2017年7月24日月曜日

数秘とカウンセリング

いつもお世話になってる、マーキチの母、岩原京子さんのヌメロロジーカウンセリングを受けました。


これは昭和の写真ではありませんよ。お揃いのサリーで京子さんとパチリ。れっきとした平成写真です。でも、私は帰国前夜で祭りのあとだったかな・・・見よ、このお疲れフェイス!

京子さんに出会ったのは数年前の大阪のクラスです。が、私は東京に住んでいるので、実際にいろいろお話させていただくようになったのは、私がスワミGと一緒にいるところに彼女が遊びに来てくれてからです。

関西の人と密に接することが稀だった私にとっては「さすが大阪!テンション高いお母さんだなー!」という印象でしたが、なぜか最近それが揺らいできました。

「あれ?この方もしかして、なんかちょっと小綺麗なキチンとした人?」って。

なんでだ?と思っていたら、以前カウンセリングのお仕事をしていた京子さんが、最近カウンセラーとして復活してたんです。

どうりで。

なんだか客観的な視点に立つ人になってたんですね。


「子育てが苦手なお母さん」が、子育てと向き合ってきた経験を通じて、主に子供とのコミュニケーションの相談を受けていらっしゃる。

そんな彼女のお仕事を覗いてみたかったのだけど、私は子供がいないので、チャンスがないと思っていたら、彼女のもう一つの得意技、数秘術を生かしたカウンセリングを始めたらしい。

ということで、私さっそくお願いしました。


数秘術が語る「私」に関しては、とくに目新しいことはありませんでした。
全部よく知ってることです。

ただ、これは私が自分に対して、偏執的な分析&観察マニアだからであって、みなさんはきっと目新しい情報が出てくるはず。

それにしても、数秘も、ジョーティッシュや四柱推命と同じことを言ってくるのが不思議なのよね。

カウンセリングはスカイプで、最初に送られてくるPDFのファイルを見ながら対面で行われます。

PDFのチャートに京子さんが手書きで、短いメモを書き足してくれているから、分かり易い。

例えば

・持って生まれた才能は忍耐強く面倒見がいい
・献身的な生き方で名をはせる人
・極上のお世話好き、伝統的、保守的、几帳面、良心的
・人に特別な貢献をする人、好き嫌いがハッキリ、一匹狼
・今回の人生で信頼について学ぶと決めている
・願望、内なる動機は分析好き、ひとり好き
・他人からの目は寛大であったかい人、知的、哲学的
・感情的、直感の人、ぼんやりしている
・頭が固くて融通がきか無い
・せっかちで移り気
・がまん強く、もの静か、仕事好き
・知性の面では創造的で楽観的

などなど。


ま、そのまんま、自分てこういう奴だなって思ってる通りでした。

一番うれしかったのは、だあれも信じてくれない「私ひとりが大好き!」という事実を数秘術がしつこく語ってくれたことですね。

警戒心が強い私は、駅のプラットフォームにも「ゴルゴ13」のつもりで立ちますからね。




少なくとも、京子さんだけは、こんな私を理解してくれていると思うと、とても安心しました。世界に2、3人くらいの人しか知らないと思うが。


面白かったのは、京子さんが時々、手元でゴニョゴニョやってるんですよ。何してるのかと思うと、一言で言い表したい時に、カードを引いたりしてるのね。

時系列で話してる時だったんだけど、そのカードが、私の30代前半までは「Patience」、今「Efficiency」、将来「Awakening」と(笑)。

だって「忍耐」→「能力」→「覚醒」だよ。

わくわくですわ、人生。

10代から30くらいまで、なんかね、本当にしんどかったんですよ。どうにも誰とも心から分かり合えてる気がしなくて、文学を地で行っちゃってましたから。中学、高校時代も、周りの女子達の考えてることなんてまったくの意味不明でした。

通じていると思えた人は二人だけ。ひとりは死んじゃったし。

でも、今はだいぶ良い感じに人生を廻せてると思う。

忍耐な時代はね、苦く、甘く、あれはあれで魅惑ではあったのだけどね。

時は戻せないから。


私の場合は、総じて

「繊細で内向的だけど人の上にたち、クリエイティブな考え方と高い言語能力で仕事を手際よくこなします。警戒心が強いけど善悪を見極める目はある。生まれながらの人道主義者でありヒーラーで、直感を使ってお金の為ではない働きをする人。共感力が強く、包容力もあるし、人からの助けをたくさん頂く人」

ということでした。

これらの情報を踏まえた上で、社会で迷子になった人達に、どのように社会と付き合うか、ということを本人に整理整頓させるのが京子さん達カウンセラーのお仕事なんだなって思った。

社会とはつまり家族、学校、職場、地域。

核家族が主流となった今、近所の相談役のおっちゃんみたいな人はもはや絶滅。

家庭という一番小さな単位の社会が陸の孤島になる時代です。

いままで見たどの京子さんよりも、どっしりと落ち着いて、カウンセラーでした。

人が、地に足をつけて生きていく為に、このようなお役目の人がいてくれるのは良いことだなあと思いました。

個人的に共感を持てたのは「収入が何倍にもなる」「勝ち組になる」とか、そういう如何にも的な私の嫌いな言葉が一切出てこ無いところですね。

興味のある方は、あと若干名ですがモニターを募集してらっしゃいますよ。

「お母さんでいること」が苦手で仕方が無かったお母さんは、苦手だったからこそ、懐の深いお母さんに進化した。

「才能を発見するカウンセリング」という主旨のタイトルですが、内容はもっと汎用性が広いという印象です。誰にも相談出来ない悩みがあるときには、ダウントゥーアースな京子先生のドアを叩いてみてください。子供達に綺麗な未来を贈りたい、大阪のお母さんです。お願いしたら講演などもきっと受けてくださると思うよ。


詳細はこちら




















8月のシータマコさん



椎田万蔵先生は「おろち流(サリー)着付け教室」の師範ですが、名前の似ている「さいたまんぞう」の「なぜか埼玉」はどんな曲だったかチェックしてみた。

♬ なぜか知らねど〜
夜のシータマは
老けていく老けていく
シータマの夜
どうにもならないあなた
あきらめないで ああ〜


・・・なんだっ!この歌はっ!


どうぞスルーしてください。ぜんぶ私の妄想劇場です。

だって、みんながいろんな名前で呼んでくれるんだもん。楽しくてさ。
シータマ、スーパーティーチャーシータマン、シータマコ、などなど。
いろんな人が私の中にいるみたいで面白い。
でもしーたまんぞうは自分でつけました。

あ、着付けもちゃんと教えますよ。
これまでに「パイソン」と「うわばみ」がオロチ流を卒業しました。
現在「青大将」は修行中です。

なぜオロチかというと、なんででしょうね。

蛇のようなパワーと執念でぜったいに修行を成し遂げよう、ということで、パイソンと作った女子会「ナーガルサンガ」が前身ですね。私オロチとパイソン弘美、他にうわばみとつちのこがいます。



スルーしてください(笑)。



サリーは、これまた不思議な衣料なんです。私にとって。

ものすごい安心感というか安定感をもたらす。

「I'm home!」

って感覚です。

当初、何度教わっても難しかったのが、ある時、突然に思い出した。

「あれっ!私、これ、毎日着てたわ!」

それ以降するするっと着られるようになったわけです。

そして、教えてくれてたトゥラシマタは、私に伝授したあと、きれいさっぱりそれを忘れた(笑)。

ちなみに写真は、カマレーシュ・コウキさんに撮っていただいた大好きな写真。

一般的なサリーではなく、ケーララの衣装、上下セパレートです。通称セットゥムンドゥといいます。セットゥというのは英語のセット、ムンドゥは男が腰に巻いているドーティーのこと。正装ではアンガヴァストラム(マラヤーラム語はド忘れした!)上衣の布も着用するので、ケーララは男女が同じ服ってことです。無漂白のさらし綿でとても気持ちいいよ。



8月はいつも通り、芝浦での水曜19時オープンクラス(どなたでも予約なしでOK)に加え、過去のウパーサナサンガ参加者向けのステップアップグループ120分が、毎週木曜10時半より。

8月19日(土)には港のヨーコの横須賀で、ゆったり系アーサナと、ヨーガの意味をお伝えするお話。一般の場でイキナリ難しいことをお話しても伝わらない場合がほとんどである、という経験をふまえ、聴くだけではなく、みなさんに自分で考えてもらうワークを行います。自分的にはちょっと新しい試みですね。

8月20日(日)は鎌倉のいつもの由比ヶ浜公会堂でサットサンガです。瞑想して、ジャヤガネーシャ歌って、そのあとお話しますけど、今回、トピックは皆さんご自身に決めていただこうと。日頃の悩みや疑問、なんでも構いません。

実は私がやっているウパーサナサンガではこういった疑問をみんなでシェアして話し合う時間が多いんだよね。これが本当に実になる時間というか。ということで、どしどし質問待っています。

詳細はコチラのスケジュールページでご確認くださいね。お申し込みは主催してくださっている方へ直接お願いします。

懐かしのさいたまんぞう、チェックしてみてください!



2017年7月22日土曜日

真夏の夜は・・・

私にとって、梅雨明け前の7月といったら、ユーライアヒープの「July morning」、梅雨明け後は「Summer Breeze」のアイズレーブラザーズによるカヴァー版・・・・な季節なんですよ。

しかし、今年・・・なんだかちょっと違う色に塗り替えられた気がするんだな。


マエストロ・ミゲルとの三日間に続き、大阪から始まる近畿地区での濃い四日間を終えて、しばしの放心タイムを経て、ようやくコンピューターの前に戻ってきました。

大阪で打ち合わせ。


たつの。りっくん、ありがとねー。


あらためまして、皆さんに感謝をお伝えしたい。たつの、京都でのワークショップと講義、そして大阪でのCD発売ライブに足を運んでくださった皆様、遠くから応援して下さった皆様、ありがとうございました。

普段お話をする機会がない方々ともおしゃべり出来て、また一つ世界が広く、そして近くなった。

綺麗な心に、会いたかったの。

そして沢山たくさん会えました。

なんと、九州とか東京とか、本当に遠いところから来てくださった方もいて、もうどっちに足を向けて眠ったらいいのやら・・・って感じです。


本当にありがとうございました。




ちょっと話題が偏りすぎて反省している京都



この間、とても慌ただしく、のんびり屋(・・・という職業があったらやりたい)の普段の私のマイペースはすべて放棄という感じでした。

野犬と同じなので、私は、実は社交的な場面において人になつくのにとても時間がかかります。社交の場面の私は、あれは結構、社会的に当たり障りのない人格を演じてますからね。人に慣れてきて気が緩むと、自分でも、ちょっと、この人は何を言い出すか分からないというか、地味なくせに意味不明なことも多いので、気をつけてる。

無駄に人を傷つけたく無いし、みんな同士に良い感じに仲良くしていて貰いたいし。
結構ちゃんと計算してます。

ただ、演台とか、音楽のためのステージに上がっている時が、素の私に近いのかなって、今回思ったのでした。

「私」がとても楽なのでした。

とくにステージの上はねえ。

こんな楽なところがあったのかあ。忘れてたわ。すっかり。

マエストロも仰ってた通り、アートには今と主体しか無いからね。

過去を悔いている間に、今がどんどん、先にいっちゃう。

必死に今にいないと、それは成立しなくなっちゃうから。


↑「今だけがある」例
JUNさんとAMALAさん


以前、預言カフェにいった話を書いたけど、ライブ後に「最前線が一番安全ですよ」って言われた例の話をしていたら、岡野さんが仰った。


「最前線は一番安全だよ。正直でいれば。」


この7月。

私は、いちばん正直な自分に還っていく、その道標を定めたような気がする。

これは、私にとっては、かなりわがままなことですよ。

でも、自己を中心とするところに、一番自然なところに、何年後になるかわからないけど、きっちり帰り着こうと思います。

その時、私はどんな姿になっているんだろうな。

最後になりましたが、 オープンハートで野犬を手なずけて下さった皆様に感謝です。

さあ、夏は始まったばかり。

次は、四国、関東、北陸で会おう!


広本さん、岡野さん、あゆみちゃん、まほちゃん、あかねちゃん
そしてマーキチでかくなったな。

才能に満ちたプロデューサー栄子さん
もしかして自分では気づいて無い?


楽屋メンズクラブ!


光の人は純子さん!


朱夏と聖歌隊と私。


チーム受付、一番のしっかりもの達。
眩しい若い力。


またこのメンバーで集まれたらいいな。

またきっと皆さんにどこかで再会したいな。

シータマンの練馬の夏は、今宵JBとともに更けていく。

またね。

























2017年7月11日火曜日

マエストロに会って来た!

みなさん、こんにちは。すっかり夏模様ですね。



さっき外に出たら、なんだか気持ち良くて、「いや〜涼しいわ〜!」なんて呟いていたんだけど、勘違いだったみたいです。暑いわ(笑)。

ちなみに写真は本文と全然関係ありません。もうすぐ夏の恒例の誓願寺ワークショップなので、四年前の誓願寺さんの時の写真を。

うどんが・・・身長より長くてショックを受けました。


さて、先日、このブログにて紹介させていただいた、歌の先生、マエストロミゲルにお会いしてきました。


初日の、レクチャーでのお話がすごく良かった。私らが普段扱っているテーマだったから、余計に楽しめました。なので、このお話をみなさんにシェアさせて下さい。今日はちょっと長い記事になります。

以前、ダライ・ラマ 猊下のお話をシェアしましたが、あの時は、ペンや電子機器の持ち込みが禁止されていて、最初から脳内ハードディスクに録音スイッチを入れていたの。今回はリラックスして聞いていたのでザックリ要約になります。ご勘弁を。


歌のマエストロ、ミゲル・アンヘル・クルティ先生のお話です。


「今日は皆さん、ようこそお越しくださいました。

私は歌を教えています。教えるというと、一般的に「テクニック、技術を与えること」と捉えられますが、私の場合はそうではありません。音楽の本質は技術にはないからです。

世界のトップを走るテクノロジー大国ニッポンで、こんなことを言うのは、アルゼンチンで「肉食は良くない!」と言っているようなもので、非常に恐縮なのですが・・・。

人類には知性があり、この知性によってさまざま技術が革新され、世界は発展してきました。技術は素晴らしいものです。とても役に立ちます。

しかし、知性というは、自分の外側の世界を克服する、あるいは侵略する為のものです。それは内側の世界には及びません。

声は、実は外側の世界に属するものではありません。主体である自分自身の投影なのです。自分が原因であれば、声は結果です。原因をさておいて、 結果である声をコントロールしようなんて、無意味なことです。

技術が外側の世界を対象とするのとは反対に、芸術は内側の真理を追及するものです。アートとテクノロジーは対極にあるといってもいい。

そういう意味で、テクニックの追及に明け暮れたこの200年間の芸術界はひどいものでした。

テクニックに雁字搦めになって、自分の声を失っているとしたら、それは残念なことです。それらの障害物を一つ一つ取り外して、もっと自由になる。そのお手伝いをするのが私の仕事です。音楽は技術ではなくて芸術だから。

自身の声を、客体(自分ではないもの)として捉え、侵略(コントロール)しようとするのではなく、全てが包括されなくてはなりません(自分と自分じゃないものの区別がなくなる、全てが自分になる)。」


・・・と、こういうお話をされていました。

参加者からの質問に対するお答えで、一瞬私が通訳させていただいた場面がありました。日本語向きに言い換えれば良かったな・・・と後悔してる。ちなみに質問は役者さんからで「外で役を演じ続けているせいか、家に帰るとなんとも言えない疲れがあって、もはや自分の本当の声がわからない」というものです。

「あなたではない役を演じるのではなく、役そのものになってしまいましょう。全てが包括、統合されれば疲れません。」

これ、ちょっと難しい表現です。

シータマン的にいうと、

自分以外のものになろうとするから疲れる。自分でいれば疲れない。

全てを自分として受容してしまえばいい。

これ、すごいこと言ってますよ。

ヴェーダーンタだね。

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私は、あかねちゃんとのグループレッスンに加え、2回の個人レッスンを受けてきました。最初の時に「時間が必要な人」と言われてたのですが、結果的には、早かった気がする。最後のレッスンの時に、これまでの人生で自分の喉から聞いたこともないような声が出てビックリ。

ペーパードライバー教習2時間というのに行った時、あまりの運転の下手さに教官が「むううう、こ、これは・・・ちょっと一日じゃ無理かもしれない」と眉を寄せていたのだけど、結局2時間で卒業。「あんた性格いいからすぐ上達したね」となりました。

どの治療家にも「うわっ!反応が速いっ!」と言われる。これに関しては我ながら瞬速ですよ。先週も「体が素直っていうか単純てことだな(笑)」とある先生に言われました。

マエストロが「時間のかかる人」と仰ったのは、私が、他人に心を開くのに時間が掛かるってこと、見抜いてのことだったのでしょう。

ただ先生は別。危険な冬山では、山に精通したガイドの言うこと聞かないと死んじゃうし。そこ、専門家に身を委ねるのはけっこう得意です。

自分の話になりますが、

私は自分のことを客観的に観察して、

「あっちの端っこと、こっちの端っこを同時に持っている人間」

と思っていました。

よく言えばダイナミックレンジが広いんだけど、真ん中がない。

エクストリームなドンシャリサウンド。

これをラジカルと表現した人もいた。

いろんな側面においてそれが言えますが、マエストロは、この内ある一つの面についてズバリ指摘してきた。

声を聞いただけなのに!なんでだー!

「一方の端が、もう一方の端を否定していて、自分が引き裂かれそう。」

「そのうち一方は持って生まれた性質、もう一方は外から植えつけられた価値観。持って生まれた性質を尊重して、受容しましょう!それは悪いことじゃない。美しいことです。もっと自由に!音楽です!自分です!」


その受容を、歌うという行為を通して試みるわけですよ。

その結果として、聞いたことのないような声が出た・・・と。
まだ、始まったばかりだけどね。

音楽療法ともまた違う。

結果だけみると、カウンセラーの人達が臨床で行っていることですね。セラピーです。

しかも、もやっとしたスピリチュアルみたいなことではなく、はっきりした現象であったリアル。

ただ、声に精通している人間じゃないと、これは出来ないねー。

どんな分野でも、その道に精通しまくった人というのは、こういうことなんでしょうね。

マエストロすごい。



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私は、ヨーガの先生という肩書きだけど、体操よりはお話をしていることが多い。マエストロが講義で仰っていたようなことを、言葉を使って他者の知性に訴えかけています。

教えているからには、多少なりとも知的な理解があるということです。しかし、知的に理解しているからといって、それを体現出来ているかというと、それは別の話だ。今回マエストロと時間を共にすることで、それをハッキリと認識しました。

知性はすごい。すごく機能性高い。でも、すごいからこそ私たちを捕らえて離さない。知性は私じゃないものなのに、私のフリをしてくる。自分がいかに知性にコントロールされているか。

「頭でっかちにならないで、私たちはもともと自由なんだから」

っていつも言ってるのに、知らないうちに頭でっかちになってる。歌ってみてハッキリそのことに気づきました。逆に、歌わなかったら気がつかなかった。まじで。


今回、一日、通訳としてマエストロにアテンドさせていただいたのですが、自分も含め、他の方のレッスンに立ち会っていても、そのことについて、ヒシヒシと考えさせられましたね。

三回のレッスンで、私が変わったかどうか。それは目に見えないから自分でも分からない。分かってるのは、思ったよりもずっと早く、私がマエストロに心を開けたということだけ。

求めるものは認識の変化なんですよ。

もっと自由に!もっと自分を楽しんで!

それがマエストロからのメッセージです。

私は、これまで歌を演じてただけ。

歌を真似してただけだったんだな。

自分が歌になっていなかったんだな。

おそらく、このブログの読者もたくさん、マエストロに会いに行くんじゃないかな。グループレッスンに申し込んでる方いらっしゃったら、個人レッスンを複数回受けてみることをお勧めします。

今回逃した方は、来年一月に再来日される予定です。

チャオ!























2017年7月5日水曜日

性格診断忘備録。

このテストやってみたから結果の忘備録。


https://www.16personalities.com/ja
かねがね自分は仲介者だと思っていたんだ。一般的な意味で。
以下テスト結果。
あなたの性格タイプ:
“仲介者”
(INFP-A)
外向型
内向型
48%
52%
直感型
現実型
77%
23%
論理型
道理型
33%
67%
計画型
探索型
0%
100%
自己主張型
慎重型
77%
23%





















仲介者型気質の人は、真の理想主義者で、極悪人や最悪の出来事の中にさえも、常にわずかな善を見い出し、物事をより良くするための方法を模索しています。落ち着きがあり控えめで、内気にさえも見られますが、内には激情と情熱があり、まさに光を放つ可能性を秘めています。全人口のわずか4%を占めているだけで、残念ながら、誤解されていると感じることが多いかもしれません。しかし、同じ考えを持つ人々を見つけて共に過ごす時、そこで感じる調和が、仲介者型にとって、喜びやインスピレーションの泉となるのです。

外交官グループに属し、理論(分析家)や刺激(探検家)または実用性(番人)ではなく、自身の信条に基づき行動します。前に進むための方法を決定する際、名誉や美点、道徳、美徳に目を向け、賞罰ではなく、自らの純粋な意志により導かれます。仲介者型の人達は、この気質を誇りに思っていますが、それはごく当然のことです。しかし、誰もがこうした感情の裏にある原動力を理解するわけではなく、孤立することもあります。
金はすべて光るとは限らない。放浪する者が皆迷っているとは限らない。年老いても強いものは枯れない。深い根に霜は届かない。



J. R. R.トールキン

今の自分のことは分かっているが、今後どうなるかは分からない

こうした気質を最大限に発揮することで、他人と親身にやり取りしながら、難なく比喩表現やたとえ話を用い、シンボルを理解し生み出しながら、自分の考えを共有できます。こうした直感的なコミュニケーションスタイルは、創造的な仕事に向いているため、仲介者型の有名人の多くが、詩人や作家、俳優であるのも不思議ではありません。自己理解と世の中における自分の立場を重視し、自分の作品の中に自身を投影させることで、こうした思想を探求します。
自己表現力があり、比喩や架空の人物を通して自分の美点と秘密を明かします。
その言語能力もまた、母国語にとどまらず、外交官タイプの大半がそうであるように、第二言語(時には第三言語まで!)の習得に非常に長けています。また、その優れたコミュニケーション能力は、外交官の永遠のテーマである調和を追求する際にも役立ち、この能力により、自らに課せられた使命と出会った時に前進できるのです。

多くの人々の話を聞き、わずかな人に話す

しかし、他の外向型とは異なり、仲介者型は、ごくわずかな人々やひとつの価値ある目的にのみに集中し、一度に多くのことをやろうとすると力尽き、さらには世の中のあらゆる修復不可能な悪に落胆して、打ちのめされることさえあります。これは、仲介者型の人達の楽観的な見方に頼ろうとしていた友人にとって、悲しい光景です。
善を探求するあまりに自分自身を見失い、生きて行く上で欠かせない日常生活の維持を疎かにしてしまう可能性もあるので注意しましょう。仲介者型の人達は、他の性格タイプよりも、よく思いにふけり、楽しみながら物事をあれこれ想定したり、哲学的な事柄について思い巡らせたりします。放っておくと、まるで隠者のように引きこもったまま連絡が途絶え、友人やパートナーが、多大なエネルギーを費やして、現実世界に連れ戻すことになります。
幸い、春には花が咲くように、仲介者型の人達の愛情深く創造性に溢れ、利他的で理想主義的な気質は、常に戻ってきます。そして、行く先々で仲介者型自身とその家族や友人に、おそらく理論や実用性ではなく、思いやりや親切な心、美に息吹を与える世界観をもたらすのです。

そばに座って。

ウパーサナサンガという勉強会をやっている。何年になるんだろう。もう忘れたけど(笑)、いろいろな土地で、生徒さんと顔を付き合わせて、話を脱線させながら泣いたり笑ったりしている。いや、ホント、みんなよく泣きます(笑)。

私自身も、生徒としていろんなグループの中で学んできたけど、ウパーサナサンガは他に見ない特殊な形態かもしれません。それも、関係性の中の一つの結果なんだろうけれど。

みんなが自由に発言して、それをみんながちゃんと聞いていて、みんなが一緒に考えて、みんな素晴らしいですね、本当に。

私も、生徒の皆さんとの関わりの中で、沢山のことを教わってる。新しい発見と理解をいただいているし、本当に美しいものを、いつも、いつも見せて貰ってる。


子供の頃、学ぶということは、大人に押し付けられた義務だった。

しかし、大人になって、学ぶことが、知的な欲求を満たす快感であることを覚えた。

これはね、実は、落とし穴ですよ。

こういった感覚的な喜びというのは、性的快感、味覚的快感などと同じで、所詮、一時的なものであって、相対的な世界で目的を見失って、学ぶという行為に溺れ、迷子になっていく大人たち。

虚しい。

私はきっと欲深い人間だから、もう虚しいのは嫌なんだ。

走馬灯のように、現れては消えていくものたちを、追いかけるのはもういい。

ずっと無くならないものが欲しい。

みんなにも虚しくないものをあげたいんだ。


例えばインドの知識体系にも、様々な学派がありませすが、学びの行為に溺れ、精神的近眼に陥っていると、全体像が見えなくなる。全体像が見えなくなると、目的を見失う。

目的を見失うと「私」と「私の」善しか見えなくなる。


それら全ての知識体系が何千年も保全されてきたことには意味がある。意味があるというのは人類の究極の福利、そう、メリットがある。

もし、どこかで学んでいて疑問に思ったら、この教えが人類にもたらす福利とは何ですかと、先生に聞いてみたらいいと思います。

知的好奇心が満たされるとか、知ってると人から尊敬されて集客が倍増(笑)みたいなこと言われたら、はい、それまでよ!ってことで。

私が先日、ある翻訳本を読んで「なんじゃ、こりゃ!こんなの出版しちゃだめだよ!」とSNSで呟いてしまったのは、その本が目的を見失った「迷子」だったからです。

私たちは、たとえ一時的でも、人に伝える仕事をしている以上、心の中に、たった一つの「それ」をきちんと見据えていないといけないし、「私」の善だけしか見えないなんてことにならないように、心をキレイに掃除しておかないといけないと思う。


そんな時に、脚本家の倉本聰のインタビューの映像を見て、非常に共感しました。


「加藤道夫という劇作家の『ジャン・ジロドゥの世界』という小さい本の、" 街を歩いていたら良い顔をした男に出会った。きっと良い芝居を見た帰りに違いない "という言葉を読んでこの道に入った。良い顔になった人は、人に良い顔を伝染せるから。」


「(観る人の)心を洗う、僕は自分の仕事を心の洗濯屋だと思っている。それが一生かけての僕の仕事だよね。」

「(表現者として何に気をつけておけばいいかというと)心の中のピュアさだと思う。八千草薫さんの綺麗さ美しさっていうのは心の綺麗さだと思う。歩いてきた人生の中での、対処する物への・・・本当に心の綺麗さだと思う。だから何をやってもあの人は綺麗だよね。」


「みな発信技術ばかり身につけようとするんだけど、発信技術が30%だったら受信技術は70%ですよ。」

「実際に我々は普通の社会を見てその中で暮らしているのだから、普通の社会のなかにこそ無限に教材がある。」


・・・・というような事をおっしゃっていました。

アンタッカラナシュッディの大切さというのは、人の普遍的な必然だよね。それはシャバ=行為の世界でしか出来ない。どれだけ聖典を読んでいても、これを忘れていたら、ワークしない。

私は、生徒の皆さんの良い顔に、本当に心を洗われているなあって思います。

ありがとう。