2014年6月25日水曜日

時事ネタ

世間を賑わすサッカーと都議会。

非国民となじられる覚悟で告白するのだけど、私のサッカー嫌いは年期が入っている。そしてその理由は、今回の都議会の野次事件と関連があると言えなくも無い・・・のです。じゃじゃーん!


サッカー自体が憎い訳でもなく、フットボーラー達が憎いわけでもないのですが、高校時代にですね、「女子陸上部にどんどん球ぶつけろ!でグラウンドから追い出せ!」という監督の指令によって、サッカー部員達が、ボールをぶつけて来たり、ホースで水をかけたり、品のない野次を飛ばしたり・・・などの嫌がらせをしてきたのよね。

うちの先生は負け犬の遠吠えといって「弱い奴ほど遠くで鳴くんだ、ほっとけ!」くらいの感じだったのだけど、私は実は、諸々の行為に大激怒。

サッカー部の監督は、たしか国際試合なんかでも出来るような、級の高い審判員だったけど

「人から手本にされるべき人のやることが、女を暴力で貶めて追い出すことか!」


というのと、

「一人じゃ何も出来ないくせに集団になると傍若無人になりやがる!」


という、私の二大地雷のスイッチがオン!されまして、一人喚き散らしながら、トンボを振り回して暴れ、サッカー部室のドアを蹴り回してやりましたわ。怒りの表明です。ふはははは!


・・・とまあ、このような暴力的かつ破壊的なパフォーマンスの数々を猛省しまして、このごろの粛々とした生活があるわけなんですが・・・・。


以来サッカーに対して「集団で下品になる人の集まり」という印象が付いてしまい、興味が失せました。スポーツマンシップってなんだっけ?・・・って。そういのを悪しき村人根性っていうんだよ。


ファンが騒いで渋谷の駅前を混雑させたりするのも、多分、彼らは一人じゃ、そういうこと出来ないんですよ。私にしてみると、そこがとっても気持ち悪い。「一人で背負う覚悟あるんならやれよ!」ということです。でも、ブラジルでのゴミ拾いなんかで少し評価あがりました。


議会での野次なんかも、自分の発言に責任持てるなら、いいんだと思うんですよね。どんな人間も自由に発言する権利を持ってるんだから。集団になって下品なことを言って、いざとなるとシラを切るってなら、言うなよ、ダサ過ぎるよ。



まあ、人それぞれ意見は違うと思うんだけど、私はそんなふうに感じています。

「赤信号みんなで渡れば怖くない」なのは大嫌いですね。
「赤信号ひとりで渡れば危なくない」です。



昨日、用事の前にあるお寺に寄ってみました。閻魔様とその仲間(?)を祀っているお寺です。撮影禁止なので写真はウェブから拝借。




閻魔様はインドで言うところの、ヤマダルマラージャですよね。

このお寺では、人間が肉体を捨てた後(=死後)、どのように次の処遇が決まって来るか、ということを教えています。冥界で、ヤマはじめ、他の裁判官達の処を順にめぐって過去の行いを見直していきます。

閻魔様は、ときに人間達を教育するために地獄に落として苦しめなければならず、この行いそのものも又罪となり、一日三回、口をこじ開けられて灼熱の銅を流し込まれるんだって。腸が焼け爛れて苦しいらしい。可哀相。


「閻魔大王の願いは全ての人々が現世において悪事を成さず良い行いだけを行う事です。全ての人々が悪事を行わなければ閻魔大王も亡者を地獄に落とさずにすみます。閻魔大王も日に三度の苦しみを味わう事はありません。是が閻魔大王の願いです。」

そりゃそうだ。だから私たちも

我れ昔、造る所の諸々の悪業は、皆はてしなき癡(とんじんち)に由る。
身口意(しんくい)に従って生ずるところのもの、すべて我れ今みな懺悔し奉る。

といって、懺悔するんだって。


貪とは貪る心、必要以上に欲することです。
瞋とは怒りの心、癡とは無知、アヴィッデャーのこと。

身口意というのは行いのことですけど、身=体を伴った行いと、口=言葉を発することもまた行為です。それだけではなく、意=心の中で思うことも行為。



しばらくの間、本堂に座って、閻魔様とお話していました。

「ヤマダルママハーラージ、ナチケータ(※についてはまた今度ブログでお話しましょう)来ましたか?やっぱり凄い子でした?ところで私、ちゃんとやれてますかね? いっぱい悪い事してきたけど、でも頑張ります。遠く無い未来に、あなたの所に行きますが、その時まで、沢山、良い行いをさせて下さい。」


と、メルヘン。ちょっと泣けました。


ちなみに漫画の「ドロロンえん魔君」は閻魔大王の甥っ子の設定だって!私はアニメの終わりの歌が好きでした。


人の理想とされるべき議員さんとスポーツマン、大悪人で手いっぱいの閻魔様に楽させてあげて下さい。









2014年6月16日月曜日

本のこと

またサボり癖が出ました(笑)。

坦々とやっていかなくてはいけませんね。つくづく。


先日、たまももさんと中華街でお茶した時に「若者と日本語が通じない」という話でかるく盛り上がりました。

「村八分は通じないのよ〜、今は。」
「私は通じるよ、ってことは私はオバさんか!やぶさかでないも通じなかったよ。」

・・・などなど。


村八分・・・表立って使うのが憚られるの言葉だから消えてしまったのかもしれない・・・なとどと憶測しつつ・・・(村八分といえば山口富士夫、懐かしいっすね)・・・どうも40歳位のラインが時代的にボーダーらしい。


私は昔から本が好きで、今も好き。必ず奥付(この言葉は通じてるだろうか)まで目を通します。あとがきも好き。あるいは、出版社の社長による刊行の辞とか。


たとえば

(前略)
われわれは戦後に十五年の出版文化のありかたへの深い反省をこめて、この断絶の時代にあえて人間的な持続を求めようとする。いたずらに浮薄な商業主義のあだ花を追い求める事無く、長期にわたって良書に生命をあたえようとつとめるところにしか、今後の出版文化の繁栄はあり得ないと信じるからである。

同時にわれわれはこの総合文庫の刊行を通じて、人文・社会・自然の諸科学が、結局人間の学にほかならないことを立証しようと願っている。かつて知識とは、「汝自身を知る」ことにつきていた。現代社会の瑣末な情報の氾濫のなかから、力強い知識の源泉を掘り起こし、技術文明のただなかに、生きた人間の姿を復活させること。それこそがわれわれの希求である。

われわれは権威に盲従せず、俗流に媚びることなく渾然一体となって日本の「草の根」をかたちづくる若く新しい世代の人々に、心を込めてこの新しい綜合文庫をおくり届けたい。

(後略)

1971年7月 野間省一


これは、講談社文庫の刊行の辞。

かつて知識とは、「汝自身を知る」ことにつきていた。

ヴェーダーンタですねえ。


あと村上春樹のあとがきとか。


(前略)
しかし人は、物語なしに長く生きていくことはできない。物語というものは、あなたがあなたを取り囲み限定する論理的制度(あるいは制度的論理)を超越し、他者と共時体験をおこなうための重要な秘密の鍵であり、安全弁なのだから。

物語とはもちろん「お話」である。「お話」は論理でも倫理でも哲学でもない。それはあなたが見続ける夢である。あなたはあるいは気がついていないかもしれない。でもあなたは域をするのと同じように、間断なくその「お話」の夢を見ているのだ。その「お話」の中では、あなたは二つの顔を持った存在である。あなたは主体であり、あなたは同時に客体である。あなたは総合であり、同時にあなたは部分である。あなたは実体であり、同時にあなたは影である、あなたは物語をつくる「メーカー」であり、同時にあなたはその物語を体験する「プレーヤー」である。私たちは多かれ少なかれこうし重層的な物語性を持つ事によって、この世界で個であることの孤独を癒しているのである。

20日の頃に読んだ「ノルウェイの森」に、うへえ〜っと辟易して以来、村上春樹作品は嫌いだったんだけど、以降の作品とかあとがきを読んでると、最近すごく肩入れしたくなってきて、やっぱり素晴らしい作家ではないか、と心変わりしました(笑)。

「ノルウェイの森」の放つ、若さ故の青い苦悩感に対する近親憎悪だったのでしょう。私も青い苦悩でしたから(笑)、読んだときどうしようもなく恥ずかしい感じがした。神戸の事件の、さかきばらせいと君の犯行声明もそうでしたね。さすがに中学生とは思わなかったけど10代であることは確信しました。だって、読んでとても恥ずかしい感じがした。




あ、上記の「アンダーグラウンド」も講談社文庫だった。




さて、中学生になってすぐ、現代国語の先生が最初の授業で言っていたことを今でも覚えてる。

「文学というのはフィクションです。でもそのフィクションを通じて「真理」を顕そうとするチャレンジです。」

私はすぐに転校してしまったので、名前は覚えていないけれど、黒々とした髪の毛の量が多い先生でした。


村上といえば村上龍の「テニスボーイの憂鬱」なんかも、ちょいエロ軽薄小説にみえてすごく大事な事を語っていますね。




文学大好きです。




2014年6月9日月曜日

独り言の記録

★福島のロータスヨガスタジオさんに行ってきた。で、帰ってきた。そこにある思いとか、空気感とか、スタジオそのものもそうだけど、素晴らしい空間。唸っちゃうくらい。


★プログラムのことは、また日をあらためて報告させて頂くことにして、今日の心の中の記録として、個人的に思うことをメモしておこうと思って書いてる。

というのは、今日(の福島でのワークショップ)に至るまでの、ここ数日から数年のあれやこれやを思い起こすと、どうも「抗い様のない大きな流れの中にいる」ような感じがしてならないから。

言葉で上手く説明出来ないけれど、今日はそれを強く認識した。その流れが結構なビッグウェイヴであるってことも・・・。

ああ、もうずっと前から、これは決まってた事なんだな・・・と思う。



★波に乗っかっている者としての感想は、今回のえしかのことは、やらせて貰えて、本当にありがたいことでした。

その流れに、けっこう多くの人を巻き込みながら、行くんだなという気がしている。




★で、今回のチャリティムーブメントのプロモーション担当として(根が人見知りの私としては)ちょっとした気苦労もあるのだが、心労ありきのそれらコミュニケーションから、結局はパワーを頂いているということです。このリアリティの厳然たる存在感は圧巻。

でも、チャリティ企画やってるから「協力して下さい!」というよりは「見ていて下さい」という気持ちが強い。そういう意味では一人の闘いなような、気もする。


★この流れの中でなぜ福島だったか、という点でも、ものすごく深いところで、既に伏線があったような気がする。これは巧く説明出来ない。けど、感じる。



★新幹線の中で読もうと選んだ本を(瀬戸内寂聴と、岡本太郎で迷ったが)村上春樹のアンダーグラウンドにしたことも、なんだか意味深だった。村上春樹による地下鉄サリン事件のルポタージュ。

福島の原発事故と、あの忘れもしないサリンの事件は、似ている。これ、気づいている人いるのかな・・・・、事故後と事件後という特殊な状況下において、市民と、司法や警察など国家体制の反応。一方は事故で、一方はテロなんだけれども、日本という文化だか国家だかの、共通の傾向を映し出してる。

この傾向とは、なんというか、不気味というか、腑抜けと言うか、どちらかというと「負」として捉えられる気がする。

原発事故後のいまの日本で、読まれる価値ありの本。



★アンダーグラウンドのせいで、色んな記憶が蘇った。荻窪駅で遭遇した人身事故のこととか。あれは私のヨーガ人生において重要な通貨点だった。短期間だけどPTSDというのもあった。あの体験ですら、私を、今日の私へと運んだ大波の一部であった気がする。


★日本は一億総中流というが、一億総消費者とも言える。ヨーガの人も「どこそこへ行って、なんちゃらのコースを取る」云々ばかり。

TAKEにつぐTAKEのことばかり考えているが、少し学んだ時点で「知識はTAKEできない」ことに気づいた方がいい。「資格やらコースを取る永遠ループ」に嵌まる。それは果てしない遠回り。

ヨーガは消費の対象の次元のものじゃないことに、みんなあんまり気づいてない。

では「ガンガンGIVEで、与えまくる方向性でいこう!」ということに何故なれないのか?ということを考えると、やはり「消費」という策略に知らずに染められているからだと思う。


毎年、半年も日本を留守にすると、日本の加速度的な消費傾向にビックリする。音楽がいつしか、単なる消費の対象に落ちたように、「ヨーガの先生」も多分、消費の対象になった。学校の先生とかは、まだそうでない気がする。消費されるものであるのは怖いと思う。「その次元に行ってはいけない」と肝に銘じておこうと思う。



★スワミジに会いたいな。えしかのプロジェクトが終わったら、メールしようと思う。