2021年7月12日月曜日

その窓の話。ヨーガとか瞑想とか聖典とか。

長い雨降りの合間、昨日は毎年恒例の横須賀のクラスにお呼ばれしてきました。


毎年お伺いしているにも関わらず、会場がこんなに駅近で海近であることを認識していなかったのは、なんという節穴なお目目。

港に臨むモールのフードコートがまた綺麗に作られており、

「いいんですか?素うどん一杯で、この景色?」って感じ。


昨日の座学のテーマは瞑想だったんだけど、こちら側~私の個人的To Do List~の視点からいうと

「言葉の指し示す意味と目的をハッキリさせるため の”くさび”を打つ、という草の根運動」の一歩でした。

瞑想っていう言葉がマーケットで独り歩きしている時代に、言語化して頭の中をキチンと整理する。人に対して、それから自分に対しても。

まあ相手が子供さんだったら、方法はまた違ってくるのですけどね。



最近では、友人や生徒さんのなかで道場に通う人も多く、ドラマや映画の世界でもフツーに出てくるようになった「瞑想」という言葉。日常会話の中でもチョイチョイ出てくる。

その中でモヤモヤすることも多くて、しかし、単なる世間話の中で議論する気もないので、口をつぐんでいる。これは「ヨーガ」や「聖典」などの言葉もそう。雑誌の対談とかに引っ張り出されたりすると、こちらの意図と正反対の言葉に置き換わっていたりするから、もう恐ろしいので近づきたくない。


モヤモヤの正体。


「瞑想」をする、「ヨガ」をする、「聖典」を勉強する、というように、これらの「目的語」は、ちまたでは純粋に「行いの対象」と認識されている。


・・・私はとても美しい風景を見つけた。他の人にも見せてあげたい。
その人をこっちに連れて来て、

「ねえ、見て、キレイなの! ほら、あそこ!」

と窓の方を指さすのです。


すると、その人は

「ほんとだ!素晴らしい意匠の立派な窓枠だねえ!」

・・・!

「窓の話してねーよ!向こう景色だよ!」

と心の中でズッコケ・・・

みたいな話。


野球はするし、映画は見るし、ご飯は食べるし、小説は読む。

でも瞑想をする、ヨーガをする、理論や聖典を学ぶ、というのは、そういう一般的と視点の異なる、特殊な対象物なんですよ。

それらは、それ自体を「する」とか「学ぶ」ために存在するのではない。

窓枠を見ようとしていたら、窓の向こうの景色は見えないんですよ。


「それらを通して自分を知ろう」という姿勢と目的が定まっていなければ、それらを使いこなせず無意味なものにしてしまうし、余計に人間をこじらせる。


ヨーガも聖典も瞑想も、自分自身を見るための窓。


単なる知的欲求を満たすことでも、読んだ本リストを増やすことでも、RYT200だの500だのを修得することでもない。


それは、それぞれが自分自身の人生を愛して生きることなんだよ。


私が普段、生徒の皆さんと親しくやりとりしたり、年に一度はタイで(ここ数年は高知でも)みんなと寝食を共にして、瞑想や体操や講話の合間に、一緒に笑ったり、美しい自然を体験をしたり、語り合ったりする機会を設けているのは、

「ねえ、見て!ほら、キレイだよ!」

っと言うために、心を開き合って窓辺に並んで立とうとしてるの。

「違う違う、窓枠じゃなくって、あなたのキレイは、ほら、その向こうだってば!」

ほら、見える?私の窓枠も、あなたの窓枠も、まあまあオンボロだけど、ほら、窓の向こうの太陽は、隔てなくキレイだね!私も生きているね、あなたも生きてるね!キレイだね!

・・・・と。

皆さんが学ぶのは窓枠の方じゃなくて、その向こうですよ、という話でした。


今週末の草の根運動は、たつの&京都です。地道にくさび打ってきます。
まだ空きがあるかもです。詳しくはお問合せを!