2021年11月23日火曜日

パタンジャリスートラについての一家言


ここに古くて巨大な塔がある。シンプルで原始的な外観だが、周囲の景観や空の広がりとの奇蹟的な調和していて、なんとも言えない神々しさを醸し出している。塔は、祖父のその祖父の時代にもあったというし、そのまた祖父の時代にもあったという。災害の多いこの土地で、倒れることなく存在し続けるその塔は、いつしか、土地に住む人々の心の平安と信仰の拠りどころとなっていった。

しかし、これがいつどうやって建てられたものか、具体的なことについては誰も知らない。地質学的な調査によれば、少なくとも三千年はそこに立っているそうだ。火山が近く地震が多発するこの場所で、このような直感的なデザインの建物が無傷で存在し続けていること自体が奇蹟であり、当然、建築家や学者など専門家たちの耳目が集った。

時は21世紀。X線、超音波など様々な技術で非破壊測定したデータを、コンピューターで立体的に解析、計算できるようになった。学者達は、この「子供の作った砂の城」のような塔が、実に緻密な繊細な構造によって、環境変化に機能的に対応しつつ三千年もの間変わらずに立ち続けていることを初めて知ることとなる。

・・・というのは、私が作ったウソの話、もといフィクションです。写真の塔もまったく無関係。綺麗なお寺ですね!


今日は、一般的な内容でなくてすみません。

俗にヨーガスートラと呼ばれるパタンジャリのヨーガダルシャナについて、思うところを記録しておこうかなと思います。


ヨーガダルシャナはその名がメジャーになったことで多くの人に誤って理解されている文献で、その誤解の種類は主に二つです。

①ヨーガダルシャナに出てくるサマーディは、ヴェーダーンタダルシャナのモークシャとイコールである・・・という理解。

②ヨーガダルシャナは「人生で目指す究極のゴールはサマーディと呼ばれる心の状態である」という説を論旨とし、「私とイーシュヴァラは別のもである」と主張している・・・という理解。


番外編としてもう一つ。

③ヨーガダルシャナは「ドラッグ体験と同等のサイケデリック体験」を述べたものという誤解。


③は「光」などの言葉を一般日常的な意味に解釈することにより起こる誤った解釈で、語るに及ばないので、置いとておくとして、①はきちんと勉強していない人による解説本や、ヨーガスタジオのTTCなどでそういった先生から教わることで発生する、最も一般的な誤解です。


②は有識者によるヴェーダーンタダルシャナの視点に寄せた言語解釈による誤解。

これは読み手がヴェーダーンタの寄りの着地をしたり、ヨーガダルシャナを題材にヴェーダーンタを着地点とする講話を聴いたりした場合に生まれる矛盾が発端かと思われます。


例えば、平面について議論がいつの間にか立体にすり替わってしまうと、ロジックが成立しません。


この「寄せた解釈」による論理の破綻は(③の荒唐無稽解釈もですが)、日本で手に入る訳文の多くに見つけることが出来ます。

「寄せた解釈」は第一章の3節に種を撒かれますが、大きく道を逸れる起点は同じく16節、36節といったところでしょうか。第一章でこのスタートを切ってしまうと、その後は完全に捻じれてしまいます。


ヨーガダルシャナは、「ある種の人」が持っている「揺れない心」を、「心」の立つ次元から観察しています。

大地震にも揺るがずに聳え続けるあの塔を、X線や超音波を使って構造学的に分析したように。

パタンジャリ先生の、凡人のレベルと完全にかけ離れたX線ばり超知性による解析です。


ここに一枚の色鮮やかな写真があるとしましょう。

Aさんの見ている写真は「様々な色が張り付いている平面の世界」。

しかし写真家のBさんにとってのそれは「無限の奥行の中を立体的に走る光の3D世界」です。二人は同じ写真を見ているけれど、実は見ている次元が違う。

「そこにあるのは光じゃなくて色だよ」とAさん。

でもBさんが見ているのは、写真をいっぱいに満たしている光だけなんですよね。


そもそも色とは何か。


すべての色の源である「光」の、一部の波長の反射が「色」です。

その視点からいくと、写真家の言うことは正しい。そこには光しかない。

でも写真家は「色は存在しない」とは言わない。

色が光であることを知らない私はただ色だけを楽しんでいて、写真家は光を知っていて光である色を楽しむ。


②は、「ヨーガダルシャナは光を否定するものだ」「『そこにあるのは色であって光ではない。光と色とは別ものだ!』と主張している」という解釈のことです。

が、ヨーガダルシャナは光の否定を意図するものではなく、光という全体に対して、色という部分視点から「光の構造」を説こうとする「色彩学」のようなものと言えるのではないでしょうか。

Aさんにとっては色だけが確かな真実だから、「光」の存在を実感として知らないけれど、Bさんは画角に入るものすべてを「光」として知っている。そして「色」の存在を否定しない。「光」が一時的な色として顕現していることを知っているからです。だから、そして、その色を自在に扱う。

・・・なんか、写真家ってすごく素敵な仕事ですね。

(ちなみにパタンジャリ先生がAさん側とは到底思えません。)

この例えにおける色の視点からの分析がヨーガダルシャナです。


敢えてヴェーダーンタ用語でいうと、アンタッカラナの構造学でしょうか。アンタッカラナとは「思いめぐらし考える機能」、すなわち「思考」という働きのことです。

「思考」という機能は、「想念」という対象物を扱う道具です。掃除機がゴミを吸うように、冷蔵庫が物を冷やすように、思考はもともと二元的な働き方をします。

そこには必ず、思考(Mind)という「主体」と、想念(Thought)という「客体」の相対的な関係性があります。ヨーガダルシャナは、その二元的な働きをする「思考」機能の構造を分析するものなので、当然のことながら二元的な視点を軸に展開されます。

私がストーカーしたところによると一元論の否定を意図するスートラは、一つも見受けられません。


ヴェーダの世界観の裾野は広大ですが、その世界観はたったつの頂上を目指しています。先ほど「ある種の人」と書きましたが、それって裾野でクダを巻いている人ではなく、私たちが目指すところにある「人」のこと。

ヨーガダルシャナは「その人」の持つ「揺れない心」をアンタッカラナの視点から分析したマインドの構造を示す学問であり、同時に思考野における様々なサーダナを示唆しています。


あの塔さぁ、分析しようがしまいが倒れないで建ってるんだからいいじゃん。

揺れない心揺れなさは揺るぎないんだから、別に分析する必要ないじゃん。


・・・て思うんだけど、「揺れない本人」の為ではなく、「揺れちゃう私達」の「知りたい気持ち」に応える分析なんですよね。構造を知っている方が車を扱い易い。

激動の日常生活・・・好き嫌いや幸不幸にハンドル取られまくるワインディングロードを乗りこなして目的地を目指すための自動車教習みたいな・・・。

教習所に通わなくても自在に車を操れるセンスある人もいるけれど、殆どの人はそうはいかきません。

私も教習所でエンジンルーム見せられたけど、何もかも把握できず空飛ぶ絨毯に乗ってる感じを離れられません。結果、私の運転は人に非常に嫌がられます。


今日は小難しい話になってしまいましたが、印刷技術やインターネットが発明されたことにより沢山の人がすでに混乱していることを鑑み、敢えて忘備録的としてメモしておきました。

次は、小難しくない話でね!

またね!