゆっくり噛む習慣がつくし、食べ物のありがたさを知るし、いずれ、断食の必要もないくらい、いい腸内環境になるんじゃないかな。燃え残しをつくらない体。

 ちょっと前から「食育」の必要性が論じられてるけど、断食とは「大人の為の自分食育」がなのかも知れませんね。とにかく食べることに感謝する為に断食してるってことですね。

シータより

2009年11月14日土曜日

みんなのQ&しーたのA 「断食&瞑想」



 これはどうしたことか、世界的に質問日和なのでしょうか?今日はうれしい質問がわんさか舞い込んでるので、ノリにノッてどんどん行きます。断食と、瞑想について。またも回答が長いので興味のある方は、参考にして下さい。

Q1.先週一日断食をしたのですが、翌朝、低血糖だったのか、吐き気で目が覚めて、あわてて飴をなめてしのぎました。そのあと、ひどい下痢も。ただ、午後からは気分も前よりすっきりしたので、できればまた断食をしたいのです。

A1.質問ありがとうございました。普段自分ではスルーしてしまっている課題与えて下さるので、皆さんからの宿題は私にとって本当に為になります。

 断食はいいですよね。でも最初のうちは好転反応などで、しんどい場合があります。私は年に一度、一週間の断食を4年ほど続けていましたが、昨年と今年は定住型の生活では無かったので、スキップしてしまいました。完全にものを食べない断食を長くするには、旦那様や周囲の方の理解と協力が必要ですが、精神修業というより肉体的な効果を目的としているならば、一日断食からでも十分効果があると思います。意外と身近で気軽なものなんです。

 そもそも我々が定期的に食事を取っている限り、胃腸が完全に空になる時間はありません。食事を抜くことで、働き者の胃腸に有給休暇を与えます。そうすると翌日からもっと仕事の能率を上げてくれるでしょう。「私」は「内臓」の上司になるわけですね。でこの人材を上手に使う・・・。最初はフルーツジュースなどを使って血糖値を下げない方法を取るのが安全でしょう。果物にはそれ自体に酵素が入っているので、胃で酵素を分泌する必要がなく、体内の毒素排出効果をさらに高めてくれます。

①パック売りのものは酵素が死んでいるので、自分でフレッシュジュースを作ること。
②消化の過程をよりシンプルにするため、果物のチョイスは単品で。
③断食中は普段より多く水分を取る。喉が渇く前に、白湯もしくはハーブティーを飲みます。
④ミネラル補給の為に、適宜に天然塩を舐めるといいですね。

低血糖もバカにできません。クラっときて思わぬ事故を引き起こしてはつまらないですから。
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Q2. 瞑想について、Alain先生(※Sitaの友達)のクラスで学んでいます。英語で学んでいるせいか、すっと頭に入りません。何かよい方法は ないでしょうか? 日本語の本も一冊購入したのですが、やっぱり難しい。というか、瞑想は本来難しいもので、何年も学んで経験しないと理解できないものなのでしょうか?

A2. 瞑想というのは「状態」のことで、だれにでも到達出来るステイトです。意識の水面が鏡のように澄み渡った状態とでも言いましょうか。どこでもいいから座って、呼吸を整えて、この状態を味わえばいいのです。ただ、これには慣れが必要。というのは、「心」というものは「エネルギーの動き」であって、その最大の性質は「out goingを好む」ってことだからです。しかも、若ければ若いほど、心の速度は速い。なので、これをそっと、なるべく水面を荒立てないよう、一定の場所に留めてしまいます。「心」は「物」ではなく「モーション」ですから、動かなければそれは無いも同然。その為に初期の段階向けのテクニックがあります。いくつか紹介しますね。

①静かな清浄な場所を選ぶ。心が興味を示しそうな物をあらかじめ遠ざけておこうってことです。
②呼吸を深くて粗い呼吸から、徐々に細くて長くて静かな呼吸にしていく。脳をわずかながら低酸素状態にし心の速度を抑えるため。
③で、なにか集中するものを作る。
a. 目を開ける場合、神聖な絵などを静かに眺め、それに集中し続ける。
b. 以下、目を閉じる場合、神聖な姿を思い浮かべ、それに集中し続ける。
c. 静かな呼吸の音に集中、またはOMマントラの繰り返しをイメージして、それに集中し続ける。

 あとは自然に、静けさが訪れます。(※私はよくこう言うのですが「静寂の音を聴く」のです。言葉としては矛盾してるので完全にマイ造語なんですけど、近いんじゃないかな。) 

 集中し続けると簡単に言ってしまったけど、これが難しいんですよね。しかも、この集中は力づくであってはイケナイのです。そこで、心の動きの状態を、映画でも見るように客観的に眺める、という姿勢をとります。あ、どっか行っちゃったよ、と思ったら、そっと連れ戻す。こんな例えはどうでしょう?

 外は雪。でも曇るガラス窓が、お部屋の充分な暖かさを物語っています。とっても安心で幸せなひと時、赤ちゃんと一緒に、ふかふかの床に座ってるとしましょう。赤ちゃんは環境に慣れてくると、お母さんを離れてハイハイし始めます。

  あ、なんだか暖炉に興味を示したみたい。そちらに向かって這い始めました。そこでお母さんは「あっ、そっち行ったらダメだって言ってるだろ~がっ!」、赤ちゃんをガバッと手繰って連れ戻します・・・か?これでは赤ちゃん怖がって大泣き、お母さんはイライラ。「そっちは、あっちっちだから、だめよ~」と言って、お母さんは赤ちゃんをそっと抱き上げ、自分のもとに連れ戻す。これが正解です。赤ちゃんをそっと連れ戻すように、心を連れ戻して下さい。無理強いせず、波風を立てない。「私」は「心」の、まるで母のような良き上司となって、この人材をたしなめていくのです。

  まずは10分からでもOKです。一人になれて、心が落ち着く時間を選んで下さい。主婦の皆さんですと、日曜日、旦那さんとお子さんが起きてくる前とか。そっと一人で起きだして瞑想した後は、こっそりとっておいた、リッチなチョコレートを食べながら、おいしく淹れたコーヒーを一杯、なんて最高ですよ。たとえ、思うように心が定まらなかったとしても「私ってこういうこと思ってたんだ」と自分について新たな発見があると思います。ぜひ自分を慈しむ時間を、つくってみて下さい。


いつか、お会いできたらいいですね。なんだか南国への思いが募ってきました。パソコンを閉じてセンレックトムカーガイのガイ抜き(ココナッツスープのチキンラーメン、チキン抜き)食べに行ってきます!それではお体に気をつけて、日々お励み下さい。

Sita



みんなのQ&しーたのA 「カウンターポーズ」

 

 今年1月のTTC。一か月間、私は先生の端くれとして生徒さんに直接関わりつつ、また、同時に、傍観者として遠く離れて草葉の陰から眺めてもいました。星飛雄馬のお姉さんみたいな感じです。 笑いあり、涙ありの日本人チームでしたが、ラディカは特に、天の恵み(=試練!)を沢山与えられてましたね。毎日のように熱心に質問にきていた姿が印象的でした。彼女が自力で乗り越えていく姿に、姉さんは電信柱の陰でジーンとしたものですよ。そんなラディカが質問をくれたので、長い長い回答をこちらにも転記します。本っ当~に長いので要注意。 内容はやや専門的、指導者向けなので、目が疲れちゃう方はスルーして下さい。

Q. 先日、とあるヨガのクラスに行ってきました。そこで、深い後屈をしたあとすぐに前屈や子供のポーズをするのではなく、ねじりを加えてから前屈をした方がいぃと言われました。後で、質問したところ、はりがねをずっと前後に動かしていたら、ふにゃふにゃになって折れてしまうのと一緒だと言われました。それを言われて、納得したのですが、でも・・・シバナンダヨガでは、カウンターポーズをたくさん取り入れていますよね。私は、それはそれで、腰のあたりがのびる感じがしてきもちいぃんですが、シータさんは、どう思いますか?(中略)

まだまだ新米ですが、教えていると、いろんな疑問がわいてきます。これも与えられたことと思って頑張ります。




A. Om Namah Sivaya, Radhika お元気ですか?メールありがとう。すっごくうれしいです(笑)。東京もようやく寒くなり、私は部屋で小さく丸く、天井裏のネズミは大運動会。早速、私なりの回答を・・・。

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 シヴァナンダのシーケンスでは、しつこいバックベンド群の「かえし」(カウンターポーズ)として何をしてたっけ?ねじりのポーズだったよね。その後バランスのポーズを経て、立ち前屈をする。まさに「深い後屈をしたあとすぐに前屈や子供のポーズをするのではなく、ねじりを加えてから前屈」をしているわけです。このシーケンスは、解剖学的な見地よりもむしろ、ナディとクンダリーニに着目した流れだと思うのですが、解剖学的にもしっかり理に適ってしまっている。ほんと昔(!)のヨガって良く出来てると思います(怖いくらい)。ちなみに、後屈のあとでは必ず休憩のポーズ(うつ伏せなのでマカラアーサナ)で背骨をニュートラルに戻して次へ行くのもポイント。

 針金をグネグネやっていると、ある瞬間にポキッと折れる、これを金属疲労というのですが、人間の骨にも、これに似た疲労骨折というトラブルがあります。カウンターポーズでイキナリ疲労骨折した!という話はあまりないので(※背骨は関節が多いし・・・)、先生の針金のお話は、あくまでも例えだとは思うんだけど、いきなりのカウンターポーズは、確かに危険だと私も思っています。だからこそ、シヴァナンダヨガではアーサナごとに、シャバアーサナ、マカラアーサナなどの休憩ポーズを入れて、それから次のポーズに移行するわけです。また休憩ポーズでリカヴァーしたいのは、心臓や呼吸器よりはむしろ、筋肉・骨そして腱などです。(※太陽礼拝の後は逆に主に循環器系フォーカス。)

 例えばマッツィアーサナのあと、間髪入れずに頭を起こして首を伸ばす・・・なんてのは危険ですね。そのカウンターポーズをしたいなら、まずシャバアーサナで首を元の状態に戻してから行う。0 to 10 guradually が鉄則です。 -10 to +10 directly なんてのは絶対に絶対にタブー。

 これら休憩ポーズは皆が思っている以上に、すっごく大事。この私の暑苦しい思いを何とか伝えたい・・・、というわけで、すご~く変な例えをしますが・・・

 大阪を拠点に新幹線で日本横断旅行をしましょう。大阪⇔東京間、大阪⇔福岡間をそれぞれ仮に500kmとします。まず大阪から東京まで3時間かけて行きました。次は福岡に行きたいんだけど、東京から福岡までは3時間で行けないのよね。3時間かけて大阪に戻ってから、さらに3時間かけて福岡に行くしかない。

 普通の首の状態を「大阪」として、ハラアーサナで首を90度前屈した状態が「東京」、マッツィアーサナで首を90度後屈させた状態が「福岡」です。東京から福岡には、そう、直接行けないの。距離だけではなく時間のすっ飛ばしも出来ない。なぜなら肉体は未だ「時間と空間のある世界」に存在している為、否応なくその制限を受けるから。その時空の法則を無視することは出来ません。

 あるアーサナで腱や筋肉をうんと伸ばした(または縮めた)として、それら組織は、次の0.1秒で一気にカウンターポーズまで行けるでょうか?答えはNO。カウンターどころかニュートラルに戻ることすら不可能のはずです。これは昨日の三日月が、今日いきなり満月になることが無いのと同じくらいの定説。私達が肉体を持って生れてきたということは、その肉体を空間(物理)的・時間的な制限のもとに置くということ意味します。(だからこそ叡智をもって意識を確かなものとし、逆に、これら制限から自由であることの意味を知ることが出来るのよね。)

 ポーズとポーズの間のシャバアーサナ(またはマカラアーサナ)では時間・空間に完全に身を委ねましょう。そして体の声を聞いてみましょう。そこで骨格が、腱が、筋肉が、果ては内臓までもが「みよ~ん」と動いて「じわ~ん」と元の状態に戻って来るのをしっかり観察します。ポーズが深ければ深かったほど、この効果はハッキリと味わえるよ。新幹線でいうと移動距離が大きいってことだから顕著なのです。そして驚きなのは「元の状態」どころか、「さっきよりもっと良い状態」に戻ってくること。「えっ、体って凄い!」って思う。ちゃんと本来あるべき姿を知ってるんだね(これに比べたら頭って意外とバカかも・・・)。

 さて、これが味わえたら次のステップへ。この効果に必要な時間は個々の体の質によって違うので、クラスでは生徒さんそれぞれの気をしっかり読むこと。私は必要に応じて「〇〇さんはまだ休み!」と個別に指示したりもします。とはいえポーズの間のシャバアーサナは長くても2分まで。長すぎると温まった身体が冷めて、不活性な状態に戻ってしまいます。

 それからお母さんの腰痛だけど、後屈の時に腰椎ばかり反っている可能性が高いのかも知れません。後屈では全ての脊椎が同じピッチで反ることが望ましい。でも、腰椎は大きくて大雑把だから角度を稼ぎやすいの。特に仙骨と腸骨の間の関節が緩むと骨盤が前傾し、すでに腰だけ反った状態になってしまいます。この仙腸関節は大腿骨が内旋した時に緩むので、コブラの時にお母さんを盗み見て下さい。かかとが開いて、両足ホッタラカシ君になってないかチェック。開いてたら「かかと閉じる、ひざも閉じる」で割り箸のような足にするように。これで腰の不要な反りがブロックされ胸を開きやすくなります。仙骨の上をギューッとマッサージされているような圧力を感じたらビンゴなんだけど、この圧力がまた気持ちいいのよ。コブラは本来、腰痛予防に最高なポーズですが、やり方を間違えると腰痛になるので注意。
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  ちなみに両手は上体をリフトアップする為にあるのではなく、背骨を前方に引き延ばし、椎間に隙間をつくるサポート役ってこともお忘れなく。掌でマットを腰の方にひっぱるようにしながら、背筋を使って上体を巻き上げていきます。絶対に反りより伸び優先。とにかく背骨の距離を稼いで、背骨の中に新幹線的スピードを感じて(どの方向に走っているかは分かるよね?)ありえないくらい長い背骨になりましょう。

  とても良い質問をありがとうね。疑問を持つといのは、指導者の成長にとって大変重要なこと。それを思いやりに繋げていくのです。生徒さんに無駄な怪我をさせる機会を少しでも減らすように。教科書などの少ない情報をそのまま出力してれば先生としてOKかというと、そうは問屋が卸さないのよね。実際のところ、自分が経験したことしか生徒さんには伝わらないからです。体験ではダメだよ。経験しないとダメなの。消化を経て血肉となってこそなのです。だから「なんで?なんで?」のなんだろう君になってね。こんどの奈良WSでは神戸による時間が無さそうだけど、いつか絶対行きたいです(20年前に行ったっきり・・・)。
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お互いどこにいても、元気で、楽しく過ごそうね。次に会う日を楽しみにしつつ・・・。

愛をこめて
Sita

2009年10月20日火曜日

みんなのQ&しーたのA 「カパーラバティ」

 先日、私の憧れの国ラオスから、お便りをいただきました。ご縁を辿ってきて下さったことにシミジミしています。ご縁といえば、スリランカで教えていたときのこと。熱心に来てくれてた生徒さんが、香港在住時に私の学友にヨガを習っていたとのことが発覚しました。「縁とはまったく憎いぜっ!」と思いましたね~。今回、とても良い質問だったので、回答をこちらにも転機させていただきました。

Q.カバラバティのあとに、みぞおちが痛むってことはありますか? 先生曰く、それは正しくない方法でやってるからだ、と。なにかコツはあるのでしょうか? 

A. お返事すっかり遅くなってすみません。 カパラバティの後のみぞおちが痛むというお話は、時々耳にします。みぞおちの他に脇腹など、おもにヨガを始めたばかりの方に多いようです。実際にご本人にお会い出来れば、どんな感じなのか、多少はわかるのですが、お会いできないので、あくまでも推測ということで、だいたい以下のようなことになります。

 まず、初めに、どこが、どんな感じで痛むのか。或いはカパラバティの後以外でも痛むのかどうか、自問して下さい。俗に言う「なんかイヤ~な感じの痛み」であれば、まずドクターの処へ行って、診てもらいましょう。素晴らしいことに、大事なことは、みんな体が教えてくれますので、まず一番に、ご自身の体の声に耳を傾けて下さいね。
 さて、それ以外の場合ですが、(方法が正しくないというよりも)考えられる原因が幾つかあります。

①カパラバティは「腹筋の力でお腹の中身を圧縮して、横隔膜を上に押し上げることで、肺の空気を外に出す」=いわばポンプのような呼吸の方法です。横隔膜は呼吸器と消化器を分け隔ている膜状の筋肉ですが、まさにミゾオチのあたりにありますよね。普段自力で動かしていない筋肉ですから、初めのうちは、「しんどいわ~」と痛むことがあると思います。

②胃に何かのこっていた場合、あるいはもともと胃が弱かったり、調子が悪かってりする場合。
③消化器全体が、あまり強く無い場合。
④ふだん全く運動をしていなかった場合。

  内臓が圧迫され、激しく動きます。胃に消化中の物があれば、消化不良を起こして痛みますし、胃に炎症があったりする場合も炎症が激しくなる事が予測されます。また、動くことに慣れていない内臓ですと、最初はやっぱりビックリして痛みます。 ということで、食後3時間くらいは、ヨガもカパラバティも避けて下さい、と言いたいところですが、お子さんのお食事に合わせたり、いろいろおありでしょうから、まあ2時間くらい見ていただけば大丈夫だと思います。毎日でなくても、週一回でも続けていけば、丈夫で健康な内臓になりますので、その頃にはいつの間にか、痛みがあったことすら、忘れている筈。 ヨガも、暮らしも、全部、楽しんでくださいね。またお便りします。


Sita

2009年10月17日土曜日

みんなのQ&しーたのA 「禅とヨガ」

Om Namah Sivaya. 雑誌の「Yogini」さんから来たる25日のリトリートについて質問をいただきました。当日いらっしゃる方の参考になるかも・・・ということでQ&Aです。

Q. スワミジのワークショップとお茶とヨガは、どのように関わるかが知りたいんです…。なお、WSのプログラムにある茶席とは、ヨガが関係してくる内容なのかなども。ヨガはヨガ、お茶はお茶といったような内容で、分かれたものなんでしょうか?


A.ご質問ありがとうございます。 まず、私的にヨガサイドから見ると、ヨガとお茶に直接の関係はありません。しかし、日本人として、自国の文化である茶の湯のルーツをたどると、そこにはヨガがある、ということですね。 御存じとは思いますが、以下に簡単にまとめてみます。
 
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 バーラタ(昔のインドのことです)のリシ、パタンジャリは、その著書ヨーガスートラの中で、個人におけるヨーガの段階的な進化を、アシュタンガ(八支則)と呼んで説きました。 ①ヤマ(禁戒)②ニヤマ(勧戒)③アーサナ(体位法)④プラーナヤーマ(調気法)⑤プラティヤハーラ(制感) ⑥ダーラナ(集中)⑦デャーナ(静慮)⑧サマーディ(三昧)
 この八支則は、大きく分けて二部門に分かれています。前半①-⑤と、後半の⑥-⑧です。前半は、後半ためのステップであり、後半が本番ということになります。⑥-⑧は全て同じもの=瞑想のことです。即ちヨーガスートラに説かれるRaja Yogaとは、瞑想を通して悟りを得る道といえますね。さて、なぜ三つに分かれているかというと、その高度な集中の度合いを表現する為です。最高度に安定した精神状態がサマーディ-ですから、ここではサマーディがゴールということになります。厳密に言うとサマーディ-の中にも沢山の段階があるのですが、今はそれは置いておきましょう。ちなみにRaja Yogaでは、この状態をサマーディまたはカイヴァリヤと言いますが、Jnyana Yoga(ヴェーダーンタ)派は、モクシャと呼びます。名前こそいろいろありますが、目指すゴールは一つです。

  パタンジャリは、ゴータマブッダ(お釈迦様)の少なくとも100年以上は先輩といわれますが、ブッダはインド伝統の修行を修め、やがて独自の方法論で悟り、その教えは歴代の子弟を通して中国を通って日本に入ってきました。日本でも、世界的にみても、お釈迦様の教えの遍歴の一部にフォーカスした形で、様々な流派に分かれているのが現状な気がします。みなさん御存じのダルマさん=ボーディダルマ(達磨大師)が伝えたのが現在の禅宗の基盤ですよね。それはさておき、サマーディの状態とは、物事の性質というのを超えた状態なので、言葉でその性質を説明することができません。なぜなら説明すべき性質が無いからです。なんとか説明可能なのは、その一歩手前のデャーナまで。このことは、八支則の和訳を見て頂ければ分かると思います。サマーディのみが三昧(サンマイ)、つまりサンスクリットの音訳(=意味を表さず、音だけを真似た言葉)になっています。デャーナまでは、その状態を漢字の意味をもって表現されているので、漢字を読めば、どういう状態かはある理解できますよね。ちなみにデャーナは、ヒンディでは「デャーン」、中国語では「チャン」、日本語では「ゼン」。調べてみないと分からないのですが、恐らく仏典の源であるパーリ語でも近い音だと思います。古く日本人は「ゼン」の向こうに「サンマイ」を見て修行に励んだわけです。

 さて、日本には、今も昔も四季がありますから、インドのように、年がら年じゅう暑いのとは、わけが違います。日本人が、移ろいゆく季節の中で、普遍的なものに対する、並々ならぬ憧憬をもったであろうことは、想像に難くありません。仏教を通して伝わったデャーナ(ゼン)は日本独特の風土の中で、新たな道をつくっていきます。その一つが茶道です。ここで思い出していただきたいのが、「デャーナ(ゼン)という言葉は“高度に安定した精神の集中度合・状態を表わす言葉”であるということ」です。ヨガの人も、座禅の人も、茶の湯の人も、居合道の人も、言葉は違えど、同じものを見ているのです。もちろん、茶会の所作や、茶の湯の上っ面に着眼すれば、ヨガとはなんの関係ありません。しかし、茶の道を通して見据える深部はヨガそのものと言っても過言では無いわけです。

 そこで今回のワークショップは、日本人として、日本の風土の中で発展したデャーナ論「茶の湯」を通して、禅定(=静慮)を「体験」してみようではないか!という試みになります。午前中に八支則の③④を行って⑥⑦⑧の為の土台をつくり、午後は⑥⑦を体験しようということになります。さすがに、「呼吸に合わせて摺り足で歩きながら、茶筅を持って手首を回しま~す」みたいなアーサナは出来ませんから(笑)。

  また、スワミジは来日するたびに、日本のことをよく勉強してまして、前回も日光の寺社にお連れしたところ、逆にスワミジがガイドになって色々説明してくれたりして、甚だ恥ずかしい我々でして・・・。私達って日本人なのに、やれヨガだ、インドだ、バイロンベイだ、って外にばかり目を向けて、日本のこと何も知らないんですよね。

 ヨガの五千年には負けるけど、日本にも何百年も続いたデャーナの道があるじゃないか、この機に、日本を見直し、誇りをもとう・・・という思いが発端です。そして、すべてにおいて忙しい東京です。「一服のお茶をただ静かに全身全霊で味わう」、そんな時間を提供したくもありました。お茶を飲むだけだと、ただのお茶会になっちゃいますので、そこを繋いでくれるのがスワミジの講義です。アーサナ、プラーナヤーマ、茶による禅を体験したあとに「デャーナ=ゼンってどういう状態のことをいうの?ダーラナとサマーディとはどう違うの?」などお話を伺えば、どこかピンと来やすいかも知れない・・ってことです。

以上、拙い回答でしたが、ご理解いただけたら幸いです。

Sita