2020年4月17日金曜日

何者?

皆さんいかがお過ごしですか?

「我ながら志村ロスに陥るなんて脆弱な!」・・・と一瞬思ったけれど、ビートたけしの「訃報のショックでしばらく鬱っぽくなった」発言を目にして、感受性なるものの存在をしかと受け止めたシータマンです。

私はというと、これがなかなかどうして、幸せな毎日を送っています。まるで、思いがけず、お金では買えない貴重なプレゼントを貰ったような・・・。

この思いがけない感を説明するならば、入院保険に入っていて、10年ごとに保険金支払いが発生しなかった場合に貰える「健康お祝い金」にみたいなのを、今まさに受け取っている・・・・みたいな感じですかね。

突然のライフスタイルの変化に際し、脳の中で組み替えられたシステムが、安定して駆動し始めた。もしも不安があるとしたら、再び古いシステムに戻ることに対しての不安・・・かな。

日本のほとんどの地域において、人の生活のメインは「消費」の一言に尽きる。はっきりいって消費以外にやることがない。

いやいや、私は一生懸命働いて蓄えをクリエイトしている!世の中に価値あるものを提供している!という声もあるけど、それはやっぱり巨大な「消費」の構図に組み込まれたアクションに過ぎない場合がほとんど。

私たちは、さながら「消費」を捧げる家畜のようだ。

じゃあ牧場主は誰だ?という疑問があるけど、それについての議論は他にお任せするとして、行いの結果として手に入るものは、私たちを決して満たしはしないという点が重要。

そういうものを目の前にチラつかせれば、欲求の無限ループを目に見えない柵として、人を放牧できる。

牧場主、なかなか頭がいいじゃないの。


目に見えぬ柵は、恒常的に手に入れられると思っていたものが、手に入らなくなる不安、すなわち失うことへの不安でしょう。


失いたくないもの人気ナンバーワンはお金だけど、地位とか役割とか、そういうのも含む。それはだけど仕方がないのかも知れない。すべての生命体は「死にたくない」という願望を生まれつきプログラムされているからね。死の恐怖がお金にすり替わっているだけのこと。


むかし見た刑事ドラマで、薬物依存症にされた刑事が自らを監禁状態にして、薬が抜けるまで壮絶な禁断症状と戦う、みたいなシーンがあったんだけど、多かれ少なかれ、現代人は「刺激」というドラッグに漬けられている。

(自粛生活で多くの人が感じるイライラも、毒を抜く過程で現れる禁断症状みたいなものなのでしょう。)

刺激を煽るエージェントの大手はインターネットをはじめとするメディアなので、本当に気をつけて付き合わないといけない。

そうはいっても相手はプロですから、巧みですよ。まったく洗脳されないというのは、本当に難しいことだと思う。

今回、神様がくれた「独り静かに過ごしていい時間」に、「デジタルデトックスのチャンス(というとカッコイが、単に自分の不手際が招いたインターネットがあまり使えない環境)」がうまく掛け合わさったのがラッキーだなあ、と思うのはそういう点においてですね。

自らをソフトに監禁して、毒を抜く。


高城剛氏の著作に言い得て妙な文章があったので、引用します。


 あらゆる科学的データから検証しても、ブッダが言うところの「幸せは外的要因に左右されない」のは正しい。言い換えれば、外的要因に左右される幸せは錯覚に過ぎず、セロトニンは出ないのだ。

 収入の多寡や物質的なものでは、人々は幸せを感じないのは科学的に証明されている。一瞬、消費によって幸せを感じたように思っても、セロトニン量を計測すれば、ただの興奮に過ぎず、

(~中略~)


よくスピリチュアルや自己啓発のメソッドでドキドキワクワクに従うようなことを本気で話しているのを目撃するが、それはドーパミンとノルアドレナリンによって、ごまかしているにすぎず、いわゆる幸せとは離れていくことを意味している。 ー「多動日記」より抜粋


お金の不安だけじゃない。何もしない人であることの不安。「役の価値=私の価値」という役への依存は「持っている資産の価値=私の価値」という勘違いと同じくらい多い。

人に求められる人材、社会の役に立つ人材、価値ある人材、愛される人材。

もちろん人を助けたり助けられたりすることはとても大切なことだけど、それ自体が人の存在の価値とは直接関係がないことを忘れてはいけない。


冒頭で、幸せな毎日を過ごしていると言いましたが、それは「何ものでもない私」を享受できることが、静かに幸せなんだよね。


ずいぶんと前は、毎日、そんな時間を生きていた、そんな記憶がある。

何ものでもない。
何にもならなくていい。
わたしだけがそこに在る。
とても静か。

そんな時間を、いつの間にか忘れてしまっているということすら、いつの間にか忘れてしまっていました。

コロナよ、ありがとう。




かつてないくらい睡眠をしっかり取れてるのも、ご飯を毎食家で作れるのも幸せ。写真はある日の晩ご飯。やたら緑色なのと、納豆がパックのままなのはご愛嬌。胡瓜のピリ辛炒めと、ピーマンと油揚げを煮たやつです。人生始まって以来のレベルで家賃の元を取りまくっていることも密かに嬉しいシータマンでした。

またね。