もちろん、表面的な行為の形や報酬のことだけを「教える」と理解している人にとっては、そうとも限らないのかもだけど。
当然イージーなことではないので、イージーに行きたい場合は、理屈の方をねじ曲げて、周りも上手いこと操作して「ずる」しちゃうことも出来るかもしれない。
しかし人間の「本質」は馬鹿ではない。
宇宙の「本質」といってもいい。
自分の「やったこと」が誰にも知られていないからといって「やった」という事実は消えないし、「やっていないこと」にはならない。
逆に「やってないこと」を「やったこと」にも出来ない。
自分のやってる「ずる」を自分に知られないわけないんだから、結局は自分が苦しい。
しかし、ねじ曲げているから苦しみは抑圧された形で存在し、すると自分でも苦しいことに気づけない。
「なんだか物事がうまく前に進まない」というのは、案外そういうことなのではないか。
でも、高校の時の陸上部の先生は言っていた。
「どんなもんでも生みの苦しみってのがあるんだよ!」
自分にとって楽な選択だけしていたら、あと1秒早く走れる自分は決して生まれないってこと。
(今年の箱根駅伝は興奮しましたね!)
しかし「楽して得する」ことが「正解」という風潮が、年々加速している気がするんだよね。
つまり「労力を費やす」ことは「損」の方に勘定されているってことだ。
「人生でやりたいこと=イージーライフ」という、それはもはやロマンティシズム、現代の信仰と言ってもいい気がする。
(でも、これってほんと仕掛けられた罠だよね~、誰が仕掛けたのか知らんが。)
特にスピリチュアル界隈…私の周りのヨーガ界隈も例外ではない。
キャラクターのせいか、私は昔から周囲の人に「ふわっふわの人」と認識されていて、下手すると学校卒業して以来フリーターみたいに思われてたりするんだけど、ところがどっこい、最初からずっと勤労ター(=という言葉をいま作った)です。
「シータマみたいにふわっふわライフ」送りたいわ~と思うなら、その目標は存在していないということだ。
今の仕事になってからも、ずいぶん長いこと週休一日で朝から晩まで。はっきりいって疲れてた(アーシュラムでは週休ゼロ日でもっと疲れてた)けど、でもそうやって多面的に鍛えた。
ふわっふわじゃないんだよ…今だってそう、バッキバキだよ、シータマは。アハハ(笑)。
(お金のことだけを言っているんじゃありませんよ、ちなみに。)
私は先生の言葉通りだなと思っている。
「楽して得取れ」は絵に描いた餅。
だって、自分のことは欺けない、宇宙のことも欺けない。
「行いが果を結ぶ」という自然の法則をすっ飛ばしたミラクルは無い。
種がなければ実は出来ないのだから。
筋肉を鍛えずにして、翌日筋肉が倍増することは無い。
食べ過ぎれば太る。
勉強しなけりゃ身につかない。
不健康になる選択をしたら不健康でいることが出来る。
「このサプリ飲むだけでお腹がシックスパック」になることは無いから買うだけ無駄。(笑)
労を避け楽すること自体が目標のライフスタイルを目指すのであれば、自分をビルドアップすることは出来ないです。
肉体的にも精神的にも。
自分を鍛えなかったら、自分には得は還らない。
あ、話が逸れてしまっている。
本当は、「伝えることについて②」身口意がちゃんとアライメントにあることが重要なために云々を書く筈だったのに・・・。
すまぬ。
また次回!