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2011年4月12日火曜日
Light
「禅は修行者に「凡の非凡を経験せよ」と説き、習慣化した知覚のフィルターをはずして、奇跡ともいえる日常経験の本然性を見ろとせまる。瞑想の初心者はしばしば、到達すべき目標が異常な意識状態の経験にあると思いこむ。体外離脱体験・幻視・こころの耳で聴く天体の音楽・超能力などなどである。そのような経験は霊性の開発とは無縁であり、瞑想中にそれらが起こっても無視せよ、と禅の師家は教える。師家は修行者に、ただ座って、たとえば息の出入りのような、存在のもっと日常的な側面に注意を向けつづけよと教えるのである。
われわれは人体に備わった治癒系の不断の活動について、それに感謝するどころか、ほとんど気がついてさえもいない。潜在的にわれわれに病気やけがをもたらしうる外的因子のすべて、内外の環境のたえざる変化のすべてを考えるとき、われわれがこうして生きていること自体が奇跡なのだ。(中略)夜に日をついでいけることは奇跡の名に恥じるものではない。
われわれがほぼ通常の健康を享受している日々そのものが、治癒系の活動を立証しているのだ。そのはかり知れない価値は、病気を軽減させる能力にではなく、むしろ、日常生活の変転をかいくぐって健康を維持する能力のほうにある。凡に非凡を認める、真の機会がそこにある。」
「癒す心、治る力(アンドルー・ワイル著)」
我々がここアンボリにいられるのもあと二週間。ここを出たらブログはめったに更新できなくなるので、なんとなく、いま頑張って書いてます。自分は実はスーパーシリアス&こむずかし人間のため、あまり小難しいことばかり書いていて、人に煙たがられるといけない。でも、たまには煙を出したい。
アンドルー博士の言うことは、とても正しいと思いませんか。でもこの肉体が、細胞がこんなに精一杯生きてるのに心が逡巡していては勿体無いよね。存在とはまさに、高度な知識であり、輝きそのものであると、実感します。以前Yoginiサイトにも書きましたけど、「天真」とは生まれつきの素直な心そのまま、「爛漫」は自然のままに輝き現れる姿のこととをいう。補足するなら、それは、あらがいのない姿。完全なる調和すなわち受容の姿といえると思います。そうでなければこの生を全うできない=悔いなく死ねない。いつかかならず、私は死ぬのです。死はこの先いつかではなく、間違いなく今ここにある。私は生であり死である。「おまえはもう死んでいる」というケンシロウ(北斗の拳、知ってる?)の決め台詞はある意味、ものすごく正しい。多分、インド人の諦念と爛漫さは、その受容から来ているんだと思うんですよ。
遅くても早くても文句は言うまい。そういう風に生きたい。そういう風に生きれてるな、って今は思えるけど・・・。まっとうしたいな。輝きであることを忘れないでいたい。
今日はSri Rama Navami。本日正午がラーマの誕生日です。