2021年11月15日月曜日

お久しぶり。みんなのQとしーたのA



お久しぶりでございます。最近、大事な話はいつものクラスで面と向かってお話ししてしまうので、ブログに書くモチベーションをすっかり失っていたんですが、コロナ以来、お会いでいる人の数にも限りがあるし、やっぱりブログ、書いた方が良いかな・・・ってちょっと思い返しまして、久々に。


面白いことに、同じ時期に同じようなことが重なるってありませんか?

先月は複数の人からいただくメッセージに「バガヴァッドギーター」という言葉がやたら出てきました。なので、久しぶりに「みんなのQとシータのA」です。

多少の校正をいれながら、今回はKさんとのやりとりをご紹介しますね。ご質問の内容に伴いちょっとショッキングな単語も出てきますがご容赦下さい。赤字の部分が私です。以下長くなりますのでゆっくりどうぞ。

質問なのですが、自分でもどう伝えて良いかわからないままなので、文章がしっちゃかめっちゃかになってしまうであろうことを、先に謝っておきます。行いをした結果は神がもたらすものなので良いも悪いもないということですが、では、殺人や自死、犯罪などもそうなるのでしょうか?

→まず、言葉を整理するところから始めましょう。殺人、自殺、犯罪というのは私が選ぶ「行い」の選択肢の一つですね。

 人間には選択の自由がありますが、カルマヨーガの「行いを神への捧げものとする」という観点から言うならば、「アンタ、殺生とかそんなもん神様に捧げていいんですか?」ってことですね。愛する恋人への記念日のプレゼントに、墓掘って盗んできた来たネックレスとかあげないですよね。神への捧げものはSattvaなものであるべきです。行いを神への奉納品と考えるとき、我々人間の行動の選択に自然とガイドラインが出来ます。

 

それらも欲を持ち行動を起こした「結果として」他人や自身の命がなくなったにすぎなく、そこに善悪はないのでしょうか。

→この質問は「行いの結果の受け取りについて」と捉えていいですかね?

とすると、他人の選択した殺人という行為の犠牲になることも「結果の受け取り」ということになりますが、ここで原因と結果の関係を思い出して下さい。木製の机(結果)の材料(原因)は木ですので、「木製の机」は姿を変えた「木」にほかならず、この机は「木らしさ」に満ちていますよね。磁石がひっつくなどの鉄らしさは微塵も備えていません。原因と結果は似通った性質を持つことが分かります。これは我々の住む世界における一つの摂理です。

この因果という摂理の視点からお話しさせていただくならば、殺人の犠牲になるという事象は、似通った質の行いを原因とする果報であって、この視点の基準は原因と結果であり、そういった意味では、Kさんのおっしゃる通り善悪云々ではありません。「自分が受け取るもの(結果)は、自分のやった行い(原因)らしさに満ちる」という摂理の視点から見たら、善い結果だろうが、悪い結果だろうが、自分に還ってくるだけのことなんだから等しく受け取るしかないんですよ。でも「イーシュヴァラのプラサーダと思えば受け取れるでしょう?」っていう話です。


アルジュナが王家の人間として既に生まれてしまったというのは、本人の過去の行いの結果なので受け取るしかありません。彼の置かれた状況だと、もう戦う以外の選択肢が残されていないんですよね。(どういう状況かは後で説明しますね。)

 

但しこれは、私たち人間の短い一生のなかに限定された話ではないので、証明も出来ない代わりに否定も出来ない、人智の及ばぬ法則である点に留意して下さい。この全体の摂理をイーシュヴァラと呼びます。

 

もちろん、その先捕まって罰を受けるのも「結果」であるでしょうけど。

→一方捕まって罰を受けるのは、人間の一生という短い時間に目に見える結果ですね。沢山の個人が集まって暮らす為には、社会的なルールが必要です。ダルマという言葉は色々なレベルで様々な意味として使われますが、この社会的なルールもまたダルマと呼ばれます。命を殺めることはダルマに反します。誰も殺されたり傷つけられたりすることを望んでいないからです。Kさんのおっしゃっている善悪は、この社会的視点に立つときに出現する言葉です。良いとか悪いとか、好きとか嫌いなどの相対的な概念です。

大抵、人間の視野は狭く、自分や、自分の家族、自分の仲間、自分の住む人間界のことしか気にしていません。人間社会で鳥の丸焼きは悪と呼ばれまていせん。しかしこの地球上には人間だけではなく、他の沢山の生命が存在しています。広い視野を持つとき、動物や魚を殺すのはやはりアダルマですよね。だって魚だって鶏だって殺されたくないですもん。

とはいえ広く地球上には、肉を食べないと命を繋げない境遇にいる人間(北極圏に暮らす人とか)もいるでしょうし、人間を食べないと今日の命を繋げない状況の獣もいます。もちろんそういう境遇に置かれること自体も過去の行いの結果ですが、今日熊を殺したら、いつの日か熊みたいなものに殺される結果が実ることでしょう。トマトを食べて栄養を得る私たちも、いつか土に還ってトマトに栄養を与えます。因果とは、好き嫌いとか良い悪いとは関係ない、つまり自然のサイクルです。


ギーターの話になりますが、クリシュナがアルジュナに戦えと言ったことも、モヤモヤ納得がいかない所です。

その後クリシュナが説く、カルマヨーガやバクティなどはわかるのですが、「だから」戦いに行きなさいというのが、うーん…と感じる所です。

→ギータ―の中でアルジュナが置かれているシチュエーション。これは我々平凡な民の日常に起こる問題をはるかに超えた、究極の選択を迫られた男性の話です。誰だって人(アルジュナの場合はしかも愛着のある人達)を傷つけたりしたくないのに、戦わなくてはいけない。そんな、人間として一番苦しい状況に置かれた人がアルジュナです。


この戦争に至るまでアルジュナ王子達は、ドゥリョーダナの悪政を食い止めようとあらゆる交渉を行ってきました。しかし絵に描いたような悪代官ドゥリョーダナの暴走は止まりません。越後屋もびっくり。ダルマもへったくれもありません。(国を治める人物として有名どころでいうと)ヒットラーに勝るとも劣らぬ大暴走です。


国民を守るべき役職にアルジュナは「戦争するってことは相手を殺したり傷つけたりしなくてはならない。でも従兄のドゥリョーダナはじめ、兵隊たちもみんな知らない仲じゃないし、オレ嫌だよ。無理、無理、無理、この戦、マジでダレ得?戦うのを辞めて森に行って瞑想する人になりたい・・・」って言いだしました。


(先ほどから個人名出して恐縮だけど、分かり易いように・・・・)ヒットラーの大暴走はご存知でしょうけど、悪政をストップすべき立場の人が「ヒットラーは放置します。私はインドへ行って出家します」みたいなことを言っている。

でももし私がアルジュナの立場なら・・・暴君と化したとはいえ身内と戦うなんて嫌。

でも、懸命に生きている幾億もの尊い命の時間が、暴君によって凌辱されるのも、嫌じゃない?


「結果として」命が奪われるだけだというのが…

→果たして結果は「命が奪われるだけ」だったでしょうか?


私は、戦うことで他人の命を奪ってしまうのが怖いと言ったアルジュナの気持ちの方が良いのかなと思うのです。

善悪は、時代や国、宗教、個人でも判断が異なるものなので、あの時代クシャトリヤとして戦うことがダルマで仕事だから、怯えずその責務を果たしなさいということで、現代(?)に当てはめて考えるのはおかしいのかもですが。戦わず平和に(?)とならなかったのは何故なのか物語だし、深く考えるなって感じなのかな。

 バガヴァッドギーターは「自分で読んで勇気を貰えて、ついでに学ぶところもある歴史ドラマ」ではなく、ちゃんとした先生の解説とセットで勉強するもの (= 厳然たる教え、ヴェーダーンタの聖典)なので注意が必要です。


ギーターは「戦争をしろ」と言っているのではなくて、(だいぶ端折りますけど)「行いを通してイーシュヴァラを理解する」というサーダナについて語っているんです。「その為には好き嫌いを基準にして行いを選択しませんよ」と教えてくれています。すべてにイーシュヴァラを見るという姿勢を貫くことが、その助けになります。


「牛を殺してステーキ食べちゃう☆彡だって美味しくて好きだから☆彡」というのは、サーダカのサーダナとしてはどうでしょう?って話ですね。アルジュナが戦うべき理由は「楽しいから」ですか? 逆に戦わないべき理由は「楽しくないし好きじゃないから」でいいですか?


確かに、アルジュナの置かれているのは極限的な状況で、平凡な私たちには計り知れない。

でもアルジュナ程では無いにしろ、私たちの人生にだって時には受け入れがたい苦しい状況ってあります。

その時、私は、何を基準に次に取るべき行動を選択したらよいかって話です。好き嫌い、快不快を基準にしたらいいのでしょうか?


 先生達やクリシュナの言うことはよくわかるのですが、犯罪を正当化させる (?) 理由になり得るよなぁと思ってしまうのです。

→「よくわかっていない」んですよ。確かに、ちゃんと資質のある先生の解説とともに学ばないければ、ギータ―が犯罪を正当化する理由になってしまいます。だからこそ、きちんと学んでいただきたい。700節、長い道のりですけどね。一緒にどうですか?


人殺しや自死が「悪」というのは、今私たちにある倫理での話だし (動物には良いも悪いも無いですもんね)、神からしたら命が失われるのはどんな風に失われたとしても、ただの事象でしかないのですよね。

善悪でジャッジしようと考えるから混乱するのでしょうけど、やっぱりモヤモヤします~。

そこを超えた次元にいかなきゃなんですよね。。。

→人間が十人いたら十通りの「悪」があるんですよ。それぞれの立場の正義がある。動物にだって動物の立場ですべきことがあるし役割もある。人間のいう正義は絶対的な次元の話ではなく、相対的な次元の話ってことです。

一般的(=相対的)な視点でお話しますが、国によっても善悪は違いますよね。インドの大抵の場所で女の人がふくらはぎなんて見せていたら悪です。でもゴアでは女性がふくらはぎを露出しています。ヒンドゥー・ムスリムの非常識が、クリスチャンの常識だからです。リシケシで日本人の女性がドゥパタを着用しないでウロチョロしていますが、インドの非常識が日本では常識だからです。

ヴェーダーンタというのは、そういう相対的な次元(=それぞれの立場)の話ではなく、普遍的、絶対的な価値の話なので、それを混同をしないクリアーな知性を得るための、いろんなサーダナが細かく聖典に示されています。


普遍的な視点を持つことは、人生における良き衝撃吸収システムとなります。愛着あるものを失った時に、悲しみは悲しみとしてあるけれど、それでも寿命尽きるまで生きて自分に残された時間を、本質の追求に邁進する強さを与えてくれます。


ということで、こんな感じでよかったかな?またクラスでお会いしましょう!


長々と失礼いたしました。

お勉強したい方は先生を紹介できますので声かけてね。

写真は近所の空。