2017年8月30日水曜日

熱いぜ、湘南!(横須賀編)

もうすぐ9月。

8月は関東の中でも夏が似合いそうな所に連日お邪魔してきました。この二日間の生徒さんとの接触はですね、非常に大事なことを再認識させてくれましたね。実に深い意味で。


横須賀では、みんなの「ヨーガライフプランニング」というタイトルで、願望を、文字として書き出す=言葉にすることで、頭の中の整理を試みたのですが、思いのほか、沢山の方が集まって下さり、時間の関係で我ながらちょっと詰めが甘かったので、補足も含めて振り返ります。


さて、当日。

これから小難しい話をするってことがバレないよう、こんなイラストを用意していきました。ふっ・・・。「あ、今日は塗り絵か〜!」とみなを油断させる・・・もとい頭の拒否反応が起こらないよう、脳みそ騙し騙し作戦。



最初に「自分ではないもの」について説明した上で、

願望(③)を書き出していただいた。
次に、何故そう思うのか(②)を、遡って書いていただいた 。
更に、願望を実現する為に、具体的にどんな行動を取ろうか(④)、書いていただいた。

ここで詰めが甘かった点を告白すると、

何故そう思うのかの、そのまた何故そう思うのか(①)を書いてもらう時間がなくなっちゃったことですね。だいぶ駆け足になっちゃった(笑)。駆け足すぎて、皆さんの腑に落ちなかったことと思います。すみませんでした。


①から④まで番号をふってあるんですけど、実は数が大きくなるほど、具体性が強まるんですね。 逆に数が小さくなるほど、属性が減るというか抽象度が増します。

④から①に遡るにつれ、本質に近づいていく、という、そんなチャートだったんです。

だから、ライフプランニングと謳っておきながら、実は④をすれば③が叶うよ、って話ではなくて、③を望むその理由に還って行ってもらいたかったの。

で最後、全てのラインが、一箇所(図の中では女の子の手の中)に集約されるんですけど、その源とは、つまり「私」であり「しあわせ(Ananda)」なんですね。

ということでそういうチャートでした(笑)。

いろんな願望が出てきましたね。

横須賀では

・感情をコントロールしたい。
・イライラするのが嫌だから、心を平静に保ちたい。


といった願望が多かったです。
確かに、心が平静だったら、しあわせを感じやすいでしょうね。

面白かったのは、

・ヨーガをもっと知りたい、死ぬまで勉強したいと、なぜか感じる。
・ようやく長年の子育てを終えて、今、自分のことを知りたいと思う。

これには私も「へえ〜!」と思いましたね。

ヴェーダーンタにおいて、自己の本質は、Sat Cit Ananda という言葉で表されることがあるのですが、本当にCit なんだな〜っ!だからJnana Saktiなんだなあ〜って、感動しました。


そして、

詰めの甘かった点がもう一つ。

あのことをもっとハッキリ伝えておくべきだった。

この授業での私の目的は、感覚的ではない、本質的な幸福感への思考の道筋をつけることだったのですが、横道である落とし穴について、説明が不十分でした。

それは「幸福」と「優越感」は似て非なる別物であるということです。

現代社会の病巣の一つは、まさに、これらの取り違えでしょうね。

優越意識とは、すなわち劣等意識と裏表の関係にあるものです。

「私は、これこれを、こういう風にしたい!」

と思う時、その動機がどこまでいっても「理由ったってわかんないよ」「今、出来ていないからだよ」の堂々巡りの場合、優越感をしあわせだと勘違いしていることを疑ってみます。 それは劣等感の表れであり、劣等感とは「他人との比較、すなわち相対性の中に生きている」ということ。

自らのしあわせが、自らによって明らかである境地のことをヨーガというのです。

しあわせとは、相対的な価値ではない、つまり他人によって証明されるものではありません。

ましては「いいね!」の数とかでは計れませんよ。人間て斯くも無知なものなのです。



例えば、自分以外を理由としてもいいんですよ。

「これが出来たら夫が喜ぶから」でもいいんです。

ただし、更に遡って「なぜかわからないけど夫が喜んだら、私しあわせだから」に、ちゃんと着地すべきなんですよね。

「しあわせ」と「優越感」のすり替わりが起こっている場合には、まずその部分をハッキリさせておく必要があります。その為には、まず他人ばかり見ない。自分をちゃんと見る。ていうか、自分だけをちゃんと見る。そこに優も劣も無いことを理解するまで、ちゃんと。

言うは易しってやつか・・・・でも、きっと出来ます。

女を生きるんでもない。
男を生きるんでもない。
役職を生きるんでもない。
続柄を生きるんでもない。
容姿を生きるんでもない。

私を生きるんです。


今日は、ちょっと、難しい言葉を連ねてしまいましたが、横須賀のワークショップの主旨って、そういうことでした!

また、どこかで、このお話が出来たらいいね。

このあと鎌倉編が続きます!

ばいちゃ!
















2017年8月27日日曜日

共感するお言葉シリーズ ①



今や、田中泯さんという舞踏家をご存知の方は、沢山いらっしゃるのではないでしょうか。

泯さんがお弟子さん達と共に活動する場所(身体気象農場といいました)に、親友が昔入門していまして、蚊取り線香届けついでに、私も少しの間、滞在してお手伝いさせていただいたことがあります。その時に描いた公演の看板が「私は土から生まれた」という演目だったので年表調べてみたら、1996年のことだということが、判明。20世紀だったか・・・。

その田中泯さんが、阿川佐和子さんとテレビで対談していたので、すかさずネットでチェックしましたよ。あれ、泯さんて、こんな方だったっけ?この熟味というか、まろみというか、うーん、20年の月日が経ったんだなあ。


面白い30分でした。いろいろとツボなお言葉あったのだけれども、

「それは喜びですか、悲しみですか?」という問いに対する返答に共感。

「どっちとも言えないですね。僕は、あんまり、歓びとか悲しみとか怒りとか何とかとか、言葉のレベルをビシッと決めたくないんです。嬉しいことと悲しいことの間には、ず~っと、あるじゃないですか。」


いやー、まさに今年、私はこのことを思っていた。

泯さんは、あまりトークが得意なタイプではないんだろうな、という感じがするんだけど、でも、やけにシミジミと伝わりました。

グラデーションなんだよね。

それでさ、子供の時って感情に名前つけなかった。
こういうグラデーション全体の中で生きてたな・・・・って。

カテゴライズを覚えて、やがてカテゴライズ無しに生きるのが不安になるのは、一体ぜんたい何歳からなんだろうね。

「例えば文字文化を持たない人達の踊りはすごい。文字を持ってからの踊りって、どこかで文字の翻訳みたいになっていく。」というようなことを仰っているんだけど、ほんとにそうだよね。

言葉は、考えを整理する為の素晴らしい道具であると同時に、本来無限であるはずの世界を制限する枷にもなるんだ。

花に、星に、思いに、名前を付けるってことは、そういうことだ。

ミイラ取りがミイラ。捉われるよね。



それからカッコよかったのがお金の話。


ダンスビジネスに関係するパフォーマンスは全体の一割みたいな話の時。

阿「でも生活はありますでしょ?」

「死ぬわけじゃないから~(笑)。正直言って金より俺のが偉いです。」

スタッフから笑い声

阿「失礼しました(笑)。」

いや、まじでそうでしょ。

私も思ってるさ。金より私のが偉いです。


聞き手の阿川佐和子も、うまいね。


・・・てことで、共感シリーズ②に続く。

またね



2017年8月9日水曜日

ジーザス・クニヒコ・スーパースター


ジーザス・クライスト・スーパースターを知っておるかな?
70年代のいかしたロックミュージカルじゃ。
ニューヨークのブロードウェイで公演された。

そんなジーザス・クライスト・スーパースターがこの夏、四万十川から唐突に湧いて出たからシータ万蔵はたまげたぞ。


あれ、よく見たらジーザス・クニヒコ・スーパースターだった!


なーんて(笑)。
すみません。高知県四万十市 Natural Life Yoga のKuniさんの華麗なるジャンプでした!

昨年、密かに行ったリトリートを、今年は密かではなく開催してみたのです。

三日間、くにさんと私、そしてカフェTaneのちかちゃんがホストとなり、アーサナして、クリヤーもして、瞑想して、キールタンやって、ヴィーガン料理食べて、海へ山へと繰り出す、0代(というの?)から40代まで、個性豊かなメンバーが集まった「大人の夏休み」でした。

三日間、家族のように共に過ごしましたね。本当に楽しかった。



何気ないおしゃべりのなかで、ジーザス、もといクニさんが言ってた言葉。

「遊びがなかったら、いい仕事は出来ませんよ」

結構、深いお言葉。

決して「酒と浮気」についての男の言い訳みたいな話ではありませんよ。


ブラック企業とか、新たな過労死が問題視されてるご時世。

働き方、働くことの楽しさ、働くことの意味・・・いろんなことが分かり難くて、果ては、生き方、生きることの楽しさ、生きることの意味が分からなくなってしまう。

時間を忘れるくらい、いい遊びが出来たときは、生きる喜びを思い出すよね。

私の好きな言葉は「天真爛漫」。
生まれつきの素直な心が、そのままに輝き顕れることです。

以前は、私の趣味を多分に反映した「修行」系の、きつくて長〜いリトリートをやったりしてたんだけど、ほどなくして考えを改めたんですよね。今、多くの人に必要なことは、自己を律して知識を詰め込む以前に、本当の自分、天真爛漫を取り戻すことなのではないか、と。

そんなわけでタイのリトリートも少し趣向を変えましたし、今回の四万十企画もその流れです。




ジーザスと私、シンクロ選手風に入場。

地上での演舞。

沈下橋は、増水したときに橋が流されないよう欄干を省いた橋です。

シータマン余裕を見せる。「飛ぶわよーん!」


ジーザス「ではまず僕が手本を見せます」


ジーザスが行った!

シータマンがへたり込んだ!


ジーザスとチキンズ(チカと私)、長いこと川を下る。

時々、船から離脱。


ゲストをお迎えしてリトリートの始まり!

ちゃんとアーサナもする。毎日2時間。


制服でトゥース!業務連絡サトーリー待ってます。

サットサンガもする。






猛禽類、水面に急降下。

アンパーンチ!

水族館のような海でピクニック!

西瓜を真剣に見守るのは、小さなあんよの持ち主。

ちかちゃんのカフェ、tane。

恒例の「tane前青春ショット」

また明日から元気に働いて、また必ず会いましょう!

おまけ!女子力向上委員会。

この夏の、この瞬間、私が思っていることは、ちょっとばかり遊びが足りないなってことと、ちょっと休みたいってことかな。

昔は年に一度や二度、日本お一人様旅やってたのにねえ。
いつの間にか忘れてしまってた。

ジーザス・クニヒコ・スーパースターの言葉を胸に、計画してみますかな。
明日の良い仕事のためにね。


つぎはどんな出会いがあるのかな〜。
また来年、四万十川で待ってます!
















2017年8月8日火曜日

スピリット

この夏のウパーサナサンガ大阪編も終わりまして、集ってくれた皆さん、ありがとうございました。

この三か月通しての主題はですね、ひとつの事柄にも複数のリアリティーがあるということでした。このことを理解しておかないと、ヨーガやヴェーダーンタの勉強は勘違いの温床になるからです。

・・・といっても、「このこと」自体を理解するのは、やはり簡単ではないのかも知れないんだけどね。

みなさんが、多岐にわたるワークショップやレクチャーに、いろいろと足を運んで、その結果モヤモヤっとする、その原因は、ここんとこにあるんじゃないでしょうか。

「このこと」に関する自身の理解の欠如、もしくは教える側の理解の欠如、両方があると思います。

先日、ここで書いたマエストロ・ミゲルの歌のレッスンでね、身をもって痛烈に感じたことは、「知的に理解してるのと、知識と一如であることは全く別の話」ということでした。

主体と客体のヨーガ(融合)は、いやはや、「言うは易し」ですよ。

話が逸れた。

多様な次元におけるリアリティーの話。


ここんとこ気になっていた「スピリチュアル」という言葉を例に挙げると、

江原さんがスピリチュアルカウンセラーを名乗ってから日本でもこの言葉が使われるようになった。江原さんがなぜスピリチュアルという言葉をそこに使うかというと、英国のSpiritualist Association of Great Britain でお勉強されたからでしょう。

Spirit-ism、心霊学の協会です。

巷でいうスピリチュアルという言葉は「心霊」にまつわることを指していることがわかります。

Spiritを辞書で調べてみると・・・

①精神、心
②気分、精神状態、快活、元気
③気力、気迫、勇気、熱情、気質、気性、心的態度
④(形容詞を伴って)・・・の人
⑤忠誠心
⑥特質、傾向
真意、意図
⑧霊、霊魂、神霊、精霊、幽霊、亡霊、悪魔、妖精
⑨ a 蒸留酒、火酒、
    b エキス、エッセンス

巷のスピリチュアルは⑧番に対応する言葉です。スークシュマな次元の話。

一方、我々の現場で使われるSpiritの意味は⑦なんですよ。もっと言えば⑨bに出てくるエッセンスという言葉。エッセンスとは「本質」のこと。ストゥーラ、スークシュマ、カーラナの次元の向こうの話です。

生徒の皆さんの理解のために、これらを混同して欲しくないんです。

Spiritualという言葉を翻訳する時に本当に頭が痛い。

Our spiritual pathとかいうセンテンスを「スピリチュアルな道」と訳すのは言語道断。逃げだわ。

精神的な道と書けば、心理的と紛らわしく、仕方ないから霊性という言葉(物質を超える精神性)とか使ってたんだけど、日本語をよく知らない若い人とかは、勘違いするかも知れない。

つまりヨーガ、ヴェーダーンタで「spirit」とは「本質、真理」のことなんだよね。これから全部「本質、真理を求める道」って直すわ。

・・・と、このようにですね、言葉一つとっても色々な次元での意味を持っているでしょ。


複数の次元のリアリティーがある。

リアリティーの奥行きについて理解がなければ、自分の傾向という一方的な立場から、様々な誤解をするでしょう、ということです。

この、相対的な世界において、良心は一つではないんですよ。

いろんな立場の良心がある。

みんながそれぞれの良心と正義を一生懸命に守ろうとしているんだよね。

それぞれの幸せの為に。

だから戦争が起こる。

どっちが悪いとかの話じゃない。

だって、みなが相対的なリアリティーから世界を見るのであれば、それば当然起こって来ることだもん。

この勉強は、相対的なリアリティー=対比の世界の向こうにある、絶対的なリアリティー、万物共通の意識の追究なわけですよ。

たとえ知的な理解だけだとしても、頭の中でシミュレーションが出来る。

「こちらが正しい」「あちらは正しくない」「私は○○については認めない」みたい主張が、どれだけ虚しいことか分かる。

毎年、夏になると、やはり戦争のことを思ってしまいます。

なんかねー、結局、その辺のところが気になる為に、私はこの仕事してる気がするんだな。



人類の思考の望遠鏡。

願わくば、

互いの違っているところ(ウパーディ)に焦点を合わせるのではなく、共通する次元(アートマーの本質)に焦点を合わせられないものか、と。

学術的なこととか、聖典の細かい部分とか、細部に興味もあるし、個人的に知的欲求を満たしたい気持ちもある。だれど、そればっかりに捉われず、みんなに伝えるべき大義がちゃんと伝わるようにしないと・・・。

勉強のための勉強みたいなことにならないように。

みんなが幸せになるにはどうしましょうか、と。

それはともかくとして、この夏も一緒にそんな勉強をしてくれた素敵なみんなに感謝です。東京チームも頑張ってますよ!

ちなみにスピリットの語源は、ラテン語の「息」。プラーナ(息)がブランマンの顕れと言われるのと同じことでしょう。


































2017年8月3日木曜日

炎のマエストロ!

涼しかった昨日、整体院で首をチョチョイっと整えてから、東京文化会館に東京都交響楽団、略して都響のコンサートに行ってきた。


クラスがお休みなのでチケットを取っておいたのです。

「コバケン真夏のシンフォニー」



コバケン



東京文化会館という古いホールの音は、二階の最前列が・・とか五階の左右が・・音響マニアの皆さんに色々と言われるホールです。

今回は、一階の中央右寄り、7列目。

サウンド的にベストポジションではないかも知れないけど、綜合的に良かったんじゃないかな。一点だけ気になったのが、客席の中央奥の方で「チーン」という高周波が頻繁に鳴る。高音域が何かに共鳴してしまっているらしい。あと目覚ましアラーム鳴ってた人がいた(笑)。

座席の位置がステージと同じか若干低いので、管楽器隊とチェロ軍団の姿が見えなかったけど、

・指揮者の横顏が見える
・低音クラブの私としてはコントラバス隊の目の前というのが良い
・コンサートマスターがよく見える。

という点も含めて良かったです。どの席に座っても、楽しみ方はあるのでしょう。
オーケストラの舞台というのは実に多面的。


交響楽の良いところはですよ、音域、音量の両方における、ダイナミックレンジの圧倒的な広さですね。

本当に全身全霊、響きまくって癒されまくり。

炎のマエストロの異名をとる小林研一郎氏ですが、日本の指揮者として世界での知名度は小沢征爾氏に続いて二番手くらいなのかな。私は幼少期に東京文化会館、昨日同じ会場、サントリーホール、杉並公会堂の四ヶ所で、聴きました。子供の時のことは覚えていないけど、チャイコフスキーとマーラー。

ほら、日本はさ、メジャー主義というか、何か流行すると皆同じものを買うような文化があって(ある年インドから帰ると町中の人の殆どが anelloというブランドのリュック背負ってて、まじで仰天しましたからね)、二番手以降は、その道に無知な一般の人に「2ちゃんねる」みたいな場所でムダに叩かれるようなところがある。

でも、素晴らしい指揮ですよ。私は好きです。

指揮をしながら唸るのが嫌、というけどね、キース・ジャレット好きなんですよ、あたしゃ。

同じように好きです、キース・ジャレットとコバケン。


あとね、コバケンのシンフォニーは、なぜだかわからないのですが、聴いた後にものすごく温かい気持ちになる。これは理屈を超えた何かなんだろうけどさ。

なんか愛がいっぱいだなあ、と。


そりゃもう、炎のマエストロと呼ばれるくらいだから、熱いんですよ・・・激しいし。

今回のコンサートだって、「暑い夏にこそ、暑苦しいコバケン聴こう!」みたいコピーだったからね。

でも、オケとのコミュニケーションが人間的というか、個人的な喜びの表情も隠さないのね。そんな時のコバケンは、孫に相好を崩す好々爺みたい。

なにかが優しい。

いやー、良かったです。

必要だわ、こういう時間・・・としみじみ思った次第。

演目は、

ベートーヴェンのエグモント序曲
ベートーヴェンの5番
ドヴォルザークの8番



ということで、以下は完全なる萌え萌え独り言ですから、スルーして下さい。

5番の第2楽章のあたま、ヴィオラ、チェロ隊、美しかった〜!情緒〜!萌えーっ!。美しくも切ないその音に、コバケンも「孫の前のお爺ちゃん顔」で答えていた。


5番は1楽章の「ジャジャジャジャーン」で有名な「運命」、ジャジャジャジャジャのスタッカートが激しく極まるところ。7名の弦バス隊の弓が、弦にバッチバチ当たる音が(目の前だから)聞こえて萌えーっ!

コンマスが「北の国から」の純くんみたいな人のに、体がついていってしまうタイプ、深く抉るようなノリに萌えーっ!

オケの中で一番に指揮者を凝視しているであろうティンパニーの人の眼光の鋭さ。激しい時に鬼瓦みたいな顔から繰り出される雷鳴に萌えーっ!

ドヴォルザークの最終楽章で、ホルンのボリュームが突然最大になるところ、楽器を高々と掲げ、天を引き裂くような音で吠える。勇壮なサウンドに萌えーっ!しかも数回しか出てこないよ。カトちゃんの「ちょっとだけよ〜」だよ。作曲家っていのは良くわかってるわね。


いやー、萌えた萌えた。

閑話休題。

指揮だけをとってみても、鼓笛隊や、「8時だよ全員集合」のポップス歌手のバックバンドの指揮とは違い、オーケストラの指揮って抽象的で分かりにくい。

音そのものにしても、ポップやロックの情緒表現は分かり易いよね。たとえば悲しい音、フラストレーションの音、うきうきする音。その中の一色のみ。あるいは一色から一色への移行。

実験音楽も面白いが、無作為とか抽象という概念に執着し過ぎて、かえって作為的に聞こえたりもする。

そこいくと、ありとあらゆる情緒が、互いに矛盾を孕みながら、ぎっしりとつまっているのが交響曲の魅力でしょうね。さまざまなコントラディクションを一緒くたに包括している。まるで世界のように自然。

そう、シンフォニーは世界だ。

そして、少なくとも子供時代から十代まではこんな気持ちで生きてたな。

悲しさと嬉しさ、怒りと許し、さまざまな矛盾を同時に包括しながら。

いつしか大人になって、その時々の感情を、「怒ってる」「悲しい」「嬉しい」・・・一つのカテゴリーに閉じ込めてしまうようになったのは、一体いつからだろう。

小賢しくなったもんだ。

「地獄に落ちろ!」で読者にはお馴染みの伊藤康麿先生は、ゼミでこのように仰っていた。

「すべての芸術は音楽に憧れる」

それは、その抽象性、包括性によるところなのでしょう。

音楽は言葉を持たない。
意味も持たない。


ただただ果てしない空間の存在を、知らしめるだけ。

音楽は、言葉を超えた向こうにあるもの。

前衛的な現代詩人であった先生は、お若い頃に、切々と音楽に嫉妬したのでしょうね。


そうそう!

小さいお子さんがいらっしゃる方、子供達が交響楽に触れる機会を作ってあげるのはどう?

たとえば今週末の都響だったら、上野の東京文化会館で、夏休み子ども音楽会がある。

小・中学性は1000円。親は座席によって1000〜3000円。

この企画のすごいところはですね、コンサート当日限りだけど、コンサートの半券を、動物園などの無料1dayパスと引き換えて貰えるところですよ!

夏休みの絵日記ネタ満載の一日になるしね。
お子さん喜ぶと思います。


というわけで、皆さんも良い週末をお過ごしください!