2021年6月7日月曜日

甘やかな六月の憂鬱




ここのところ、どうも気分が乗らなかった。

うまく説明出来ないんだけど、曇天にふさわしいメランコリーが、体の中のどこかで芽吹いていた。

こういう気配の時どうなるかというと、私の場合は引き籠りたくなる。

丸っきり一人の世界というんですか、精神的に。

いまやコミュニケーションのほぼ全ては回線を通してという時代だから、つまりネットに繋がるのが嫌になってしまうのである。

「することリスト」に書かれている事の多くが、その先でネットに繋がっているので、「その先」とやらを思うと、目先の作業すら気が重い。

そのくせ真面目な小心者だから、サボって小説など読んでると、心のごこかに後ろめたが湧いてきて落ち着かない。

よろしくない。もっとふてぶてしくならないとな。

気圧の変化とか、ホルモンの変化とか、環境の変化とか、そういう外的要因も無関係ではないと思う。

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3月末、昔お世話になった人が亡くなったらしい。

こんな時代で集まれないからか、情報も乏しく、故に実感に乏しく、ふわ~んと暮らしていたが、昨日の夢にその人が出てきた。夢の中でも既に亡くなっていた。

4月に知らせを受け、

「〇〇のこと聞いてる?」
「まさか?亡くなったの?」
「そういう話なんだけど情報が無くて。何か分かったら教えて。」

・・・というところから宙ぶらりんになっていたので、飛び起きてネット検索してみた。夢の中の死因とは違ったけど、ようやく情報がネットの世界に降りてきていた。

私の心の引き籠りも、何故かここで一旦終了。

そしたら、ようやく色んなことが思い出されるようになった。

故人に対して、当時「ほんとしょ~もね~な~」と思うこともあったが、それは、その人のほんの一部であって、その人のお陰で色んな経験をさせて貰えたし、そうやって私たち若いモンに世界を見せてくれようとした、その兄貴心はやっぱりありがたかった。生命にきちんと備わっている後続の者への愛情。

その人だけじゃなく、沢山のお兄さんお姉さん達に注いでもらったその愛情の中に、私は育まれたんだな。

お別れするのは、やっぱり少し寂しいけれど、この年になると少しずつ慣れてきて・・・人の体はちゃんと死ぬんだ、ということを人生の中で教わってきて、訃報に天変地異のような衝撃を受けなくなった。

そのかわりに、なんともいえぬ甘い回想がある。

それは先輩たちが注いでくれた愛情の甘さなんだと思う。

その甘さが、時代の中に途切れないように、また誰かに分けて行こう。

それが故人から渡されたバトンかな、と思います。